2月 1 2023
夜明け前
空間には一次的な空間と二次的な空間がある。一次的な空間が奥行きで、二次的な空間が幅。というのも、奥行きナシでは幅なんて見えないから。人間の場合、なぜか幅が先手に来て、奥行きが後手に回ってしまっている。奥行きに幅をあてがって、奥行きが分からなくなってしまっているということ。
奥行きとは持続としての精神の場。つまり君自身。物質のすべては、この奥行きから作り出されているのだけど、幅が先手に回った意識にはこのことがまったく分からない。自分と物質なんて何の関係もないと思ってる。
だから、空間に3次元を見ている限り、人間は自分のことなど永遠に分からない。ほんとうの自分の亡骸を物質として見続けるだけ。自分に目覚めたいのなら奥行きに目覚めよう。そして、そこから世界を再構成していくこと。
「ずん!!」と一気に入ればいい、奥行きに。それによって初めて実像としての宇宙が君の前に現れてくる。姿も見えず声も聞こえないかもしれないけど、そこには過去のすべての死者たちが姿を変えて生きている世界がある。そうやって生者と死者を繋ぐイメージを作ること。秘儀参入の場なんだよ、奥行きは。
幅の空間世界から、この奥行きの空間の生態を事細かに調べているのが量子力学の世界だと思うといいよ。つまり量子力学というのは、奥行きの世界の詳細な地図になっているということ。そこでは奥行きと幅の関係が虚軸と実軸として表現されていて、奥行きに幅が従者のように付き従っている。
存在の外に疎外されていた人間が存在の内に入っていくという歩み入り。この風景が見えてくると、物理学者たちによる長年の営為の意味がはっきりと分かってくる。それは「存在の声に傾聴しながらそれを正しく守り言葉にもたらす」ことに努めてきたということ。ロゴスからプシュケーへの橋渡しだ。
あとはヌース(能動知性)の登場を待つのみ。世界は今、そのような状態にある。
2月 17 2023
初めの言葉と終わりの言葉
有と無。この関係がまるまる逆転しているのが人間の意識の在り方と言っていい。
人間にとっては物質世界(存在者)が有で、精神の世界(存在)は無。
しかし、ほんとうは精神の世界(存在)が有で、物質世界(存在者)が無。
だから、「存在とは無」なんていうややこしい言い方が生まれてしまう。
この転倒関係がしっかり頭に入れば「なぜ無ではなく何かが存在するのか」というライプニッツの問いに対し、「なぜそもそも存在者があるのか、むしろ無があるのではないのか」と、その問いを言い変えたハイデガーの意図がよく分かるのではないかと思う。形而上学とは違って存在論は世界の見方が逆なんだね。
人間の悟性や理性は存在者にはアクセスできるけど、存在にはアクセスできない。一方、人間の感性は存在には現存在としてアクセスできるけど、存在者にはアクセスできない。というのも、存在者とは言葉の産物だから。つまり、言葉は知覚できないってこと。
「じゃあ言葉って何よ?」ということになるのだけど、それは存在の、更なる奥の存在としか言いようがない。それを”真存在”とでも呼ぶのであれば、言葉こそがもっとも深い存在とも言える。イデアよりロゴスの方が深い。「言とは神なりき——」。まさに、そういうこと。
そして、このロゴスと癒着してしまっているのが物質=存在者の世界なわけだ。ただ、この癒着を切らないと、中間的存在としてのイデアは決して見えてこない。そして、イデアが見えないとロゴスの世界も見えてはこない。
実は、時空→素粒子→重力の関係も同じ。今は時空が重力に囚われの身になって、素粒子の方向にまったく気づけていない。そして、ほんとうは素粒子を超えたところで重力は働いている。
ハイデガーが「むしろ無があるのではないか」と存在者の世界を疑ったのも、そこには”存在”が欠落しているからだ。
まさに聖書が言うように、わたしたちは「始まりのロゴス」の中に生きているにすぎない。このロゴスは終わりのロゴスの痕跡だ。このロゴスには、存在=イデアという中身が何もない。
それが問題なのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: イデア, ハイデガー, ライプニッツ, ロゴス, 素粒子