8月 4 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その5
フッサール哲学とハイデガー哲学の差異を生命の樹で表すとすれば、フッサールがアッシャー領域の内部を網羅して見せたのに対し、ハイデガーはその外部を開いて見せ、同時にその外部へと向かうためにアッシャーの足場たるマルクトの解体を試みたという感じだろうか。アッシャー圏の最上位にその統括者として位置するティファレトとは哲学的に言えば超越論的主観性(自我)の位置であり、フッサールの思考はイエソド(これがアプリオリな無意識構造の取りまとめ役に当たる)を中心に広がるアッシャーの光の痕跡を拾い集め、ティファレトを中心とするイェッツェラー圏の存在を現象学的な構成分析として指し示そうと奮闘した。
しかし、結果的にティファレト自体が持った自我同一性によってすべての語りがモノローグに終わり、アッシャー内の意識の同一性をより強固なものにするに止まってしまった。
一方、ハイデガーは主体の思考全般を象っている言葉自体を主体からまずは脱臼させることから始める。ハイデガーによれば「言葉とは存在の家」であり、そこでは存在自体が主体を通して言葉を語らせているのであって主体が言葉を操っているのではない。言葉とは存在者の異名に他ならないのであるから、これはアッシャー圏の基底となるマルクトという存在者の王国を何か全く別なものへと変質させようとするハイデガーの意図の現れと解釈できないこともない。
僕自身は、ハイデガーの狙いは生命の樹に即して言うならば、生命の樹そのものの引っくり返しそのものにあったのではないかと考えている。つまり、存在者=多なるものの世界(マルクト)に重なるとされる存在=一なるものの世界(ケテル)を現出させることによって、生命の樹自体を支配している神と被造物の審級の関係を一気に逆転させようとしたということだ。
これはニーチェが行おうとしたプラトニズムの逆転のアイデアをハイデガー風にアレンジしたものと言える。これによって主体の生は意識の方向性の反転を余儀なくさせられ、死の欲動のビジョンの開示へと向けられる。彼が死への先駆的覚悟性と呼ぶものだ。
この視座の反転によって主体はマルクトではなくイエソド(ここは人間の死の場所性と考えられる)を実在世界と見なすようになり、ハイデガーのいうこの投企の行為によって足場をすくわれたアッシャー圏は逆光のエネルギーを減衰させ、そこに自然とイェッツェラーが放つ順光によって照らし出される主体外部の風景が朦朧と浮かび上がってくることになる。
ティファレトという存在はアッシャー圏から見ればその内部性の最上位に位置するが、それは同時にイェッツエラー圏の中心位置としてアッシャーの外部とも言えるような二重の点になっており(図参照)、ハイデガーがいうところの現存在の二重襞性(主体がオブジェクトレベルでもありメタレベルでもあるということ)を擁している特異点である。ハイデガーはこの二重性を看破はしたものの、その外部が何かははっきりとは見えなかった。
彼が『存在と時間』を完成に漕ぎ着けられなかったのもそのためだろう。破壊された容器の修復の着手にはもっと別の何かが必要なのである。
と言って、もちろんハイデガーが何もしなかったわけではない。ハイデガーはアッシャー圏の限界を熟知し、イェッツェラー圏への方向転換を目指し、死の空間の向こうに広がる存在の重大な秘密を開示させようとした。その秘密とはまさにヌーソロジーがその構成に着手しようとしているモノの本性への侵入のことなのだが、ハイデガーにおいては、その試みは「大地」「天空」「神的な者たち」「死すべき者たち」という彼自身が四方界と呼ぶ意味不明な暗号の中にうやむやにされたままに終わっている。
ハイデガーが垣間見たこの四つの方向性は、彼がその二重襞たるティファレトにおいて絶えず思考していたと仮定すれば、さほど難しい内容を語っているわけではない。それはモノの創造における天空への開示、そして、大地への開示、さらには、それらの開示を与える者と受け取る者の配置関係についてである。
セフィロトで言えば、ティファレトから分化するケセドとゲブラー、そして、イェツェラーからベリアーへと突き進むもの、そのときの反対物としてアッシャーへと戻されるものという関係になる。言うまでもなくケセドが天空の開示であり、ゲブラーが大地の開示である。
そして、ベリアーへと突き進むものが神的な者たちであり、アッシャーへと降りてくるものたちが死すべき者である。こうした未知の高次の空間の分化/展開は現代物理学の発展を見なければその論理化は不可能である。いずれにしろ、ハイデガーは性急すぎたのだ。
→つづく
8月 16 2010
カバラは果たして信用できるのか?——その9
思わず「おわり」と書いてしまったが、大事な事を書き忘れていた。
それは生命の樹と上下・左右が反転した生命の樹、これら二つの樹木の本質的な意味についてだ。こうした考え方を生命の樹の見方に導入すれば、当然のことながら、各セフィラーはすべて二つづつ存在していることになる。ケテルとマルクトに関して言うならば、ケテルがマルクトになり、マルクトがケテルとなっている裏のセフィロトの構成が存在してこそ初めて生命の樹は生命の樹足り得ているということである。お互いがお互いの倒立像を映し合う双対のセフィロト像——これらはおそらく自己側から見た生命の樹と他者側から見た生命の樹の関係である。つまり、自己と他者の間では生命の樹は互いに反転していると見なす必要があるということだ。
例えばこう考えてみよう。〈わたし〉にとって物質世界と呼ばれているところは確かにマルクトに対応させることが可能だろう。しかし、〈あなた〉にとって果たしてそこはマルクトと呼べる場所となっているのだろうか。〈わたし〉が物質世界をマルクトと見て、〈あなた〉も自分の見てる物質世界をマルクトと見なし、かつ、それら両者がもし同一のマルクトであるとしたら、〈わたし〉と〈あなた〉の間にはいかなる差異もないことになってしまう。しかし、これは世界の在り方の事実に全く反している。というのも、〈わたし〉には〈あなた〉の顔が見えているが、〈わたし〉自身の顔は見えていないということだ。顔とは、顔の前において世界が開示するという意味において、世界の中心とも言える場所である。その中心たる顔を〈わたし〉自身が見ることができないという事実は、世界の中心がまだ〈わたし〉のもとには開示していないということを如実に表している。
つまり、〈わたし〉において〈わたし〉の顔が不在となっているということは、存在の中心が常に欠如した状態として現れているということだ。もしくは,〈わたし〉は世界の中心が欠如したまさにその状態を〈わたし〉と呼んでいるにすぎない、ということでもある。そして、この欠如した中心=〈わたしの顔〉を世界の立ち現れの中に経験しているのは言うまでもなく〈あなた〉という存在である。ということは、世界の真の完成の状態、神が創造物の全体を自身の反映として見るという状態は、〈わたし〉が〈あなた〉のもとに赴き、そこで〈あなた〉の顔を見ている〈わたし〉の顔を見ることによってそこで初めて達成される、ということになる。このことは一体何を物語っているのか——。
つまり、神から見れば、〈わたし〉が目撃する〈あなた〉という存在の中にはすでに〈わたし〉が含まれており、〈あなた〉が見ている世界とは、その〈あなた〉の中に含まれた〈わたし〉自身が〈わたし〉の現出を〈わたし〉の顔貌として経験する全一の場となっていなければならないということだ。また、この逆のことも言えるだろう。すなわち、〈わたし〉の目の前には確かに〈あなた〉の顔が現前しているが、それは〈あなた〉という存在はすでに〈わたし〉をその中に含んており、〈あなた〉は〈わたし〉という存在を創造することによって、〈わたし〉を通して自分自身の姿を世界の完成した姿として見よう欲したのだ、ということである。〈あなた〉は〈あなた〉の創造物である〈わたし〉を通してこうして今、〈あなた〉自身の姿を見ているのだ。
このような関係で〈わたし〉と〈あなた〉の関係を見たとき、〈わたし〉にとって〈あなた〉が目にしている物質世界はもはやマルクトではあり得ない。〈あなた〉が〈わたし〉を通してみる〈あなた〉自身の顔は、あのアイン・ソフ、神が神を見る場所としてのケテル以外の何ものでもない。つまり、わたしがマルクトと呼ぶ世界は、あなたにとってはケテルとなっていると言わなければならないのである。
このように考えれば、ケテルの中に刻まれたヘクサグラムの形象の意味も自ずと明らかになる。それは〈わたし〉と〈あなた〉という存在の二重性の相互浸透性を意味するものであり、これはハシディズムの流れをくむ哲学者であるブーバーの言い方を借りれば「永遠の汝と我」の端的な象徴と言ってよいものとなる。この「永遠の我と汝」が対峙する場所をカバリストが言うように単にマルクトと見なしてしまえば、〈我―汝〉の関係はそれこそブーバーが言うように〈我—それ〉の関係に貶められてしまうしかない。なぜならば、カバラの教えにある通り、マルクトを底辺とするアッシャー圏の中には自我しか存在せず、そこに出現してくる他者は他の存在者と同じく「汝」ではなく「それ」へと還元されてしまうしか術がないからだ。つまりは〈わたし〉は〈あなた〉を他の創造物と同列に見てしまう以外、他のいかなる視座も持ちようがないということである。事実、人間の世界ではそれが頻繁に起こっている。〈あなた〉を〈それ〉として利用し、〈あなた〉を〈それ〉として拒絶し、〈あなた〉を〈それ〉として破棄する。そして、愛においてさえも〈あなた〉を〈それ〉として愛しているにすぎない。しかし、ブーバーが言うように〈我-汝〉の関係は決して〈我-それ〉というものには還元できない何ものかなのである。
ここに同じくユダヤ思想の影響を大きく受けた哲学者レヴィナスの言葉を引用してもいいだろう。レヴィナスは「他者は未来からやってくる」と言った。そして、他者の顔には「汝、殺すべからず」と書いてあるとも。これらの言葉の真意もまたブーバーの永遠の汝と我を通して読むとその真意がよく見えてくる。それは〈わたし〉の真の未来が〈あなた〉となって今、〈わたし〉の前に現前してきているということではないのだろうか。レヴィナスは宗教家ではないのでもちろん口に出しては言わなかったが、ユダヤ人としての彼が言いたかったことは、実は〈わたし〉の本性は神であり、〈わたし〉が創造者となってすべてをこの世界のすべて創造をし、その最終的な完成体として他者を創造した。そして、今、こうして、ここで〈わたし〉は〈あなた〉を目撃し、〈あなた〉もまた〈わたし〉を目撃している。だからこそ、他者の顔には「我こそは真の汝なり」という意味において「汝,殺すべからず」と書いてある、と言いたかったのではないか。おそらくケテルから見れば、自己と他者とは互いが互いの未来から互いの過去を神と人間の関係として見ているのである。そして、こうした永遠の汝と我の関係に人間としての〈わたし〉が気づいたとき、神は「神が神を見る」というあのケテルにおけるアイン・ソフの本質的意味に到達することになる。これは、世界の終わりと始まりの結節が出現することの意であり、ここに光の流出が起こるのである。
こうした論証だけでもユダヤの神が孕んでいる欺瞞は露になるのではないか。つまり、神が一者であるはずがないのだ。もし、神が全一における単一性として君臨しているならば、それは神の停滞であり、神の怠慢であり、神の欺瞞である。その欺瞞が〈わたし〉と〈あなた〉を同じマルクトの中に閉じ込めているのだ。カバラはその意味でまだ大きな矛盾をはらんでいる。カバリストたちがヤハウエと呼んできた神=一者は今こそ生命の樹におけるケテルの名において告発されなければならない。ユダヤ的ロゴスの最終的良心として。
——おわり
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カバラ関連 • 1 • Tags: カバラ, マルクト, ユダヤ, レヴィナス, ロゴス, 生命の樹