12月 12 2016
もののケのしおり作「嘘の鏡」について
「もののケのしおり」のツイートを見ていて発見した素晴らしいアート作品。表現が何というか、強度あるよね(笑)。右上端に顔を出しているウサギさん?(ほんとうはヒツジさんらしい)がまた、最高にシュールな味を出してる。David Lynch顔負け(笑)。タイトルを「嘘の鏡」と勝手につけさせていただきました。ごめんなさい(下写真)。
この作品「嘘の鏡」が何を語っているか、今ひとつピンと来ない人のためにヌーソロジーの考え方から解説を入れておくね。
一言でいうと、鏡に映っている方が肉体としての自己と他者で、背中合わせになっている方が精神としての自己と他者だということ。幅支配の空間(見られた者同士)における自他と、奥行き支配の空間(見る者同士)における自他ってこと。
このことは20年前ぐらいから言い続けているのだけど、なかなか伝わらないんだよね(笑)。昔、描いた図がコレ(下図)。
シオリちゃんに比べるとムッチャ強度が落ちて才能のなさがバレバレだけど、実際〈見る-見られる〉の区別がついてくると、空間はこのように構成されていることが分かってくるんだよね。
いわゆるバイスペイシアル知覚で見たときの空間の状況ってこと。「奥行き」の方は縮んで、対象の中に入り物質粒子のスピンと呼ばれているものになっているんだよね。ヌーソロジーでは対象の中に入った空間の位置の方を「変換位置」と呼び、対象の外部に出された位置の方を「転換位置」って呼んでる。
僕らは普段、この転換位置の方しか意識できていないから、要は鏡像同士で世界を作ってるということなんだね。これがあらゆる諍いの元になってる。というのも、これだと主体は二人いるのに、客体は一つしかないようにしまうから。単純に争奪合戦が始まっちゃう。
他に「愛し合う」ということのイメージ一つとっても、この図の赤と赤がハグし合うというイメージだよね。そういう結合は互いに幻想を抱いたもの同士の結合でしかなく、能動的な主体性を元から欠いている。やがては非難の応酬が始まり、憎悪だけが残る。
この図は真の結合はback to backでなくちゃいけないってことを表現している。これは自己の中の見る側の存在が他者のそれと一体化する方向性を表している。その場所は僕らが対象と呼んでいるものの中にある。そういう世界に入ることを「物自体」の世界への侵入と考えていいと思うよ。創造空間のこと。
このback to backの結合感覚は自己と他者が自分の位置を無限遠点と見なし、空間を再構成する力能の発達とともに徐々に芽生えてくる。それがヌーソロジーでいうトランスフォーマーが行っていくことなんだけどね。この空間知覚をとりあえずは4次元知覚と呼んでいいかな。
で、この赤と青の二組の双子は、ここから互いの空間構成を追いかけ合うようにして7次元までの空間構成を見出していく。そこにおいて、今度は初めて自他の無意識同士を交換する領域に出れるというストーリーになってる。こうした空間構成がすべて見えるようになったとき、それは「ヒト(霊我のこと)」って呼ばれる。
このプロセスがいつも言ってるように「顕在化」というヤツで、これは素粒子の構造をすべて描像できるようになることを意味しているんだよね。
人間においては赤組(転換側)が先手になって、青組(変換側)が無意識として働いているので、この仕組みが今は全く見えなくさせられている。物理学もこうした空間構造はすでに明らかにしているんだけど、いかんせん転換先行の呪いにかかっているものだから、粒子のスピンを物理的対象としてしか考えず、物質の本質が見えていないんだ。
とりあえずは、前と後ろの空間を持続と延長にしっかりと区別して、「自分自身を双子化させていく」こと。すべてはそこからだと思うよ。間違っても、他者をストレートに双子だと勘違いしないよう。
自分が他人に対して何を言おうが、また何を言われようが、常にそれは赤-赤*の語らいにすぎないということ。まずは自分自身の中の赤と青を発見してアンドロギュノス化することが重要。
ほんとうの他者との出会いはそのあとだね。
1月 23 2017
古神道の世界はシャーマニックというよりイデアリスティック?
古神道というのは一般に古代日本人のアニミズム・シャーマニズム信仰として捉えられることが多いんだけど、実はその背景には極めてイデアリスティックなシステムが隠されていたのではないかと感じている。以前紹介した『十種神宝』なんかはその代表。こうしたイデア的側面に言及する研究者が少ないのがほんとに残念。
イデアと聞くとすぐプラトンが思い浮かぶかもしれないけど、ここで言っている「イデアリスティクなシステム」とは存在者が存在者であることを可能にしているもの、あるいはそれらを根拠づけているものと言ったような意味だね。物質世界をあらしめている存在の力の体系のようなもの。
それを持続空間の幾何学的構造として思考し続けているのがヌーソロジーでもあるわけだけど、その視点から見ると、十種神宝で表現されているそれぞれの形象はまさにその幾何学を象徴化したもののように見えてならないんだよね。デタラメにこうした形を取っているわけではない、ということ。下図上参照。
たとえば以前取り上げたオキツカガミとヘツカガミ(最初の上二つの図)。オキツカガミは開いているけど、ヘツカガミは閉じてるでしょ。オキツカガミは他者の目に映る世界。ヘツカガミは自己の目に映る世界。これがまさに時空と内部空間(素粒子の空間)の対応を象徴化している感じがしてる。
持続空間の言い出しっぺのベルクソンはその構造については弛緩と緊張という二つの軸に分けて考えるぐらいしかできなかったのね。弛緩が延長的時間や空間、緊張(収縮)が持続本来の時間を作るといった感じで。でも、十種神宝として示してある象徴図像は僕から見ると、持続構造の転変を表現しているように見えて仕方ないんだよね。
この図像の由来が分からないと何ともいえないところだけど、ひょっとすると古代日本人の精神性って本当は極めてイデア的だったんじゃないの。僕がカタカムナなんかに惹かれているのもそういう部分かな。
ちなみにヌーソロジーが考えるオキツカガミの空間とヘツカガミの空間は、光速度を「奥行き」と見た場合、時空(ミンコフスキー空間)と状態空間(単位球体)のような関係になる。後ろ=オキツカガミに映された空間は開いて、前=ヘツカガミに映された空間は閉じているのが分かるよね。見られる空間と見る空間は全く別物でバイスペイシアルな関係にあるということ。下図下参照。ただし、空間のz軸はct軸に重なっている。
ベルクソンは反転が見えていなかったんだね。だから、これらの関係を弛緩と緊張というイメージでしか表現できなかった。反転が見えれば、この図のように物理学ともうまく接続し、持続空間と延長空間の関係をイデア的知性の運動として理解していくことが可能になってくる。その文脈で見ていくと、十種神宝の全象徴はあたかもそのディレクション図のように構成されていってるのが分かってくる。
人間が時空と呼んでいるものがオキツカガミ(他者の視野空間)によって映された受動的世界でしかないということがこの図からもある程度は想像することができてくるのではないかと思う。君も日本人なら、このバイスペイシアル感覚を浮上させていこう!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: バイスペイシアル, プラトン, ベルクソン, 十種神宝