6月 25 2019
東京ヌースレクチャー2019がスタートしました!!
一昨日の日曜日、東京ヌースレクチャー2019の第一回目を開催しました。
場所は、東京、渋谷にある金属労働会館。金属労働・・・まさにヌースのレクチャーの場所にぴったりの名前でもあるのですが(笑)、大盛況のうちに無事、終えることができました。参加していただいた皆さんに心から感謝です。
今回のレクチャーは開催日の約一ヶ月前に満員御礼が出て個人的にはビックリだったのですが、実際、当日も参加者の皆さんの熱気を押されっ放しの5時間でした。
会場で一応確認を取ったら、なんと半数の人たちがヌースレクチャー初経験の人たちだったので、たぶん去年出た川瀬氏の『ワンネスは2つある』や『シュタイナー思想とヌーソロジー』、さらには、2ケ月前に出した『奥行きの子供たち』でヌーソロジーを知った人が、ここぞとばかりに集まってくれたものではないかと思います。
こちらも、久々の東京でのレクチャーということで、最初はちょっと緊張気味。
しかし、2コマ目から冷静さ(=霊性さでもあるね^^)を取り戻し、第一回目のテーマでもある『君』について、ブーバーやハイデガーの哲学の話を絡めながら、ヌーソロジーの観点からしっかりと語らせてもらいました。
未だ、世界は「僕」に覆われていて、
「君」がどこにも現れていない。
「君」とは、ほんとうの主体のこと。
「君」は、本来、高貴な存在であり、
その未だ現れ出ていない、
ほんとうの主体こそが「君主」であり、
「主君」でもある。
世界から「僕」が立ち去って、
世界が「僕」と「僕の僕」の世界から、
「君」と「君の君」の世界に変わったとき、
世界は「ある—いる」の世界から、
「なる」の世界へと、アレーテイア(隠れていたものが姿を露わにすること)する。
今回のレクチャーから、最後の1時間は、まるまるディスカッションの時間にしたのですが、この試みが功を奏し、参加者の皆さんの質問のレベルも高く、とてもいい雰囲気のうちに終了しました。
いつもは、4時間まるまるレクチャーで、大量の肉を食わされた後のようにグッタリとなるからね(笑)
今回のシリーズは、ヌーソロジーの細かい構造論よりも、ヌーソロジーがヌーソロジー自体に対してどういう構えを持っているか、その情動面に重点を置いて語っていければと思っているのだけど、とりあえず第一回目は成功した感じかなぁ。
二次会は、ピザ攻めと盛り上がりすぎで疲れました(笑)
次回もまたよろしくお願いします!!
(下写真左は天海ヒロ氏撮影)
6月 15 2022
ヌーソロジーにおける思考のイメージ
思考において「どこで思考しているか」という問題を立てることはとても重要だ。その場所が狭ければ、思考は必然的に狭小になるし、その場所が広ければ広いほどダイナミックな思考の可能性が開く。もちろんこれは物理的な場所のことを言ってるわけじゃない。思考が活動する異空間について言っている。
だから思考が脳で行われているなんて絶対に考えちゃいけない。その時点で、思考は最も貧しいものへと萎縮し、思考本来が持った存在の生殖力を喪失してしまう。では、思考がどこで行われていると思考することが一番望ましいのだろうか。
ヌーソロジーの場合は、ブーバーが根元語と呼ぶ「我-汝」の場所をいつもイメージしながら思考している。ブーバーは、根元語には「我-汝」と「我-それ」という二つのタイプがあり、人間はこの二つの根元語のもとに二重に生きているという。
ブーバーのいうこの根元語というのは決して存在するものを名指ししているわけではない。根元語が語られるときは存在そのものの在り方がそこに引き起こされるという。だから、この根元語は存在の最初の発語とも言えるものであり、君自身の思考の出自、ベクトルがそこで決定づけられるような重要なものだ。
「我-汝」と「我-それ」。このように、根元語においては「我」が二重化している。語りにおいては、常に、二つの「我」の在り方があるということだ。そのことを忘れないようにしないといけない。「我」は常に二重人格なのだ。
だから、「我」が何かを語るとき、そこには必然的に「汝」か「それ」のどちらが隠されている。思考にしても同じだ。「我」が思考するとき、そこには「それ」か「汝」のどちらかが常に寄り添っている。
しかし、「汝」が寄り添うことは稀だ。「我」が他者について考えるというのは本当に難しい。そういう他者とは「それ」でしかないし、たとえ共同体について思考しようが、愛について思考しようが、霊性について思考しようが、それらはすべて「我-それ」に支配された場所でしかない。
ブーバーのいう根元語「我-汝」の場所で思考することはそれほど難しい。というのも、彼がいう「我-汝」とは永遠の我と永遠の汝の関係のことだからだ。この場所において思考するときに初めて、思考は能動的なものとなる。
永遠の我の場所がやってこなければ、永遠の汝もやってこない。
一つの永遠からもう一つの永遠まで。その距離を歩くのがほんとうの思考というものだと思っている。
観察子の開示とはその歩行である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ブーバー