3月 7 2013
位置の等化と単位円
ここのところ、MacのQuick Timeに装備しているスクリーンショット機能を使ってヌーソロジーの基礎的な概念を複素平面を使って解説しているのだが、この説明方法も概念が抽象度を増していくにつれて、たぶん通用しなくなってくるかもしれない。。とほほ。という不安を持ちつつ、前回の続き。
今回はヌーソロジーでいうところの「位置の交換」と「位置の等化」という概念を説明しようと思う。「位置の交換」とは今まで僕らが主体と客体と思っていた位置の関係を入れ替えることを意味するのだが、ヌーソロジーにおいてはこの意識的な作業が2013年以降始まる意識進化の第一歩となる作業だと考えている。この「位置の交換」の内容とは、よく神秘家たちが語る「見るものとは見られるものである」とか「対象を見ている者は対象の位置にいる」といった内容を指すが、単なる直観だけではそれは一般化させることができない。ヌーソロジーはその直観の内容をより力強く意識に定着させるためにその直観が働いている背景の構造をより具体的に記述し、その構成を何度も反復することにより、徐々にこの直観の在り方を新しい日常にしていくことを狙っている。
12月 10 2013
位置の交換に潜む真意
わたしたちは空間に潜むあるねじれとひきかえに世界から主体へと静かに遷移している。この「あるねじれ」は反転認識のことでもあるのだが、このねじれを同一性から差異への移行の風景として見ても何ら問題はない。
このねじれは今までは潜在的なものとして存在していたものであり、唯物論的に制度化された思考の中ではなかなかそれを見出すことは困難だったが、それは一つの超感覚的知覚として確実に浮上し始めている。
この捻れは外部を内部へと巻き込んでいる。見えない渦が猛烈な勢いでミクロへと流れ込み、われわれに認識の反転を促しているのだ。その渦が感覚化されてくると、主体が創造の原初へと方向づけられていることが分かってくる。この役割を担っているのが物理学が光子と呼んでいるものである。
物理学において内部空間が複素空間として表現されるのは、そこでは同一性と差異の関係がそれこそ存在論的差異として明確化されているからだろうと思う。シンプル言えば、幅と奥行きだ。
そこは時空と真反対の性格を持っていて、同一性(幅)が差異(奥行き=純粋持続)に従属していく空間になっている。この空間での統合(回転)は新たなる差異の発生の意味を持ち、いかなる同一性に回収されていくこともない。
複素空間で記述される量子力学の形式的な展開を見ていると、複素空間自体が精神が持った力能の数学的表現と言っていいもののように思えてくる。その力能とは一言で言えば、有限性の中に無限を内包させていく柔軟性だ。
そこにおいて回転が作る円や球はベクトル(線分)へと収束させられ、それがまた回転によって次元を拡張し云々〜、といった形で空間を次々に巻き取り、襞の多重性を表現していくのだ。その意味で単位円とは真の無限性であり、あらゆる生成を飲み込んでいく無始無終の精神の形象化のようにも見える。
さて、人間が居住する時空はといえば、複素空間が作り出すこうした空間の無限の多重なる襞は物質として現れ、空間自体は単なる容器としていかなる多重性も持たない弛緩の極限物として表象されている。
ドゥルーズは言っていた。マクロな知覚は、ミクロな知覚の間に確立される微分的関係の産物なのである。それゆえ意識の中に知覚されるものを生み出すのは無意識の心的メカニズムである——と。このメカニズムは量子力学(非相対論的)が場の量子論(相対論的)へと発展するときの構造変動の中にある。時空は量子から生まれる産物なのである。
マクロな知覚は3次元知覚に倣いそれは局所的な「いま、ここ=瞬間、局在」の上に生じている。一方、ミクロな知覚は内部空間知覚に倣い、非局所的な「いま、ここ=永遠、遍在」の上に生じている。前者は同一性の海。後者は差異の渦である。
わたしたちは幅と奥行きの間に絶対的差異を見出し、この差異の渦の中に侵入していかなくてはならない。新たな創造の扉はすでに開いているのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ドゥルーズ, 位置の交換, 奥行き, 複素空間, 量子力学