12月 22 2017
最大の自己欺瞞とは「オレ」かもしれないというお話
事物を対象として見ている限り、世界は常に外の世界でしかない。
で、この外の世界の信憑性を裏支えしているのが同一性というものだと考えるといい。
ヌーソロジーが「時空」と言うときには、大方、そのような意味を込めている。
この携帯はこの携帯。この財布はこの財布。このコーヒーはこのコーヒー。というように、同一性は頑なに名指しを反復する。そして、この頑なさは「わたしはわたし」という頑なさへと連続している。
「わたしがわたしである」ことは、現代人にとっては至って自明。わたしがわたしでなけりゃ一体何だというのか? あなたか? やめてくれ、気持ち悪い。というのが世間の常識的な反応ではあろう(笑)。
しかし、ほんとうに「わたしはわたし」なのだろうか。
現代人は、なぜ古代マヤ人たちのように『In Lak’ech』(インラケチ=あなたはわたし)と自然に挨拶を交わすことができないのだろうか?
個人的には、昔から「わたしはわたし」というフレーズには強い違和感を感じている。
何か騙されている感じとでも言うのか。
それは、デカルトの「我思うゆえに我あり」に感じる違和感と同質のものだ。
思っている我、と、存在している我はほんとうに同じものか?
思う”我”とある”我”は、本来、全く違うものであるのに、同じ”我”で一緒くたにされている居心地の悪さがそこにはある。
別の言い方をするなら、ある我が思う我を乗っ取って、思う我の本性を見えなくさせているということなんだが。
思ってるのは、ある我じゃないだろ。
これは、見られることによって作り出された我が、見る我を覆い隠すようにして、自分の中でのさばっていることと構図は同じ。
見られている我があたかも見る我であるかのように振舞っている。
何が自己欺瞞かといって、これほどの自己欺瞞はないと思うのだが。
世の欺瞞を暴くのも大いに結構だが、こちらの自己欺瞞を暴かないかぎり、世界は何も変わらないと思うのだけどね。
10月 17 2022
もっとダイナミックな思考を持とう!!
私たちは経験的なものを通して遠い過去をもイメージする。たとえば、人間がいなかった頃の世界を、私たちは人間の経験的意識を通して想像してしまう。しかし、それはあくまでも意識経験の結果を通した描像であって、人間以前の風景にはほど遠い。その意味で、ビッグバン宇宙や進化論などいった科学的世界観が作り出した過去の物語は虚構のイマージュで覆い尽くされている。
このことはベルクソンが言う「実在性と可能性」と「現実性と潜在性」の関係によく似ている。可能性の実在化の中で生命が進化してきたと考えることと、潜在性の現実化の中で生命が進化してきたと考えることはまったく違うものだ。前者には差異はなく、後者には差異がある。単なる生物化学の地平では、この差異は見えない。
この差異は時間的には持続の中で、空間的には奥行きの中で活動している。持続と直線的時間という時間の二つのタイプと、奥行きと幅という空間の二つのタイプ、これらが互いにいかに根源的な相補性であるか、私たちはもっと知る必要がある。量子力学に登場する複素平面が表現している実軸と虚軸とは、後者の相補性の数学的表現である。
この幅と奥行きとの差異は、同時に、空間に露出した自己と他者の存在論的差異のことでもあるだろう。自己が奥行きを持つ者としてこうして出現しているということは、自己とは実在に対する差異を持つ存在だということだ。そして、自己はこの差異の中に潜む潜在性を現実化していく力を持っている。
自己が実在に対する差異だということは、自己は時空からハミ出ている存在だということだ。まずはこのことに気づくことが、霊的個体化の世界への入口となる。
知覚・記憶・クオリア等、持続ベースの意識と、言語・記録・数量計算等、延長ベースの意識の場を明確に区別して考えよう。前者はヌーソロジーでいう人間の外面、後者は人間の内面の産物である。
自己存在のそのハミ出しの領域が物理学では複素空間として表現されているのだと考えるといい。〈わたし〉に最も身近なはずの自分の精神の姿が時空上では素粒子として記述されているということ。そして、多くの人がその難解な表現形式のために自己自身を敬遠してしまっているということ。それが今現在、人類に起きていることだ。これは、ある意味、悲劇だ。
物理学では複素空間から時空が生まれていると考えることができる。これは、ベルクソン風に言うなら、潜在的なものから現実化が生じていることを意味している。つまり、時空・物質という私たちが実在的と考えているものも、本当は精神の一つの表現として現実化しているに過ぎない。実在とは現実化されたもののごく一部に過ぎないのだ。
少し考えればすぐに分かる。実在には瞬間しかない-このことを今一度、自らの感覚に叩き込まないといけない。実在をあたかも一つの絵巻物のようにして見せているのは、潜在性として生きている私たちの精神の方なのである。
デカルトの「我思うゆえに、我あり」の〈ある我〉と〈思う我〉の違いも、この実在としての”我”と、潜在的な領域から実在を生み出した”我”との違いに由来している。いわゆる非本来的自己と本来的自己の違いだ。つまり、自己は差異を挟んで上位と下位に分裂したところに自己のシステムを作っているということ。これも、まもなく多くの人に分かってくるだろう。
脳をいくら調べても、自己の由来は決して見えてはこない。自己の生成は宇宙全体におけるトポロジー運動の産出物のようなものであり、局所的な電気信号の産物などではないということだ。宇宙全体を一気に回転させているこのような機構が素粒子だと考えないとダメだ。極大は極小に射影されているのである。
とにかく、ここで言いたかったことは、私たちは自分が考えている以上に、はるかに巨大な存在だということ。近代理性の思考に変に影響を受けることなく、自由にのびのびと思考の羽を広げよう。
私たちは飛べるのだから。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: デカルト, ベルクソン, 素粒子, 複素平面, 量子力学