4月 8 2022
来るべき世界のための惑星芸術
最終構成では民主主義は消滅して行く。これは近代理性に裏打ちされた自由・平等の主体たる自我概念が通用しない時代に入っていくということでもある。国家や巨大IT企業など、最初はDXフル装備の権威主義のもとに世界はディストピア化して行き、その後に、新しい民主主義が芽吹いてくるのではないかと思う。
僕個人はこの民主主義のことをMona-Democracy(モナデモクラシー)という語感でイメージしている。ここでは縮めてMonacracy(モナクラシー)と読んでみよう。モナドとデモクラシーの合体語だ。要は近代自我ではなく、霊的個体化した者たちによる民主主義。だから、古い民主主義のように人間中心主義ではまったくない。そこでは鉱物も植物も動物もすべてが民衆。
モナクラシーの大地は4次元空間であり、そこで暮らす人々はコミュニケーションではなく、コミュニオンによって結ばれている。コミュニオンとはヌースによる精神流動のことで、この流動は、最初は人間の意識の量子同調から始まる。
モナクラシーの社会は社会契約ではなく、存在契約で成り立っており、自己と他者は物においてつながっている。物が自己と他者を等化しているという前提に立って、自然全体を精神の共同体として見なすわけだ。
当然、ここにおいての自己や他者とは持続に位置を持つ自己や他者であり、当然のことながら死者たちをも含む。物質的自然はこれら全モナドの生産によるものであり、当然、旧体制の自我もそれに含まれる。中心は集合主体としての物であり、彼らの知覚にはそれは大地としての地球として捉えられてくる。
旧体制からこの新体制への移行期では物質的身体の維持も必要なので、従来型の国家というマクロな政治システムを解体し、数万人単位のミクロな行政システムをブロックチェーンで組織化し、それらをAIでスマート化させ、マクロ行政やマクロ経済の均衡を取っていく。
問題は旧来型社会の欲望の質的変化が起こりうるかどうか。旧来型であれば、それはビジョンの達成であったり、金や地位や名誉を得るという極めて自我的なものだったわけだが、こうしたモナクラシー社会を推進して行くためのインセンティブとは何かということ。ここが難しい。。
不死というのはどうだろう。モナクラシー的社会は人間に不死をもたらす。。そうなれば、みんなこぞってそちらに動き出すのでは(笑)
資本主義社会が唯一恐れているものは器官なき身体の登場だとドゥルーズは語っていた。これは逆に言えば器官なき身体が到来しない限り、資本主義に終わりはこないということ。しかし、資本主義が末法万年が如く続くのならば世界に未来はない。器官なき身体とは不死なる人間のことでもある。
実際に不死になるかどうかは別として、あたかも自分が不死になるかのような感覚を与える新しい世界観を作り出すこと。それがヌーソロジーがやっているゲシュタルト変革だ。自らのうちに眠る器官なき身体を一つのアーキテクチャーとしてデザインしていくこと。その意味でヌーソロジーはアートである。自らが地球になるための惑星芸術である。
下写真/Francois Morellet Reinstallations
7月 15 2022
【武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所】研究動画シリーズ#009
「主観空間と客観空間の間における存在論的差異について」というタイトルでの研究発表です。
<補足として>
今回の研究所の研究動画で取り上げた、客観空間と主観空間との間の本質的な違いというヤツ、少しは皆さんにも伝わっただろうか。
私たちは普段、外の世界を見ていると思っているが、見えている世界は実は外ではなかった、という気づき。
この気づきがないことには、ヌーソロジーの思考はスタートを切ることができない。
「見えている世界は外」というのは私たちの常識でもあるから、ヌーソロジーのこうした主張に、それだけで思考停止状態に陥ってしまう人たちも多いのではないかと思う。
それだけ、私たちは外の世界、つまり、客観世界に根を張って、自分の認識する世界を組み上げているということだ。
そのような世界の認識の仕方を一度エポケー(判断停止)して下さい、ということ。この辺りはフッサールの現象学に似ている。
ただ、ヌーソロジーが現象学と根本的に違うところは、自分の3次元的な位置さえもエポケーするところ。
客観世界をエポケーするのであるから、3次元空間上の自分の目は存在しないも同然となることが分かる。というのも、3次元上にある自分の目は、三人称視点によって捉えられている物であるから。一人称視点では、ドゥルーズがいうように「眼とはスクリーン」となって現れていて、客観的な3次元の位置にいる「自分」という存在は消えてしまう。
それによって、現象の現前は、大森の言うように、不動の知覚正面としての”4次元的位置”へと変わるということ。
この位置の移動によって、客観世界としての4次元時空に対して、主観世界としての4次元空間(虚時間世界)というものが立ち上がり、動画でも紹介したように、そこに”存在論的差異”があることが了解されてくる。
ヌーソロジーでは、そこから、量子論との接合が始まっていくという筋書き。
その意味で、大森が直観した「面体分岐」の面と体の分岐とは、立方体の「体」と、その一つの「面」との分岐ではなく、3次元空間としての「体」と、知覚正面としての「面」との分岐として考えないといけない。
哲学をやっている人でも、この辺りの大森の真意を理解している人は少ないように思える。
つまり、私たちが、物の手前に感じ取っている自分の位置とは、本当は3次元的な手前ではなく、4次元的な手前になっているということなんだね。
とにかく、見られているものの空間と見ているものの空間を3次元と4次元に分離させて考えることが必要だと思うよ。
その視点を獲得し、そこから4次元の思考が始まると、空間の見え方や物質の見え方も、大きく様変わりしてくる。
見えている世界は同じなんだけど、見え方がまったく変わるのね。
それはそれは、本当に素晴らしい世界。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 03_動画 • 0 • Tags: ドゥルーズ, フッサール, 大森荘蔵, 量子論