3月 17 2006
ヌースとシュタイナー(1)
ヌース理論には聞き慣れない用語がたくさん登場してくる。ヌース用語というやつだ。ヌース用語は基本的にシリウス言語(OCOT情報に含まれる意味不明の語彙)と、理論を体系化づけるためにわたし自身がひねり出した造語とのミックスで成り立っている。こうした特殊な用語による論の構成が、ヌース理論に対して必要以上に難解なイメージを与えていることは否めないが、これはヌース理論の成り立ち上、致し方ないことだ。
人間の霊的構造を空間構造へ編集し直し、さらにそこに現れた幾何学性を物質構造へと接続させること。これがヌース理論の基本コンセプトである。こうした思考の試みは科学や宗教はもちろんのこと、神秘学の中でもあまりお目にかかることはない。いや、秘教的伝統の中には存在していたのかもしれないが、今ではそのほとんどが忘却されているのだろう、そのわずかな記憶の残滓は、神聖幾何学という名称でかろうじて命脈を保っているように思える。その意味では、ヌース理論は、かつて存在していたと思われる霊的存在としての原人間が所持していた、この神聖幾何学的な知性を忠実に再現しようとする試みなのかもしれない。
まぁ、本当のところは分からないが、とにもかくにも、神秘学や神智学が説いてきた霊的構造の理論を、超越的なものではなく、認識可能な現代知の対象へと引き下ろすこと。それがヌースのやりたいことなのだ。
神秘学の系譜を継承している霊学として、例えば、シュタイナーの理論を例に挙げてみよう。シュタイナーは人間を形作るための四つの基本的な構成体を次のような言葉で表現している。
1、物質体
2、エーテル体
3、アストラル体
4、自我
ここでいう物質体とは単純に人間を構成している物質的要素、すなわち肉体のことである。エーテル体とは物質的形態生み出す形成力、さらには物質の活動力を支えるエネルギー体のことである。生命エネルギーのようなものだ。これは悟性魂と関連を持つ。一方、アストラル体とは感情や主体意識として把握されるエネルギー体のことを意味する。こちらは感性魂と関連を持つ。
シュタイナーのいう自我とは普通に言う自我とは違い、今挙げた物質体、エーテル体、アストラル体という各要素に主体として働きかけ、それらを浄化していく働きを持つ力とされる。つまり、肉体をベースとしたエーテル的作用である「知」とアストラル的作用である「情」の活動のもとに、それらをバランスよく統合した上で生じてくる自我的作用である「意」に、文字通り、自我(エトス的なもの)の完成を見ているのだ。シュタイナーは、こうした自我によって変革されたアストラル体を感覚魂と呼び、変革されたエーテル体を悟性魂、変革された肉体を意識魂と呼んでいる。
以上の関係性をヌースの概念に対応させると、おそらく次のようになるだろう。
1、元止揚の対化(ψ1〜ψ8)
2、思形(ψ9)
3、感性(ψ10)
4、定質と性質(ψ11〜ψ12)
元止揚とは胎児空間のことだ。ここには前次元のすべての理念力の活動が集約されている。その物質化が人間の基礎としての肉体を構成する。思形とは「人間の内面意識」を形作るための働きで、現象を客体化していくための理念力のことだ。これは大雑把にいうと言語認識の力を意味している。感性とは、「人間の外面意識」を形作るための働きで、主体化を促して行くための理念力に然相当する。これは現象を知覚や感覚という作用として対象化する働きを持っている。
定質とは、思形と感性を等化していくための力で、大雑把に言えば、人間の個体化を欲望の生産と消費の反復によって凝結させていくための理念力のことである。思形は現象の「不在」、感性は現象の「在」を意味しているので、欲望は、この不在と在の等化-中和の反復性として発生することになる。性質とはそうした消費によっても決して消費され尽くすことのない、霊的なエネルギー母胎の無尽蔵な深淵を意味する。
シュタイナーは、上に挙げた物質体を除く三つの構成体を知覚するための超感覚の取得を促しているが、ヌース理論の考え方では、これらは理念的対象と見るので、たとえそれが超知覚であっても、知覚的な対象物となり得るとは考えない。もし、そうしたものが知覚・感覚的なものの範疇で何らかの対象物として認識されたとしても、それらは理念的対象の影のようなものであり、実体ではないと考える。理念的対象はあくまでも感覚や知覚に捉えられるものではなく、超感覚的な「思考」がつかみ出すものだ。
ヌースが持つこうした思考優先の姿勢に抵抗を感じる人がいらっしゃるのかもしれない。事実、ヌースは何度なくその面での批判を受けて来た。しかし、理念的なものは絶対的な差異として出現しなければ理念とは呼べない。現代という時代は自我の運動がアストラル領域に強く働きかけているために、感覚や感性が重視される傾向がある。理性はダメ、感覚が大事、というわけである。しかし、近代の理性と同じく、人間をメタレベルへと移行させるためには、近代の感性も批判的に乗り越えられなければいけない。現代に見られる分裂症的な諸意識の様態の先にある新たな思考様式。それを指し示すことをヌース理論は意図しているのだ。
その意味で自我の解体とは、自我の構成機構を自我自体が認識することによって可能となる。ヌースのいう顕在化とはそういう意味を持っている。顕在化によって自我内部を構成する観察-被観察の構成がメタな関係へと移行し、自我は解体を余儀なくさせられるというストーリーである。シュタイナー的に言えば、自我はそこから、霊我、生命霊、霊人といった高次の人間の意識レベルへと進化を起こすのだ。自我が現在のアストラルレベルから脱却し、物質体へと侵入する時期は近い。それもまたヌースがいう顕在化の意である。
4月 28 2008
時間と別れるための50の方法(7)
ようやくMacも復旧。まずは仕事の遅れを取り戻していました。
今日からまたボチボチ、ブログの方も更新していきたいと思います。
現在、このブログでは2月に出した『人神』のアドバンスト・エディションの補足をする内容を思いつくまま書いている。その中でもとり分け「人間の内面」と「人間の外面」というヌース用語の基本中の基本とも言える言葉についてより理解を深めてもらうために、身体における前-後という概念について少し掘り下げている。というのも、アドバンスト・エディションにも書いたように、「人間の外面と内面」というヌース特有の概念がそれぞれ身体における「前の空間」と「後ろの空間」に対応していることがようやく分かってきたからだ。
僕らの意識は普段、3次元空間の中に落ち込んだ位置から空間について思考しているので、「前」と「後ろ」という方向性のトンデモない差異にほとんど気づいていない。おそらく、ヌース理論が今まで次元観察子と呼んできた無意識が形作っている高次の次元構造は、つまるところ、身体における前・後、左-右、上-下という三つの方向性が持つ本質的意味と重ねられて語られていくことになるだろう。自他におけるこれらの三つの方向性の絡み合いが作り出す意識の働きのすべてが見えてくることになれば、それはヌースで言う次元観察子ψ1〜ψ12までのすべてが顕在化したということにおそらく等しい。ということで、とりあえずは『時間と分かれる50の方法………6』で紹介した「後ろ」についての話に戻って、「前」と「後ろ」の、そのトンデモない差異を露わにしていくことにしよう。
「後ろ」は見えません。「後ろ」には「わたしの身体の後ろ」と「正面に見えている対象の後ろ」という二通りの後ろがありますが、どちらも見えません。この二種類の後ろに共通しているのは、いずれも向かい合う他者側から見た場合、その他者の「前」の範疇の中に収めることができるということです。この見えない「後ろ」を見たいとき僕らが使う道具が鏡です。その意味で鏡というのは他者の「前」の代用品という言い方ができるわけです。ですから、鏡は自分の前方の中に自らの後方を出現させることができます。ということは、鏡というものはその本来が「バックミラー」と呼ばれてしかるべきものであるということです。
そこで、皆さんも、朝起きて洗面所の鏡の前に立ったときの自分の姿を思い出してみましょう。普段は寝ぼけ眼で見ているから気づきにくいのですが、やっぱり、鏡に写っているのは「後ろ」の世界です。ということは、次のような非常識的な推測が成り立ってきます。つまり——僕は自分の顔が前に付いているとばっかり思っていたのだけど、鏡に映し出されている世界は僕の「後ろ」なんだから、顔は「前」に付いているというより「後ろ」についていると考えなくちゃいけないのではないのか——ちょっと奇妙に聞こえるかもしれませんが、これは、前を見るにしても、後ろを見るにしても、実は視点というか、視線の方向がそれぞれ二つづつあるということを言っています。普通、僕らは文字通り自分の前方向を「前」と呼んでいますが、自分の顔がある場所も「前」のように感じています。というのも、顔と反対側の頭部は「後頭部」と呼ばれ、「後ろ」とされているからです。でも、これってちょっと変です。なぜなら、「前」とは見える世界が存在している場所の方向を差している言葉のはずなのに、自分の顔は見えない世界側に属しているからです。自分の顔が「前」にあると認識している意識は、普通に「前」を「前」と認識している意識とその方向性が完全にひっくり返っているにもかかわらず、人間はその方向性の違いに無頓着で、それらを一緒くたにして混同してしまっているんですね。極端な話、ほんとうは僕らが後頭部と呼んでいるものの方を実は「前」と呼ぶべきであり、顔面は僕の背後世界の方向に存在している対象と考えるべきなんです。
僕には見えない後ろ側の風景をいつも引き連れているであろう己の顔。この顔は自分自身では実物を決して見ることができず、鏡像を通した想像力でしか捉える術がないのだから、とてもリアルな顔面とは言えません。自分にとっては自分の顔面はあくまでも「仮面」なのです。そう、ペルソナ(persona)です。このペルソナが人間性を養い、パーソナリティー(personality=人格)というものを作り上げて行く土台となります。こで人格と言ってるのは、いわば現象(世界がこうしてあること)に浮上してくるすべての意味の統括者としての自我存在のことを意味しています。
ですから、僕は半田広宣という仮面を被っており、ここでの語りもまたすべてその仮面による語りです。おそらく、この語りを聞いている皆さんも、すべて仮面-者としての皆さんでしょう。そこで僕はほんとうの顔って何だろうと考えるわけです。仮面じゃないほんとうの顔面は昔風に言えば「面(おもて)」です。時代劇とかで「面を上げぇ~い」と言うでしょ。アレです。「面を上げぇ~い」と言われれば、昔の人だって当然、顔面を上げてしまうことでしょうが、顔面は仮面なのだから、面ではありません。シリウスファイルにこんなやり取りがあります。
コ : 人間が見ている世界とは何ですか?
オ : 面です。
シリウスでは「面(めん)」というのは眼に見える世界そのもののことを言うそうな。。あひゃ?ひょっとして、それって「前」のこと?見えてる世界そのものが僕の素顔ってことなのか?
そうです。OCOT情報のいう「面」とは、僕が『人神/アドバンスト・エディション』の中で不動の視野空間と呼んだものそのもののことを意味します。。。。——つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 2 • Tags: ヌース用語, 人類が神を見る日, 内面と外面