10月 12 2016
マヤ暦における「時間を外した日」の真意
ヌーソロジーで「時間を外す」ということがどういう状態のことを言うのか、ツイッターでまとめておいた。以下はその内容。
まず必要となるのが、以前もここで紹介したO氏制作による「観点が球面化した空間」を直観するためのビデオ。
【映像1】まずは自分の周囲を公転している物体を視点で追うイメージを作る。そのときの様子を客観的に見たところの映像がコレ(青い矢印は物体自身は自転していないことを示している)。
【映像2】この様子を観測者自身から見たところの映像がコレ。
映像2ではKitKatの缶が自転しているように見えるのが分かるはずだ。このとき自転中心として感覚化されている位置が反転した空間の中心点と考えるといい。客観的空間では観測者を取り囲んでいるはずの円周が一点に集約されていることが直観できるはずだ。
ここでは分かりやすくするために実際の運動として示しているが、これは意識で起こっている出来事なのでイメージだけでも構わない。自分の周囲に円があるというイメージを誰でも持っている。それが外部の空間イメージだ。しかし、ここでの実験は、そのとき必ず逆のものが作られていることを意味している。そこでは観点の方が円環化し、外部の円はその中心点となっている。
そして、意識においてはその中心点は現実として目の前にあると考えることが必要だ。僕らはまだはっきりとは気づいていないが、自分の周囲にバラバラに見えていた対象の位置を一点で統一している位置の空間が目の前に存在しているのだ。そして、実はその空間に見える対象のことを僕らは「記憶」と呼んでいる。
難しいことは言ってない。実際に自分の周囲の前後左右に携帯とかバッグを置いて試してみるといい。目の前に携帯がある。左を向くとバッグがある。後ろにはパソコンがある。右にはコップがある。一回りして携帯がある。そこで、それらの記憶を思い出すといい。それらは目の前にすべて重なって”在る”はずだ。そういうことを言っている。
実は、この反転の持続空間の構造を仔細に分析していくと、量子力学が語る「状態ベクトルの世界」と全く同じ構造をしていることが分かってくる。ブロッホ球とも呼ばれている。電子等の物質粒子と考えてもいい。→下図1参照
最初はなかなかイメージが作りづらいかもしれないけど、反転感覚に慣れてくるとこの球体をそれなりにイメージできるようになってくる。この持続球体が目の前にしっかりとイメージできるようになってくると、時間に対する感覚も反転してくる。つまり、現在から過去を見るのではなく、過去(記憶-持続)から現在を見ているという感覚になってくるということだ。ほんとうは皆んなそうしてるんだけど、現代人は物質意識が強いからどうしても今瞬間の現在が中心になっている。自分の本当の居場所を忘れているんだね。
マヤ人たちも含めて超古代人たちが所持していた世界観というのは、この反転した空間思考をベースに成り立っていたと思っていいよ。意識の方向が現代人とは真逆の方向を向いていたってことなんだ。ヌーソロジーはまたそこに戻っていくための方法論だね。それも、しっかりと足場を作りながらね。だから、3次元もしっかりと押さえながら、一方で3次元から出て行く意識というのが意識できてくるようになる。これが僕が「別人」=トランスフォーマーと呼んでいる生き物。
ちなみに、マヤ暦でいう「時間を外した日」というのは、地球の自転と公転の等化の意味なんだ。つまり1日と1年が一致する日という意味。月の暦28×13=364で地球は太陽の周りをほぼ一周するんだけど、地球が一周するということは同時にそこで地球の一自転も起こっているんだね。それが365日目で合体する。そう意味で、この最後の1日は1日と1年を等化しているということ。関係性はさっきのビデオと基本的には同じ意味だということが分かるよね。ただ、地球の自転と公転の方は人類の集合意識レベルでの話だけどね。ヌーソロジーの空間構造から見ると次元が少し上にある。下の円心の図を参考にしてみるといいよ。
ということで、「時間を外した日」に乾杯!!
9月 15 2017
木の実と食べる鳥と見つめる鳥のお話再び
目の前の空間には二種類の空間が重なり合っている。この二重の空間知覚のことをヌーソロジーではバイスペイシャル(bi-spacial)感覚と名付けることにした。一つは時空、もう一つは素粒子の空間だ。
時空は経験的自我の活動母胎となり、素粒子の空間の方は超越論的自我の活動母胎となっている。ヌース的には中和側と等化側と言っていいように思う。人間は中和先行型の意識を持つために、この超越論的自我が活動している空間の方は無意識の中に眠っている。
この、超越論的自我が活動している場所が持続空間だ。
ヌーソロジーが目指しているのは、この経験的な自我と超越論的な自我の主従関係を逆転させた空間認識を作り上げること、ということにでもなろうか。自分というものを作り出しているもの側の空間的な組織を認識に露わにするということだ。
シュタイナーとのコラボ本の作業をやってハッキリと分かったが、この超越論的な自我が働いている世界がエーテル界ということになる。物質界の意識から、エーテル界の意識へと意識の在り方を変える、ということ。いや、より正確に言うなら、これら双方の意識の両刀使いとなること。それがトランスフォーマー(変換人/人間を変形していく者)のイメージでもある。
経験的自我は言語と概念に傾いている。その傾きを超越論的自我の方へと是正している働きがある。それが、僕たちが知覚や感覚と呼んでいるものの世界だ。その意味で、知覚や感覚は超越論的なものの世界を探る手掛かりにはなるが、それだけに頼っても、結局のところ、傾きの是正以上の域に出ることはできない。回り回って、また経験的なものを反復するだけに終わってしまう。
ヌーソロジーには身体性(人間の生身の経験性)が欠如している、といった批判をよく受けるのだけど、感じることを蔑ろにしているわけじゃ決してない。感性的なものにいくら意識的になっても、ここで言ってる「超越論的なもの」を露わにすることはできないと考えているからだ。顕在化はヌース(能動思考)が先手でないと起こりえない。これは感覚を先手に持つということとは違う。そう独断して、まずは、持続における場所性を作ることが最重要だと、決め打ちしている。
つまり、超越論的なものは感じるものではないということ。それは、ドゥルーズやOCOTの言い分を参考にする限り(笑)、「感じさせているもの」なのだ。それは感性のような受動的な働きではなく、敢えて言うなら、能動的な感性の働きなのだ。
たとえば、誰もが目の前に点をイメージすることができる。しかし、その能力がどこからやってきているのかは誰も知らない。それをやらせているものがいるから、僕たちはそれができる。この「やらせているもの」側の正体を露わにしていくのが、ヌースの思考だと考えるといい。
つまり、世界には、「感覚されるもの」と、「感覚するもの」と、「感覚させるもの」とが存在している、ということ。僕らは、もちろん「感覚されるもの」と「感覚するもの」の中で生きている。だけど、肝心の「感覚させるもの」の世界がどこにあるのかが分からなくなっている。
これら三者の関係性は『シリウス革命』で紹介した、例のウパニシャッドの逸話と同じ関係を語っている。すなわち、木の実、食べる鳥、見つめる鳥の三者の関係だ。
食べる鳥(感覚化するもの)は、一生懸命、木の実(感覚されるもの)を食べているわけだが、食べる鳥を、その背後で一生懸命見つめている鳥がいる。それが、さっき言った超越論的な自我に当たるのだと考えるといい。そして、感覚するものが感覚しているものとは、実は、この見つめる鳥の影でもあるということなのだ。
物質と精神はそのようにして、三位一体のトリアーデのもとに一つの円環を描いている。この円環を再生することが、万物復興の意であり、宇宙を正しく見る視座であると言える。
エーテル界が見えてくれば、この詩的な寓話的ビジョンは、実在的な確信に変わってくるはずだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: エーテル, シリウス革命, トランスフォーマー, 素粒子