6月 28 2017
なぜ奥行きの発見が重要なのか
僕らが持った世界観の一番の問題点は、世界を見る眼差しが一般化してしまっていて、自分を一般/特殊の関係(人類と人類の中の「自分」という個別性)の中でしか捉えることができなくなっているところにある。これは経験から立ち上がってきた関係性だから、そうした見方の中では、いつまで経っても創造的な領域には出ることはできない。
ほんとうの世界はそうはなっていないんだよね。それが量子論が差し示している「非可換」という概念の本意なんだ。非可換とはAB=BAが成り立たない世界のことを言う。つまり、AB-BAがゼロにならない世界のこと。
意識との関連で普通、量子論が話題になるときは、「量子は粒子でもあり波動でもある」とか、「時空を隔てていても繋がってる」とか、そんな話が真っ先に上がるわけだけど、一番大事なことは、この非可換性。「すべてが一つ」とか言って、この非可換性について語らない量子論スピは危ないから、気をつけて(笑)
奥行きの発見がなぜ大事なのかというと、奥行きがこの非可換性とダイレクトに関係しているからなんだよね。
どういうことかと言うと、奥行きは特異なもの(単独性でもいい)であり、他のそれとは決して交換できるものではないということ。ここに尽きるね。哲学者のメルロ=ポンティが生涯、この「奥行き」にこだわって思考し続けた理由もそこにあるんだけどね。
僕らは普通、奥行きに幅(距離)をもたせて空間をイメージしている。奥行きに距離を持たせてしまうと、「見ているもの」は単なる肉体になってしまう。最初に言ったことだね。そういう考え方をしてしまうと、奥行きは単に僕の目の前にある距離というかたちで、一般性の中の個別性になってしまう。これは時空の一部だから、他者のそれと変換が可能だ。あの人のところに僕が行けば、あの人が見ている風景が僕には見えるはずだ、という思い込み。物理学的には、それがローレンツ変換というものに対応している。時空上の座標の変換を行うわけだね。
実際、過去の哲学者たちの多くも、自分の眼差し(奥行き)をそのようにしか扱っていない。真正の奥行きが持つ「単独性(特異性)」というものがよく意識化できていないんだ。
実は、この距離としての奥行きの下に、一般性/特殊性を逃れた特異性(決して交換できないもの)の眼差しというのが存在していて、それがヌーソロジーが「真正の奥行き」と呼んでいるものだと思っていただければ、と思う。
じゃあ「それは何処に?」ということになるわけだけど、それが無限小の複素空間という場所にある、と言ってるわけだね。いつも言っている、奥行き=虚軸とはそういう意味。奥行きに距離が見えないのも、奥行きが射線そのものとしてミクロに入り込んでいるからであり、その入り込みが君自身の精神(持続)そのものの有り様だと言っているわけだ。
で、その世界では、最初に言った非可換性というのは[x,p]= xp-px = i(h/2π)というかたちで現れる(物理学では位置xと運動量pの交換関係という言い方をします)。xは幅、pは奥行きと考えていい。つまり、幅が先行するか、奥行きが先行するか、その両者の間にはi(h/2π)という差異があるということ。このi(h/2π)の「i」とは虚軸なわけだから、ここに現象が立ち上がっていると思うといいよ。そこから、幅側に落ちるか、奥行き側に止まるかは、君次第ということになっている。まぁ、もっとも人間の場合は全員が幅側に落ちてしまっているわけだけど。
この場所は、もはや特殊性(経験的自我)の居場所でなく超越論的なものの場だ。超越論的なものの場とは、経験的な意識を成立させている(無意識的な)諸条件を形作っているところと考えるといい。語弊はあるけど、「ほんとうの君がいるところ」と言った方が分かりやすいだろうか。
それが見え出すと、時空は受精卵さながらに卵割を開始する。いや、これは比喩じゃないかもしれない。実際に受精卵が卵割を行って胚珠へと分化していく力は、人間の意識がほんとうの奥行きを発見していることと深い関係を持っている。
でね、時空という一つの領域が、卵割を始めると、次のような配置を取ると思って欲しい(下図参照)。
この図は、自己と他者が自分の真正の奥行きを発見して、奥行きと幅を虚軸と実軸に見なしたときの関係と思ってもらえばいい。
この二つの円は平面上でどう回転させようが決して重なり合うことはない。このことの意味をじっくりと考えてみて欲しいんだ。つまり、「あの人のところに僕が行けば、あの人が見ている風景が僕には見える」というのは全くのウソだということ。
一人一人が見ている宇宙は実は全く別物であるということを、この二つの複素平面の関係は物語っているんだ。
時空からのこの分離を意識化するところから、超越論的なものの意識(これも語弊があるけど、とりあえずは高次の自我意識と言っていい)への浮上が始まっていく。
右側の複素平面を右に90度回転させると、すぐに分かると思うけど、この二つの複素平面はいわゆる複素共役関係(虚軸の関係が互いに逆になっているということ)にある。数学では、複素共役は複素数を消し去り、実数だけの世界にしてしまうよね。それは自己と他者を一般性の空間に投げ込んでいることの数学的表現だと考えるといい。単なる数学操作なんかじゃないってこと。
今の社会は実数の世界しか知らないから、「おまえの代わりなんかいくらでもいるんだぞ~」とか言って、一人の人間をまるで物体のように扱う。時空と物質だけで世界を考えていると、必ずそういう「我-もの」の関係でしか他人を見れなくなるんだね。
「バカヤロー、オレにだって心というものがあるんだ!!」と叫んだところで、誰も聞いちゃくれない(笑)。
しようがない。世界の見方が歪んでいるから。だって、どんな人でも程度の差こそあれ、「我-もの」でしか世界を感じ取れなくなっているから。真正の奥行きが消え去った空間で生きているからどうしようもない。ここにはブーバーがいうような永遠の〈我-汝〉は現れようがないんだね。
さて、奥行き=虚軸、幅=実軸という考え方で、物理学の世界を探査していくと、そこはもうほとんど超越論的なものからいかにして経験的自我が生まれてくるか、その仕組みの精妙な見取り図のように見えてくる。つまり、人間の経験的自我を超越論的に条件付けているものが、実は物質の基礎である素粒子になっているということが分かってくるということだね。素粒子は物質なんかじゃないんだよ。とにかく、その認識が必要。
そこで、当然、次のような疑問が湧いてくる―じゃあ、素粒子から作り出されているこの大自然って一体何よ?
いいこと、聞くねぇ~。そう、その方向に「未知」を見よう。そして、その方向に世界を感じ取っていこう。言葉が古めかしく聞こえるかもしれないけど、それが古人(いにしえびと)たちが霊界と呼んでいた世界なんだ。
そして、そこは、生きながらにして入ってもいける。素粒子というものは、その入り口になっていると思うといいよ。
今回は長文すぎたね。ごめん。
9月 25 2020
ヌースが「奥行き」に至るまでの長い道のり
今度の日曜日のヌースビギナーズラック#6。素粒子の話がテーマなので、『光の箱舟』の共著者である砂子岳彦氏をゲストに呼ぶ予定でしたが、機材の能力不足でSkypeの音量調整が難しいということが分かり、断念しました。誠に申し訳ないデス。
佐藤氏亡き後、専門家でヌーソロジーと同じ方向で素粒子の世界を見ているのは砂子氏だけなので、その考え方を皆さんにも紹介したかった。本当に残念。まぁ、いずれ生出演で呼ぼうと思っていますが。
もともと、「素粒子とは人間の意識構造である」と伝えてきたのはOCOTで、その理解こそがこれからの人間を大きく変えていくと言っていたので、ヌーソロジーにとっては、素粒子物理の基盤となる量子力学の構造は意識の見取り図も同然のものなんだよね。
ところが、この見取り図自体が非常に難解なもので、正規の教育を受けてない人はまず歯が立たない。複素数の行列で表現される数式もさることながら、交換関係とか、演算子とか、考え方が根底から違っていて、一体何をやってるのか概念的にさえつかめないんだよね。
ミクロの世界は僕らの生活している3次元世界とは存在の形式がまるっきり違うってこと。もっと言うと、人間の表象能力の外部にあると言ってもいい。だから、それは量子物理学とは呼ぶものの、もはや物理的対象の世界ではない、とも言えるわけだね。
で、問題はミクロの空間がなんでそんなヘンテコなことになっているのか、ということ。その理解がなければ、量子力学の数学的理解はできたとしても、量子とは何かについては永久に分からない。
僕の場合は、量子力学より先に、OCOTたちの世界観を仕込まれた。それは意識構造を鉱物の結晶のようなカタチとして見てる世界観なんだよね。何で意識の構造が結晶のようなカタチになるかと言うと、そこは時間が流れていない世界だから。本来、カタチは時間のない世界の産物だと言うのがOCOTの弁。
この辺がとてもプラトンっぽいよね。イデアというやつだ。で、垂子やら、垂質やら、精神球やら、聞いたこともない言葉を通したやりとりが始まった。最初はほんとに何一つとして分からなかった。多分、初めてヌーソロジーに出会した人の分からなさより、その百倍くらいはあろうかという分からなさ(笑)
僕の90年代の人生は、ほとんどこの分からなさとの格闘で費やされたと言っても過言じゃないね。寝ても覚めても、自分の内側に入り、無意識のカタチを探し求めて彷徨った。5年ほどしてようやく、カタチのイメージ生まれ始め、そこから今度は物理学の本とのにらめっこが始める(笑)
そして、これがまたサッパリ分からない(笑)。結局、最初は分からないものを分からないものと照合させながら、そこに共通の分かる「何か」はないかという、自分自身が触媒になった感覚で、OCOT情報と量子本とのにらめっこの反復が続いたわけだ。まぁ、これは今でも続いてるけどね。
もちろん、まだすべてが分かったわけじゃないんだけど、内的なカタチの思考から始めたのは正解だったと思う。というのも、数式で表現されている量子が最初から内的なものとして感じられたから。普通は、量子を外的なものとイメージしている人がほとんどだろうから。
で、問題はミクロ世界がどのようなシステムによって人間の内とつながっているのかということ。量子を記述する複素数の形式にそのヒントは隠されているということはすぐに分かったんだけど、その謎が解けるのにも結構、時間がかかった。
この辺りの思考はゼロ年代に入って、ドゥルーズとか、ベルクソンとかメルロ=ポンティとか、哲学系の本を読んだのが良かった。最終的にその接続のイメージは「奥行き・持続・収縮・無限小」というターム群でクリアに浮き上がってきたんだね。
こうやって、物の外部と内部は人間自身を通して「奥行き」で繋がっているという反転の理路が完成したわけ。今ではもう確信に変わってます。
ただ、この確信が主観的確信じゃショーモないので、ミクロの物理法則の事実性と合致させるために、亡き佐藤氏や砂子氏、そしてφさんといった面々と検証作業を続けているわけですね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 02_イベント・レクチャー • 0 • Tags: OCOT情報, イデア, ドゥルーズ, プラトン, ベルクソン, メルロ=ポンティ, 光の箱舟, 奥行き, 素粒子, 量子力学