6月 6 2006
元止揚空間のハルモニウム
今日は2006年6月6日。あの伝説のオカルト映画「オーメン」がリメイクされて封切られる日だ。そこで、少し長くなるが、オーメン万歳スペシャルサービスデーとして、ヌース的「6・6・6」について一講釈行っておこう。ちょっと長くなるかもしれないが、昨日の「メドゥーサと科学的思考」の続きと思って読んでもらいたい。
昨日、唯物論的な客観空間からその起源である「モノ自体」が生息する超越論的な客観空間に至るまでの4段階の空間についてほんのさわりだけを話した。ここに形作られている方向性のピュイサンス(累乗)を、ヌースでは「元止揚空間」と呼ぶ。この元止揚空間は自他の間で双対をなしており、合計、八つの領域から構成されている。これはヌース理論の無意識構造論の中で最も基礎的な概念となるもので、いわば、存在のロータス(母胎空間)とも呼んでいいものだ。
実はこの元止揚空間はプラトン立体群の中の正六面体・正八面体の内接・外接関係として表現することができる。正六面体と正八面体という幾何図形だけで、無意識の構造が表せるなんて何て素敵な話じゃないか。おまけにそれは物質の基盤構造でもあるのだ。こういうものこそイデアと呼ぶにふさわしい。
まずは「形質」の発生源である「核質」という概念から始めよう。核質とは正八面体Aとして表すことができる。これはモノという概念を支えているイデアである。XYZという3次元座標の原点からそのそれぞれの軸上に等距離に六つの点を取る。そして、それらを結び合わせる。それで正八面体はできあがる。この正八面体をモノの内部を規定するフレームと思ってもらえればいい。これをとりあえず正八面体Aとしよう(下図)。
では、次にモノの外部空間はどのようにフレーミングされるだろうか。この場所はヌース的には「無核質」と呼ばれる領域に入る。普通ならば、モノの内部も外部も三次元で一括りにされてしまうところだが、ヌースではそれらは全く次元が違うと見るのだ。僕らの知覚ではモノの外部には無限の空間が広がっているように見えている。だから、この空間をカタチとして表すためには、何らかのかたちで無限遠の位置を規定する方法を考えなければならない。そこでヌースでは次のような考え方をする。
今、正八面体Aに外接する正六面体Bを考えてみよう(下図)。この正六面体Bの八つの頂点は当然、正八面体Aとは一線を画したところに設けられる。つまり、正八面体Aをどのように回転させようが、この正六面体Aの頂点と交わることはない。正六面体Bでは、そうした八つの頂点が6枚の正方形を構成しているわけだが、この中の一枚の正方形と正八面体Aの関係は何かに似てはいないだろうか。そう、目の前で回転しているモノとわたしの視野空間(背景空間)のアナロジーにそのままなっていることが分かるはずだ。モノを回転させても背景空間は何の影響も受けない。
背景空間を回転させるためには、わたし自身がモノを見つめながら、モノの周囲を回転しなければならない。これによって外部空間の回転が起こることが分かる。このときの回転運動の三軸はもはやモノの回転軸となる正八面体Aの軸ではなく、正六面体Bの六枚の正方形の中心を貫いている正八面体C三本の軸である(下図)。当然、その軸は無限遠点の位置としての正六面体の外接球面に内接していることが分かる。正八面体Aと正八面体Cは当然全く違った次元の三次元性なのである。ここにスカラー空間とベクトル空間の差異が作られていると考えよう。意味としては前回言ったように観察者がいるかいないかの違いとなる。いるのがベクトル空間で、いないのがスカラー空間だ。
さて、ここで頭を柔らかくしてほしい。モノの三軸回転を統合した形で観測者の位置(背景空間の位置)が出現してきた。その次元は正八面体Aに外接する正六面体Bの頂点として規定された。ならば、今度は、観測者がモノの周囲を回転することによって作り出される正八面体Cの三軸回転を統括する何かが、ベクトルのような形で、正八面体Cに外接する新たな階層の正六面体Dの頂点として出現してくるのではないか。この位置に突き出してくる矢印とは一体何を意味するのだろうか。この問題を考えやすくするためには、モノを中心に観測者が作り出している回転半径をその極限にまで縮めてみるといい。そして、その回転で規定されているものとは何かについて考えてみるのだ。。。
そう、それは観測者を中心に持つパースペクティブの構成(知覚球面)であるということが分かるはずだ。つまり、ベクトルのSO(3)回転群の全体によって実は主体の位置が規定されているのである。そして、当然、この主体の位置を規定する球対称の空間は、モノの三軸回転が観察位置をその外部にベクトルとして放ってきたように、主体そのものの位置をあたかもベクトルのような一本の矢印で無限大空間の外部の次元に指し示してくる。このとき、正六面体Dの頂点へと突き出る矢印が実はスピノールである。こうして、スピノールの空間は、この正八面体Cにさらに外接する正六面体Dの頂点としてスライドさせてアナライズすることが可能であり、その空間上の一本の矢印は「わたし」という主体の方向位置を指し示すイデアということになる。
これらのことより、次のような関係を類推することができる
(1)正八面体A………スカラー空間(無人の空間)
(2)正八面体Aに外接する正六面体Bの外接球に内接する正八面体C………ベクトル空間(観察位置の関与)
(3)正八面体Cに外接する正六面体Dの外接球に内接する正八面体E………スピノール空間(主体位置の関与)
(4)正八面体Eに外接する正六面体Fの外接球に内接する正八面体G………テンソル(2階)空間(客観位置の関与)
このように書いてくると、当然、(4)の正八面体Eにさらに外接して肥大化していく空間の無限階層性が見えてくることになるが、実はこの階層性は円環を構成している。スピノールを統括した空間である正八面体Gは最初のスカラー空間である正八面体Aの部分に高次元の射影を通して回帰してくるのだ(この正八面体Gを反核質という)。おそらくこのあたりの領域がスピンネットワークの場所である。この部分のトポロジカルな解説はここでは省くが、重要なことは、このように正八面体と正六面体の内接・外接関係によって無限に拡張されていく空間構造が、この射影ルートを通って何層にもグルグル巻き取られていくシステムがこの空間には存在しているということなのである。
さて、スピノールとはほかでもない。物理学的に言えば電子のことである。いつも言っているように、電子とは主体が認識している知覚球面そのもののことであり。それを無数に持ち合わせた主体の無限集合の空間は4次元空間を通してそのまま物体内部の空間に映り込んできている。えっ?イメージがつかめないって?そんなことはないだろう。以前にも紹介したモノを見つめながらモノの周りを回る回転をもう一度やって見るといい。そのとき、君の視線とモノの中心点と、その遥か先にある無限遠点はすべて一点で同一視されているはずだ。とすれば、次々と回転させていったその視界の中では、知覚球面とモノの中心点はピッタリと一致しているはずである。このときの同一視した全経路をひとまとめにしたものがスピノールであり、これは4次元からの射影直線となっているのだ。言うなれば三次元球面の回転軸の半径分に当たるものである。
ここまでくれば、今度は無数のスピノールが生息する空間をイメージするのはさほど難しくはないことが分かるだろう。世界には無数の主体がいる。僕らが他者と呼ぶものである。モノの周囲に無数の観測者を円環状に配置して、全員一緒に、モノを見つめながら回ってみよう。カゴメの歌でも歌いながらやると、より一層ムードが出る。かぁ〜ごめ、かぁごめ、かぁ〜ごの中のと〜り〜は、いついつ出や〜る♪ときたもんだ。そこに作り出されてくるのは、言うなれば、4次元球体における無数の回転軸である。言うまでもなく、この無数の位相を持つ回転軸の半径部分が遷移していくのがスピノールの回転と呼ばれる運動であり、それは、僕らの感覚から言えば、他者の視座へと認識を変移させていくことの意味となる。このとき起こっている回転に対する対称性が、僕らが客観と呼んでいる概念を裏付ける対称性である。位置の変換、かなわちψ7のトポロジーと言っていいだろう。
こうして、モノ自体を意味する超越的客観性の巣がSU(2)対称性と呼ばれる場所にあることが予想されてくるのである。しかし、もしこれが本当なら大変なことだ。君が今、目の前の球体を客観として見ているのならば、それは3次元球体ではなく、4次元球体ということになってくる。そして、それは「陽子」に見えてくるはずだ。そして、その周りに知覚球面としての電子が存在している。。。すなわち、それは水素原子である。ありゃりゃ。
水素とは進化の方向にある対化が持った力と方向(シリウスファイル)。。。
客体が力で主体が方向。僕らは水素の中にいるのである。
おっと、話がそれてしまった。「ヌース的 6・6・6」だった。
察しのいい君たちはもう僕が何を言いたいか分かるはずだ。下に描いた三重構造の正八面体A・C・E。これがヌース的「6・6・6」である。一つのモノが作り出す三次元。一人の個体が作り出す三次元。そして、人間全体が作り出す三次元。この三つ並びの「6」は、間で暗躍する正六面体構造が見えない限り、決して僕らの意識に上がってくることはない。つまり、スタートの核質の「6」に重畳したまま、それらの差異が見えることはないのだ。だから、核質に生み出された形質は貪欲にそれ以外の「6」も、あたかも自分と同じ「6」のように見せて周囲を浸食していくのである。僕らが空間を三次元と信じて疑わない理由はそこにある。人間の意識は、この「6・6・6」の三位一体ループに支配されている。こういう状況をヌースでは、核質に止められるという意味で「止核(シカク)」という。人間の意識進化を押しとどめている宇宙的スーパーネオコンの抑圧である。
新約のヨハネの黙示録にあるあの有名なフレーズを改めてここに書き出してみよう。
「ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である」(13章18節)
もちろん。この「6・6・6」の封印は、まもなく到来する「7・7・7」によって、すべて解かれることになるだろう。新しい世界風景がもうまもなく見えてくる。それは君たちが想像を絶するものになるはずだ。
11月 19 2013
Sさんとのツイッター問答
久々のSさんとのツイッター問答。解説も兼ねてちょっとご紹介してみようかなという試み。
Kohsen: 回転による群の構成は観察空間(=精神)を不動の位置に持って行くための空間の収束性を表している。波動関数→U(1)群→ブロッホ空間→スピノール→2成分スピノールのテンソル積という順序で、観察空間の不動性が形成されている。そこで構成されてくるのが時空そのもののイデア。
【解説】
ここで言っている「回転による群の構成」というのは、複素ユニタリー回転群のことです。量子力学や場の量子論では、複素空間における回転対称性というものが粒子の運動方程式(シュレディンガー方程式やディラック方程式)のかたちを変えない(系のラグランジアンを保存する)条件としてとても重要な役割を持っています。こここでは波動関数を一つの対象をめぐる視線の回転としてイメージしています。奥行きが虚軸、幅が実軸です。視線が一つの対象を巡るというのは、先日、ピカソの「泣く女」で説明したような状況と思ってもらえばいいです。彫刻家が完成した彫刻の姿を事前に頭にイメージしているとき、彫刻家の意識は想像空間の中で、彫刻を様々な角度からイメージしています。こうした想像空間が波動関数によって構成されていると仮定しています。
このことは、別に彫刻に限らず目の前にあるただのコップを見ているときも同じだということがわかります。目に見えるコップは知覚像としては平面の像でしかありませんが、意識はそれを様々な角度から見れば、違った見えがあると認識しています。つまり、ここにも想像、言い換えれば、別の見えの可能性を想定した意識の運動が起こっているわけです。ヌーソロジーはこの意識が持った想像的視線のグルグルの取り巻きを波動関数ψだと仮定して、物理学を意識の理論に書き換えられないか、ともくろんでいるわけです。
さて、こうした想像的対象は僕らの周囲に無数に散在しています。対象の持った立体性は視覚ではあくまでも想像的にしか捉えられないからです。では、意識が他の対象に実際に注意を向けるときに何が起こるでしょうか。実際に他の対象の視像を捉えるためには、視線をそれぞれの対象の方に投げかけるための首振り運動、もしくは姿勢の回転が必要となります。もともと回転しているイマジナリーなものにさらに上位から回転を加えて回すわけです。これがここで言うU(1)群の次元です。そして、こうした回転は、一つの対象に対するグルグルと同じように、実際に首を回さなくても意識の中で自分の周りには無数の対象がある、と思った時点ですでに想像的回転として作用していると言えます。
自分から広がる空間全体にこうした意識を働かせたときの球体を「ブロッホ空間」として仮定しています。ここでいうブロッホ空間というのはブロッホ球を意味しているのですが、ブロッホ球というのは物理的には波動関数ψ(状態ベクトル)が規格化されて単位球面上で表現されるような空間のことを言います(掲載図参照)。ヌーソロジーの文脈からすれば、これは奥行きを虚軸と見立てたときの知覚球体(自分の周囲の球空間)と同じものだと考えられます。言うなればモナド(魂)の数学的形式ですね。
さて、次にスピノールが出てきますが、スピノールという物理概念は、本来、物質粒子が持った角運動量のことです。角運動量とは何かがグルグルと回っているときに、その回転軸方向に働いている力の量のようなものと思うといいです。物質粒子も内部空間の中でグルグルと回っていて、そこに軸が立っていると考えます(もっとも実際に観測にかかるスピノールの場合はこの軸が勢いを失くしたときのコマのように傾いているのですが、その垂直成分を取るとh’/2(h’=h/2π)となっているので、物質粒子はスピン1/2の粒子とか呼ばれます)。
さて、ここでこのスピノールが何を意味しているかということですが、ここにはOCOT情報からの示唆による推理が働いています。その示唆というのが「面-点変換」もしくは「対-線変換」の原理です。OCOT情報によれば実際の次元(物理学的次元ではなく、意識を構成していくための観察子の次元のこと)というものは幾何学的には球面を点に変換していく、もしくは球体を一本の線分へと凝縮変換していくことによって、構造化されていると言います。(「面-点変換」よりも「体-線変換」の表現の方が分かりやすいと思うので、以後「体-線変換に統一します)
昔、量子論の本を眺めていて、すぐにハッとしたのは、波動関数がベクトルとして表現されているということでした。波動関数とは回転の表現です。それもx,y,zという成分を考えればこれは球体に3方向に巻き付いた回転のイメージです。ところがそれがヒルベルト空間上ではベクトル、つまり線分として表されている。まさに「体-線変換」が起きているのではないか!!そう思ったのです。
それからというもの、おそらくこうした「体-線変換」の無限の連なりがこの空間にはある。物質はその連なりでできている。。それを見出していくことがヌース的次元上昇のことであり、創造空間への参入の意味なのだろう、と考え始めました。最初の頃は、夜中のファミレスでタパコの箱を目の前でグルグルと回していました。何時間もそういうことをやってコーヒー一杯でねばっているものだから、ウェイトレスが気味悪がっていたっけ(笑)
そこで気づいたのは、モノは回っても背景の空間は回っていないということでした。背景の空間を回すためには自分がタバコの箱の周りを回らなくてはいけない。。。すぐにピンと来ました。ここで第一段階目の「体-線変換」が起きているのだと。言い換えれば、視線という一本の線分がすでにタバコの箱という立体をすべて含んでいるということです。だから、タバコの箱をグルグルと回しても視線は不動、つまり動かない、タバコの箱をあらゆる角度から見たその見え姿はすべて視線という一本の線分の中に吸収されている。。そう思えてきたのです。
そうやって、空間は次元を上げている。ならば次の次元の階層は何だろうか。。単純です。背景の回転が起こる空間ということになります。そうやって今度はタバコの周囲を回って自分の視線を回し始めたのです。さすがに、ファミレスではやれませんが(笑)
自分がタバコの箱の周りを回れば今度は背景も回転を始める。。おそらくこの背景空間の回転も一本の視線の中に束ねられているのだろう。。そして、このここで線分へと束ねられた空間が第二段階目の「体-線変換」に相当してくることになります。。。勘のいい方はもうお分かりになられたかもしれません。この第二段階目の体線変換が波動関数ψの状態ベクトルとしての表現形式になっているということですね。。。
ありゃま、長くなってしまった。まだ、最初の1ツイートについての解説にもなっていないのだけど・・・
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: シュレディンガー方程式, スピノール, 佐藤博紀, 量子力学