11月 29 2013
5次元空間の回転を巡って
Sさんに習ったSp(2)→SO(5)は面白かった。SO(5)というのは5次元の回転群のことだけど、これを行列で示すと形がガンマ行列に酷似してくる。ガンマ行列は主観と客観の形成の位置ではないかと考えているので、意識の発生はユークリッド的には5次元で起こっていると予想される。
この構造を巡ってSさんといろいろと議論したのだけど、イメージがかなり重なり合った。4次元で対象の内部性と外部性を構成したあと、5次元で今度はその両者を捻るような交差が起こるのだ。そこに内部から外部へ、外部から内部へという志向性が生まれてくる。前者が客観で、後者が主観に当たる。
これはポスト構造主義の問題意識とも深く関わっていて、象徴界(言表可能性)と想像界(知覚可能性)の間の亀裂(現実界)の構造を示唆していると思われる。人間の認識は対象が与えられたところからしか生まれない。対象そのものの起源は「もの自体」としてそのまま不問にされる。
ドゥルーズなんかはその「もの自体」の世界(創造空間)へと差異の思考を携えて果敢に入っていこうとしているのだが、残念ながらその構造性が今ひとつ定かではない。現在の人間にとって何よりも需要なことはこの言葉と知覚の間の亀裂を埋めることのように思えてならない。
その連結の構造が数学や物理学が先取りして記述しているというのは、ほんとうに驚異的だ。願わくば、Sp(2)=SO(5)といった単なる記号の羅列に終わらせるのではなく、そこで示された構造にわたしたち自身が侵入していくことが望まれる。それは不可能ではない。
考えてみれば、すでに1989年の段階でこのSp(2)→SO(5)のビジョンはOCOT情報によって送られてきていた。僕が「ヌースコンストラクション」と名付けたものだ。OCOT情報は「5次元球」、もしくは「覚醒球」と呼んでいたっけ。。
12月 25 2015
客観と主観の狭間で
霊性を意識して生きようと努めれば努めるほど、意識の外向性と内向性の葛藤は強くなってくる。その葛藤に嫌気がさして内的世界に引き蘢る人たちも少なくはないだろう。こういうとき物知り顔のグルたちは「社会的個と精神的個のバランスを取れ。バランスが大事なのだ」と常套句でハッパを掛けてくる。
正しいことを言ってそうだが、これは間違っている。「本当は徹底的に内的になれ!!」でいいのだ。そして、徹底的に内的になった先に外的なものへの開きがある。その開きにおいて人は内的であることと外的であることが全く同じことであることを知る。そこでのバランスはもはや葛藤ではなく調和である。
別の言葉で表現してみよう。主観と客観は常に対立する運命にある。それらは「最終的に一致するのだ」とヘーゲルのように嘯いてはダメだ。そういった一致は化け物しか生み出さない。なぜなら、これらは受動的な主観であり、客観にすぎないからだ。無意識に手玉に取られている。
徹底して内的になるという選択を、ここでは能動的主観と言い換えてみよう。この能動的主観が力を持ってくると、そこに必ず能動的客観というものが育ってくる。それが「外的なものへの開き」が意味することだと思うといい。
この能動的客観のもとに出現してくるのが「もの」だ。これは受動的客観のもとに現象化していた「物質」とは全く違う存在だ。
この「もの」は能動的主観が持った内的樹液に満たされており、また、他者の内的樹液との交感をも果たし、そこで内震えている。つまり「ある(存在)」ではなく、「なる(生成)」と化している。
こうした、意識の「受動的組織化」と「能動的組織化」の違いは、思考される空間の質の違いから生まれている。それが「幅」と「奥行き」なのだ。空間の質を延長から持続へと変えること。そして、その持続のもとで新しい知性を出現させること。それによって、意識は能動的なものへと転身を諮ることができてくる。
能動的客観を通して立ち現れてくる「もの」の世界は,おそらく無尽蔵のホスピタリティ(歓待)で溢れていることだろう。それを現実のものとするためにも、僕たちは世界をまずは奥行きで満たされた空間に変えていかなくてはならない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 5 • Tags: 主観と客観, 奥行き