7月 24 2017
波動関数ψのヌーソロジー的解釈―素粒子は対象ではない
たとえば、物理学は波動関数ψ(x,t)の絶対値の 2乗を粒子の位置の確率密度(確率のもとになるもの)として解釈する。しかし、奥行きと幅を複素平面と見なし、それらを持続とイメージの空間として見なすなら、波動関数ψ(x,t)とは人間が対象認識を行うための持続構造の表現と解釈することができる。つまり、対象の周囲には常に人間の無意識が持つ持続空間が取り巻いているという、例のキュビズム的空間のことだ。→下リンク参照。
この回転にその鏡映(複素共役)を掛け合わせたものがΨ*Ψ=|Ψ|^2となって実際の確率密度を表す。
この回転を固定された虚軸の位置から見てみよう。すると回転している方の虚軸と実軸はどのように見えるだろうか。
それはすぐにイメージできるのではないかと思う。ともに左右方向に振動しているように見えるはずだ。これは、たとえば目の前に置いた棒を水平方向に回転させたときに、その棒が伸び縮みして見えるのと同じことを意味している。物理学では、この伸び縮みを位置(実軸)や運動量(虚軸)の確率の変動として解釈しているのだと考えていい。
しかし、果たして、これは粒子の存在確率などといったものだろうか?こうした「確率」といった解釈も「3次元空間が先にありき」と考える物理学の世界観がもたらしたものと考えた方がよさそうだ。
複素空間を持続空間と仮定するなら、話は全く逆で、本当は持続空間におけるこのような回転があるからこそ(持続なので本当は回転すらしていない)、意識は物体の位置を3次元的な認識の上にあげることができていると考えなくてはいけない。
早い話、世界は確率などで出現しているわけではない、ということ。
素粒子を対象(前もって3次元空間の中に確率1としてあると仮定されているもの)と見なしているから、確率なんて話になってしまうのだ。素粒子とは意識に対象(位置)を認識させているものであって、対象などではない。
となれば、素粒子を確率的存在と見なす考え方から派生してきている並行宇宙論(一瞬一瞬において無限数の宇宙へと分岐する宇宙)なんてものは最悪の仮説と言える。世界はかけがえのない唯一無二のもの。そう考えないといけない。
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7月 26 2017
『人間の建設』が忘れ去られてしまった世の中
出版者の友人O氏から小林秀雄と岡潔の対談本『人間の建設』が贈られてきた。ざっと目を通す。昭和40年に為された対談なので、もう5O年以上も経っているわけだが、少しも古さを感じさせることなく、大変面白い。岡潔が何度も「知力の低下」を嘆いているのが印象的だった。
岡潔が言う「知力の低下」とは何も知識を学ばなくなったことを意味するわけじゃない。もはや心を思考や知の母胎としなくなったということ。これは最近にいう「感情の劣化」とも深く関係していることだろう。人々から世界の肌理を感じ取る感受性がどんどん失われていっているということ。
以前、ヌーソロジーの波動関数解釈について少し話をしたが、僕自身は、こうした話もこの岡潔のいう「知力の低下」と無関係な話じゃないと思っている。
今回も、また過激に次のように吠えた(笑)
「素粒子を対象(前もって3次元空間の中に確率1としてあると仮定されているもの)と見なしているから、確率なんて話になってしまうのだ。素粒子とは人間の意識に対象(位置)を認識させているものであって、対象などではない。」
嬉しいことに、この一文に対して、専門家のS氏から次のようなコメントが寄せられた。
「これは非常に重要なポイントですね。科学者は通常、素粒子を物質の延長として捉えている。」
僕のレスは次の通り。
「はい、素粒子の哲学的理解のために、文字どおり物の見方の転換が必要ですね。「所与を与える当のもの」という差異の考え方が必要だと思います。」
ここで言ってる「差異」とはいつも引き合いに出すドゥルーズの概念なのだけど、差異とはドゥルーズによれば次の通り。
「差異は、雑多なもの(le divers)〔感覚されるもの〕ではない。雑多なものは、所与(le donne)〔感性に与えられるもの〕である。しかし差異は、所与がそれによって与えられる当のものである。―ドゥルーズ「差異と反復」P.333
かなり難しい言い回しをしているけど、要は、差異とは所与を与える側の能動的な知性のことを言っていると思えばいい。これはヌーソロジーの「ヌース」とほぼ同じ意味だ。ヌーソロジーの考え方から言えば、素粒子とはその意味で、受動的知性(人間)から見た最初の能動知性の姿だと言うことができる。
この知性にあっては、知るものと知られるものは常に同じ一つのものだ。つまり、主客一致が現実化している。観測者が関与しなければ観測対象も姿を現し得ないという、量子論的世界の特徴がそれを端的に指し示している。
アリストテレスは能動知性のみが、人間のうちにあって不死にあずかるとした。彼の霊魂論である。あえて、古めかしい言い方をするなら、ヌーソロジーにとって素粒子とは霊魂のことでもある。目に見えるもののすべては目に見えない力によって支えられている。その世界像を思い出さないといけない。
人は知性において宇宙の原理、はじまりに参与し、不死にあずかる。知性とは本来そういうものだということ。単なる知識の蓄えや、操作的思考は知性とは真逆のものだと考えていい。岡潔の言う「知力の低下」という言葉の本意も、こうした本来の知の匂いを全く嗅ぐことをしなくなった、今の「知る」の現状のことを言っているのだろうと感じる。
世界を対象として見ることをしない、もう一人の自分を作って行こう。そのためには、自分の内に深く分け入り、その内を外へと繋いでいくことのできる思考を立てていかなくてはいけない。そうした思考が立ち上がってこない限り、世界は何も変わらない。そして、私自身も。
『人間の建設』、いい本です。興味がある方は是非、ご一読を。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 0 • Tags: アリストテレス, ドゥルーズ, 小林秀雄, 波動関数, 素粒子