4月 2 2014
丸まった前の空間
ツイッターで何気につぶやいた「丸まった前の空間」の話が意外に受けがよかったので、今日はその続きを少し補足。。
【前回分】
後ろの空間と前の空間の間に空けられた窓。それが視界だと考えよう。そして、その場でグルっと回ってみる。後ろに想像されている広大な空間の中に前の空間が丸まっているのを感じられるようになればOK。それが君の魂である。嘘は言わない。丸まって感じることができていればの話だが。。
丸まって感じることができた人は今まで点と呼ばれていたものを球面に変えることができた人。物質と精神の境界を発見することができた人。闇と光の境界を発見することができた人。死と生の境界を発見することができた人である。たぶん、冗談抜きで。
——アヌビスは水平な円であり、これにより「目に見えないもの」、すなわちネフテュスと、「目に見えるもの」、すなわちイシスが分割される。この円は光と闇の境界に存在し、光と闇に共有されている—— プルタルコス
【本日分】
後ろの空間と「丸まった前の空間」の違いを感じた人は「こころを発見した人」と言えます。そういう人たちは、自分がぐるりと回ったときに、後ろの広大な空間に包み込まれた「前の丸まった空間」を感じ取ることができるはずです。わたしたちが普通、外の世界と呼んでいるものは実は後ろの空間なのです。
この外の世界の中で、「前の丸まった空間」がどういうふうに見えているかというと、小さな小さな粒のように現れています。昔の日本人はこのことを知っていました。だから心のことをココロ、小さな粒(コロ)と呼ぶのです。
物理学が素粒子と呼んでいるものは、この心が作っているネットワークのことと思って下さい。外の世界の延長としてこのココロの中に入ることはできません。物理学は外の世界の概念しか持っていないので、この領域は不確定性領域などと言って難しく語られてしまうのです。
ココロは外の世界で表現されると波動になります。ココロの世界を井型で取り囲んでその井型を直線で延ばしたものが時間と空間と呼ばれている世界です。こうした延長性でココロを表現しようとすると、ココロはこの直線上を文字通りコロコロと転がっていくものとして表現されます。この転がりが波動です。
波動として現れたココロに敢えて意味付けをするとすれば、それはココロが外の世界に翻弄されているとも言えるでしょう。今の人間の空間認識では前と後ろの区別ができていないのですから、当然のことです。
さて、この「前の丸まった空間=ココロ」ですが、ここは永遠の世界です。時間や空間はすべて後ろの世界のネットワークが作り出しているもので、「前の丸まった空間」の中には存在していません。
まもなく人間の思考はこの「前の丸まった空間」の中をフランチャイズとして働き始めると思います。「光の箱舟」の発進が始まります。今まで人間が死と呼んでいたものが開き始めるということだろうと思っています。
9月 25 2020
ヌースが「奥行き」に至るまでの長い道のり
今度の日曜日のヌースビギナーズラック#6。素粒子の話がテーマなので、『光の箱舟』の共著者である砂子岳彦氏をゲストに呼ぶ予定でしたが、機材の能力不足でSkypeの音量調整が難しいということが分かり、断念しました。誠に申し訳ないデス。
佐藤氏亡き後、専門家でヌーソロジーと同じ方向で素粒子の世界を見ているのは砂子氏だけなので、その考え方を皆さんにも紹介したかった。本当に残念。まぁ、いずれ生出演で呼ぼうと思っていますが。
もともと、「素粒子とは人間の意識構造である」と伝えてきたのはOCOTで、その理解こそがこれからの人間を大きく変えていくと言っていたので、ヌーソロジーにとっては、素粒子物理の基盤となる量子力学の構造は意識の見取り図も同然のものなんだよね。
ところが、この見取り図自体が非常に難解なもので、正規の教育を受けてない人はまず歯が立たない。複素数の行列で表現される数式もさることながら、交換関係とか、演算子とか、考え方が根底から違っていて、一体何をやってるのか概念的にさえつかめないんだよね。
ミクロの世界は僕らの生活している3次元世界とは存在の形式がまるっきり違うってこと。もっと言うと、人間の表象能力の外部にあると言ってもいい。だから、それは量子物理学とは呼ぶものの、もはや物理的対象の世界ではない、とも言えるわけだね。
で、問題はミクロの空間がなんでそんなヘンテコなことになっているのか、ということ。その理解がなければ、量子力学の数学的理解はできたとしても、量子とは何かについては永久に分からない。
僕の場合は、量子力学より先に、OCOTたちの世界観を仕込まれた。それは意識構造を鉱物の結晶のようなカタチとして見てる世界観なんだよね。何で意識の構造が結晶のようなカタチになるかと言うと、そこは時間が流れていない世界だから。本来、カタチは時間のない世界の産物だと言うのがOCOTの弁。
この辺がとてもプラトンっぽいよね。イデアというやつだ。で、垂子やら、垂質やら、精神球やら、聞いたこともない言葉を通したやりとりが始まった。最初はほんとに何一つとして分からなかった。多分、初めてヌーソロジーに出会した人の分からなさより、その百倍くらいはあろうかという分からなさ(笑)
僕の90年代の人生は、ほとんどこの分からなさとの格闘で費やされたと言っても過言じゃないね。寝ても覚めても、自分の内側に入り、無意識のカタチを探し求めて彷徨った。5年ほどしてようやく、カタチのイメージ生まれ始め、そこから今度は物理学の本とのにらめっこが始める(笑)
そして、これがまたサッパリ分からない(笑)。結局、最初は分からないものを分からないものと照合させながら、そこに共通の分かる「何か」はないかという、自分自身が触媒になった感覚で、OCOT情報と量子本とのにらめっこの反復が続いたわけだ。まぁ、これは今でも続いてるけどね。
もちろん、まだすべてが分かったわけじゃないんだけど、内的なカタチの思考から始めたのは正解だったと思う。というのも、数式で表現されている量子が最初から内的なものとして感じられたから。普通は、量子を外的なものとイメージしている人がほとんどだろうから。
で、問題はミクロ世界がどのようなシステムによって人間の内とつながっているのかということ。量子を記述する複素数の形式にそのヒントは隠されているということはすぐに分かったんだけど、その謎が解けるのにも結構、時間がかかった。
この辺りの思考はゼロ年代に入って、ドゥルーズとか、ベルクソンとかメルロ=ポンティとか、哲学系の本を読んだのが良かった。最終的にその接続のイメージは「奥行き・持続・収縮・無限小」というターム群でクリアに浮き上がってきたんだね。
こうやって、物の外部と内部は人間自身を通して「奥行き」で繋がっているという反転の理路が完成したわけ。今ではもう確信に変わってます。
ただ、この確信が主観的確信じゃショーモないので、ミクロの物理法則の事実性と合致させるために、亡き佐藤氏や砂子氏、そしてφさんといった面々と検証作業を続けているわけですね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー • 0 • Tags: OCOT情報, イデア, ドゥルーズ, プラトン, ベルクソン, メルロ=ポンティ, 光の箱舟, 奥行き, 素粒子, 量子力学