8月 19 2014
日本人の扇子
人間の意識というのは空間に対しても時間に対しても、いつも繰り広げや拡張、延長といったイメージで捉えてしまうクセを持っているよね。でもね、そのウラには逆のクセを持った「人間の反対の意識」というのがあるんだ。それを目覚めさせなくちゃいけない。
この「反対の意識」というのは、文字どおり拡張や延長の反対だから、空間や時間を折り畳んだり、縮めたりしている。人間の意識に対する反作用と言ってもいいね。で、本来、日本人ってのはこの反対の意識への感覚が生活の中に根付いてたりもするんだ。
たとえば、扇子とか提灯をイメージしてみるといいよ。扇子は半円を線に畳むし、提灯は円柱を円に潰すでしょ。風呂敷だって平面を小さく丸め込む。。この感覚。こうした空間をコンパクトにさせる感覚が反対の意識というもので、これは反対の意識が働いているエーテル空間(シュタイナー)のイメージから派生してきていると思うといいんじゃないかな。
反対の意識が顕在化してくるとね。今まで僕らが最も次元が低いと考えていた「点」という次元が、逆に、すべての時間と空間を畳み込んだ世界なんだという感覚が強く生まれてくる。
どういうことかというと、例えば目の前の視線をイメージしてみるといいよ。視線はどこに行こうが、何を見ようが、視線であることに変わりはない。この視線が単なる空間上の線分とちがうのは、常に見るものと見られるものとを結びつけている一本の線だというところにある。つまり、視線の中を世界側が移動してきて、世界にある無数モノをこの視線の中に出現させてくるわけだ。
そういう見方をすると、視線はユークリッド的な線分とは全く違うものだということが分かってくる。数学的にいうと、それは射影直線的なものなんだね。射影直線というのは面の次元が一本の線の中に縮約されているようなものと思うといいよ。3次元空間を面の回転体として考えるならば、その回転軸が視線となっているという見方もできるんだね。
そして、視線はいつも言ってるように、奥行き方向さえもその射影的性質によって潰して、点的なものにまで縮めているでしょ。つまり、見る側の空間というのは見られる側の空間とは全く逆の性質を持っているということ。このことに気づかないといけない。
この見る側の空間に供給されているのがOCOT情報のいう「反対の意識」というヤツなの。これは時間や空間が持った拡張性や延長性に対して全く逆の方向で働いていて、時間や空間の中にあるものではないんだよね。
それが展開している世界が実は時間や空間の中では素粒子として観察されているものなんだ。つまり、人間の意識とは正反対の方向を持っている反対の意識が作る構造体が、素粒子だってこと。だから、素粒子はエーテル空間(反空間)の知覚能力がないと「それが何か」は絶対、分からないよ。
実際、物理学も素粒子を時空の「コンパクト化」によって生まれるものとは考えているんだけど、そのコンパクト化が意味していることの実態が分からないでいるんだ。見ている観測者を組み込めばいいだけの話なんだけどね。。
馬鹿みたいな話だろ。ほんと。
このからくりを見破るのは日本人の扇子にしかないと思ってる。センスね(笑)
12月 5 2018
オコツト情報原文botに触れて
@ocotsource_bot
―モノにも意識があるとおっしゃいましたが、それは反対の意識という意味ではないのですね。
「全く違います。」
―では、モノと反対はどのように関係しているのですか。
「それを今から作らなければならないのです。」
19901005
20:07 – 2018年9月11日
以前ネットに上げていたOCOT情報の記録を誰かがダウンロードしてbotで流している。ヌーソロジー以上に抽象度が高いから、皆んな、頭を掻きむしりたくなるかもね。それにしても、今見ると、ほんと奥深いことばかり言ってる。こんなもの、よく解読する気になったものだ。自分を褒めてあげたいね(笑)
モノにもある意識―それは、哲学でいう物自体のことだ。人間は物自体に方向付けらけているからこそ、人間として在ることができる。その連結を保っているのが人間の反対の意識の領域だ。その反対の意識を意識に上げていくこと。そのとき、反対はモノと一致していく。それを今から作らなくてはいけない。
まぁ、それを30年近くやってきたんだけど、まだまだだね。
ヌースアカデメイアのメルマガに寄せられる質問に一つ一つ答えていっているのだけど、今回はたまたま「個」についての質問だった。この「個」の本質がモノと一致していく反対と深く関係している。自己と他者は本来、どういう関係でイメージされるべきなのか。
人間の個とは何のために存在しているのか。また、自己と他者は本来、どういう関係でイメージされるべきなのか。このへんは、多分、ヌーソロジーの真骨頂になっていくじゃないかね。
メルマガではカントの話を少ししたんだけど、今の世の中はカント的常識人が多すぎないかね。それが悪いとは思わないけど、この息苦しい近代を終わらせるためにはカントを超えないと。これは時間と空間を超えた場所に人間の居場所を移動させることと同じ。付帯質の外面から付帯質の内面への移動。
OCOT情報が言っている「人間の反対とモノとの一致」も、そこで為されていく。ヌーソロジーが素粒子について執拗に語っているのも、そうしたパースペクティブで未来を見ているから。現在の時間軸上に到来してくる未来じゃなくて、いきなり割り込んでくる純粋未来ってのがあるんだよ。
肉体は仕方ないけど、精神だけは時間に捕まえられてはいけないよ。
捕まってたまるか、の精神で生きないとね。
ちなみに、ヌーソロジーに興味があって、まだメルマガ読んでない人はこちらまで。もちろん、購読無料!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, カント, 反対の意識, 素粒子