4月 15 2022
サロンで「スピナーズのための量子力学教室」を始めます
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか―
ライプニッツが投げかけた哲学史上究極の「ナゼ?」。この問いはひょっとして究極の愚問でもあるのでは? と僕なんかは思っている。というのも、ここには「無」を先行させてしまった一神教的な思考の臭いがプンプンと漂っているからだ。東洋人としての僕としては、一言「妙」と言ってしまえばそれで済む。そして「妙」には理由などない。
この「無」の先行性の呪いが僕ら現代人の思考を歪ませている。宇宙の始まり、地球の始まり、人間の始まり・・・元々なかったものがあるようになったという「始まり」のイメージ。果たして本当だろうか。この思考のイメージ自体がどこかおかしいのではないか。「ない」は「ある」の反映にすぎない。でも、何を考えるにつけ、僕らの思考は反映の方が先手をとっている。
OCOT情報はこうした「無」の先行性のことを「付帯質の方向性」と呼び、これが人間の意識の方向性を規定しているともいう。付帯質とは無のことであり、これは同時に否定の先行性をも意味しているわけだ。ある=肯定、ない=否定。その意味で、OCOTからすれば、人間とは常に否定性を先行させた生き物に見えているのだろう。
否定性が先行してしまうと「ない」が「ある」になり、「ある」が「ない」になってしまう。例えば、人間は時空が「ある」と考える。果たして時空は本当にあるのだろうか。ひょっとして、時空があるとされることによって、本来の「ある」が「ない」とされているのではないだろうか。その本来の「ある」が、いつも言っている「持続」のことだと考えるといい。
空間的に表現するとこの転倒の意味がよりハッキリしてくる。最初に幅(時空)があった。そこに後で奥行き(持続)が現れた。幅を見られるものの世界、奥行きを見るものの世界とすれば、これは物質から精神が生まれたと言っているも同然だ。では、その最初の幅は一体どこからやってきたのか?
―神から
これが現在の人間の思考法である。
ハイデガーのいう「存在が隠蔽されている」というのも、そのような意味だと考えるといいと思う。ヌーソロジーの文脈から言えば話は単純で、「持続としての奥行きが隠蔽されている」のである。
さて、この隠蔽された奥行きを力強く開いていくためには量子に関する知識が不可欠だと考えるのがヌーソロジーだ。この4月から物理の専門家である砂子さんにお願いして、サロンで「スピナーズのための量子力学教室」を始めることにした。量子力学と聞いて臆する必要はまったくない。ヌーソロジーの目に映る量子とは奥行きに生きる私たち自身の姿でもあるので、ここで展開されていくのは自己知としての量子論ということになる。
その意味でとても学びがいのある講座になると思う。砂子さんの講座と並行して、ヌーソロジーからの解説も合間合間に入れていくと思う。おそらく前代未聞の量子解釈が展開されていくことになるだろう。僕なんかは、従来の量子イメージがまったく別のものへと変わっていき、それこそたくさんの”スピナーズ”が続々誕生していくんじゃないかと思ってる。
2月 17 2023
初めの言葉と終わりの言葉
有と無。この関係がまるまる逆転しているのが人間の意識の在り方と言っていい。
人間にとっては物質世界(存在者)が有で、精神の世界(存在)は無。
しかし、ほんとうは精神の世界(存在)が有で、物質世界(存在者)が無。
だから、「存在とは無」なんていうややこしい言い方が生まれてしまう。
この転倒関係がしっかり頭に入れば「なぜ無ではなく何かが存在するのか」というライプニッツの問いに対し、「なぜそもそも存在者があるのか、むしろ無があるのではないのか」と、その問いを言い変えたハイデガーの意図がよく分かるのではないかと思う。形而上学とは違って存在論は世界の見方が逆なんだね。
人間の悟性や理性は存在者にはアクセスできるけど、存在にはアクセスできない。一方、人間の感性は存在には現存在としてアクセスできるけど、存在者にはアクセスできない。というのも、存在者とは言葉の産物だから。つまり、言葉は知覚できないってこと。
「じゃあ言葉って何よ?」ということになるのだけど、それは存在の、更なる奥の存在としか言いようがない。それを”真存在”とでも呼ぶのであれば、言葉こそがもっとも深い存在とも言える。イデアよりロゴスの方が深い。「言とは神なりき——」。まさに、そういうこと。
そして、このロゴスと癒着してしまっているのが物質=存在者の世界なわけだ。ただ、この癒着を切らないと、中間的存在としてのイデアは決して見えてこない。そして、イデアが見えないとロゴスの世界も見えてはこない。
実は、時空→素粒子→重力の関係も同じ。今は時空が重力に囚われの身になって、素粒子の方向にまったく気づけていない。そして、ほんとうは素粒子を超えたところで重力は働いている。
ハイデガーが「むしろ無があるのではないか」と存在者の世界を疑ったのも、そこには”存在”が欠落しているからだ。
まさに聖書が言うように、わたしたちは「始まりのロゴス」の中に生きているにすぎない。このロゴスは終わりのロゴスの痕跡だ。このロゴスには、存在=イデアという中身が何もない。
それが問題なのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: イデア, ハイデガー, ライプニッツ, ロゴス, 素粒子