10月 19 2010
スピノザと量子世界
先週の日曜日、久々に書店へ。そこで「スピノザと表現の問題」(ドゥルーズ)をゲット。以前から気になっていた本だ。パラパラとページをめくってみる。「差異と反復」よりは読み易い。スピノザの思考自体が僕の好みだからだろう。
スピノザはレンズ磨きの職人でもあった。ポルトガルからユダヤ教徒としてオランダに移住してきた両親のもとで育った。彼自身はユダヤ教の神にもキリスト教の神にもなじめず、一人孤独に自分自身の神を求めた。そんなスピノザにとってレンズとは自分自身の理性の目の象徴だったに違いない。レンズは視力を矯正する道具だが、スピノザが取った哲学に対する幾何学的方法論もまた人間の精神を光学的に矯正しようとするレンズ磨き的なアプローチだったと言える。
スピノザは、観念の秩序や連結は物の秩序や連結と同じである、と言う。というのも、結果についての認識は原因についての認識に依存しているがゆえに、その原因の認識をも含みもって成り立っている必要があるからだ。僕らが見ている世界とは言うまでもなく結果である。この結果としての世界には神の所作(創造)という原因がある。だから、人間が行うあらゆる認識は神の認識に依存している。しかし、人間の認識は神の認識を棚上げにし、人間の認識に基づき理性を働かせている。認識における半分がまるまる欠落しているのだ。
このようなスピノザの思考手順を考慮した場合、事物のほんとうの認識に到達するためには、事物の創造を引き起こしたところの認識に出なくてはならないことになる。こうして認識を突き詰める思考は必然的に神の思考領域へと誘われる運命を持っており、最終的にはスピノザ的な存在論にたどり着く。
こうした存在論をもとに、スピノザは認識を以下のような三つの種類にカテゴライズした。
第一種の認識——記号、または感覚に基づく認識
第二種の認識——「共通概念」に基づく理性的認識
第三種の認識——第二種の認識からのみ生じる直感知
スピノザがいう事物の真の認識とは当然のことながら、ここに挙げた第三種の認識によって行われるものである。第三種の認識のみが事物のほんとうを言い当てる。そして、事物のほんとうを言い当てられたときは、それは事物の創造の現場に立脚した生成の流れでなければならない。そこで事物は始めてスピノザの言う実体となり得るのだ。
さて、以上のようなスピノザの論法に立って、現在の科学的思考が物質を認識している態度を見てみよう。科学的認識は典型的な第二種の認識だと言える。公理という前提を立て、そこに万人に共通する概念のネットワークを設け、物の秩序や連結を事細かにその約束事のもとで記述する。この記述の積み重ねを通して、科学的思考においては物質生成の根本的原因は物理世界を支配する4つの力へと還元された——ただ、ここに大きな問題が露呈してきた。現代科学が量子的レベルで「物質の秩序と連結」といったとき、それはもう表象のレベルではその像を結ぶことができないような世界なのだ。つまり、物質の最下層を支えている量子という存在はもはや物質と呼べるような代物ではなく、物質的表象では把握することのできない何者かへとその存在の様式を変化させてしまっている(不確定性原理では位置と運動量、エネルギーと時間等を同時に測定することはできないとされること等)。
OCOT情報では、こうした表象不能となった量子の出現を人間による「認識の完全化」が起こる前触れと見なしている。これはスピノザの言葉を使えば、量子世界は第三種の認識を持ってしか把握できない、もしくは、第三種の認識の様態こそが量子世界の本質であるということを示唆しているのではないか。電子銃から発射された一個の電子が、複数のスリットを同時にすり抜け、スクリーン上にはまた一個の電子となってその跡を残す,等々——・まるで亡霊のような振る舞いを見せる量子。しかし、第三種の認識にとってはこうした量子の挙動は当たり前のことのように把握されるはずだ。
スピノザは第三種の認識は永遠の相の下に行われるという。
——永遠の相においての対象は事物ではなく観念である。観念は個物を説明するのではなく、すべてのものに共通するものを説明するがゆえに、それは時間とは何の関係も持たず、永遠の相の下において考えられなければならない(エチカ)。
たとえば、電子を事物の位置を規定する観念の力そのものと考えてみよう。当然のことながら、事物のあらゆる位置は一つの位置という観念によって規定されている。となれば、観念は常に一つであるがゆえに、一個の電子の位置はときとして二個の穴の位置、いや無限数の穴の位置への変身であっても一向に構わず、また、それが到達点の位置としてスクリーン上へと達したときは素知らぬ顔である特定の位置を把握するための観念として一個に収束してしまっても何の不思議もない。つまり、観念がそのまま実在とリンクしているところ、それが量子的世界なのではないかということだ。その意味で言えば、量子的世界とは時間の中に永遠の相が顔を出している部分だとも言えるのかもしれない。「最も抽象的なものこそが最も具体的なものなのである」と言ったハイデガーの弁は、まさに物質において成り立つ。
ここでの量子のイメージをさらに突き詰めるならば、世界の原因の認識(はじまり)と結果の認識(おわり)との接触が量子力学という事件として起こっている、という言い方もできるだろう。もし、そうならば、量子をスピノザの言葉で言うところの所産的自然と見なすことは御法度である。量子は作り出されたものではなく、作り出すもの、つまり、創造のためのアプリケーションと見なす必要が出てくるからだ。そして、事実、量子のみが延長において人間の思惟(観測者)とのインターアクションを持っている。思惟と延長とが作る平行線が交わるところ。これはスピノザの定義に従えば実体にほかならない。つまり、量子とは能産的自然の世界への扉として再解釈されなければならないのだ。
この時代にスピノザを召還する者は、スピノザの精神に倣って、量子を見るための光学的方法を設計しなければならない。それは4次元を大地とする場所に降り注ぐ光の生態学であり、一切の個物に関する知識を捨て去った無時間の学と呼んでいいものである。物質と精神はそこで初めて第三の実体としての神の思考へと変貌することができる。そこにおいて、僕らはスピノザが垣間みていた宇宙的倫理の意味を初めて理解することが可能になるだろう。それは共同体の指標を喪失してしまった現在の僕らこそが最も必要としているものなのではないか。。
11月 22 2010
ドゥルーズのバトン
最近、ドゥルーズの本ばかり読んでいる。ドゥルーズに初めて触れたのは今から10年ちょっと前ぐらいだったか。丁度、ヌースアカデメイアのサイトを立ち上げた頃だった。友人でもある詩人の河村さんに、半田さんはドゥルーズを読むといいんじゃない、と言われ、最初に何気に手に取ったのが『アンチ・オイディプス』(ガタリとの共著)という本だった。今思い出しても強烈な体験だった。読み始めると同時に、それこそ頭蓋骨にハンマーが振り下ろされるような一撃を喰らった。なぜなら、それまで、OCOT情報と格闘しながら自らの拙い思考で整備していた無意識機械の構成部品の数々が、この書物を手にしたことによって、まるでマジンガーZの合体シーンのようにカシーン、カシーンと金属音を響かせながら一挙に脳内に組み上がってきたからだ。そうやって姿を表したのが現在ヌーソロジーの骨格として使用している「ケイブコンパス」というフィギレーションである。
『アンチ・オイディプス』が打ち出すビート感とドライブ感に一発で魅せられた僕は、その後、『千のプラトー』『差異と反復』『哲学とは何か』など、K書房新社から出ている高価な単行本を買い求めては、ドゥルーズが見ている内在野の風景が果たして、OCOT情報から僕が読み取ったもの(OCOT情報ではドゥルーズが概念化している内在面のことを「付帯質の内面」といったような言い方をする)と同じものなのかどうか、それを確かめたい一心で読み漁った。しかし、悲しいかな、ドゥルーズの本は、哲学の基礎教育を受けていない僕のような素人にはどれも皆、難解なものばかりだった。書物全体に散りばめられている語彙の出所は、哲学はもとより、神話、古代思想、神学、文学、絵画、音楽、映画etc…と広大な射程を持っていて、聞いたことのないような単語でベージが埋め尽くされていることも多々ある。西洋の人文科学史の全体を覆い尽くす知の全体からこぼれ出してくるその語彙群の夥しさは、まるでカマキリの孵化を見ているかのような強度で、時折、目眩を誘発させることもある。
まぁ、しかし、こうした語彙の難解さは知識の補強で済むことではある。実はドゥルーズの難解さの本質はそんなことではない。ドゥルーズは明晰さなどは微塵も追求してはいない。つまり、読者に自分の哲学を理解してもらおうなどとはこれっぽっちも思っていないということだ。このへんはOCOT情報に酷似していて面白い(笑)。つまりドゥルーズは哲学の先生でもなければ、哲学の評論家でもない。ただ生粋の哲学者だということだ。「哲学とは概念を創造することだ」というドゥルーズ自身の言葉にもある通り、ドゥルーズは概念のクリエーターであり未知の思考そのものを生きている人である。ここでドゥルーズがいう「創造」とは、〈表象=再現前化〉が支配する自我の同一性から解放された思考の所作を意味している。一般に思考というものが〈表象=再現前化〉のループの中で展開されるものである限り(実際、思考というものは事物の自己同一性が担保されていなければ成り立たない)、ドゥルーズのいう創造とは思考不可能なものを思考することの意となる。しかも、ドゥルーズは、自身の思考の中で次々と切り開かれてくる概念の蠢きをそのまま自分自身の「書く」という行為の中へと直裁的に反映させる表現者でもあった。つまり、彼が作り出す諸概念は「エクリチュール機械」の中に即座にインプットされ、その文法、構文、文体を通してすぐさま「表現されたもの」という事件として出現してくる――意味につかまらないこと、主語の同一性に捕縛され直線的になりがちな論説に絶えずクリナメン(ずれ)の一撃を与えること、同一の主題に常に変奏のリトルネロを与えること——そうやってドゥルーズの文体は常に神経症的な記述と分裂症的な記述の間を意図的に反復させながら、ロジカルに文脈を追おうとする読み手の理性の関節を脱臼させようとさせるのだ。
こんな化け物のような書き言葉の束を相手に、たった一つの動機で、ただどうしてもOCOT情報を読み解きたいというだけの動機で、僕なりの「差異と反復」が、OCOT情報とドゥルーズ哲学の間を巡って今もまだ執拗に続いているというわけだ。
哲学書というものは最低でも10年ぐらいかけて読むべきものなのだろう。ドゥルーズを知ってからというもの、自分の哲学的無知さ加減をいやというほど知らされ、その間にまがいなりにも、スピノザやカント,フッサール、ベルクソンやフロイトなどをつまみ読みした。その甲斐あってか、最近になってようやく、西洋の哲学が一体何を問題としてきたのか、その全体像というものが茫洋と見え始め、それがフィードバックされて、以前よりもさらに高い解像度でドゥルーズの思考の軌跡が追えるようになったように思える。あと、ヌーソロジーの側面から、ケイブコンパスがその内部に孕んでいる空間構造をかなり緻密に思い描けるようになったことも手伝っているのかもしれない。とにかく、ドゥルーズの言ってることの輪郭がひとりよがりではあれ、極めてクリアにつかめるようになってきた。それと並行して、OCOT情報の蓄積があるおかげだろうか、一方でドゥルーズには見えていない部分も見えるようになってきた。ドゥルーズが自分の思考を表現しようとして、その比喩が不十分である部分、また、読み手にどうしても誤読を誘ってしまっているような部分、そして、ドゥルーズ哲学に根本的に欠如している部分等。。。(特にハイデガーの存在論的差異にニーチェの永遠回帰を接合させた部分の論証が具体的に展開されている箇所が全く見当たらないのが個人的には物足りなく思っている)
ソーカル事件でドゥルーズを初めとするポストモダンの思想家たちが厳しく批判されたせいもあるのだろう。今の思想の世界では、もうドゥルーズは終わったなどと言う人もいる。ドゥルーズを21世紀に甦らせるためには、ドゥルーズを解説するのではなく、ドゥルーズに欠如した部分を補い、かつ、その完全化したドゥルーズを実証を持って証明することが必要だ。そのためにはまずは潜在性としてうごめいてきた哲学的な諸概念を実在性としての物理学的な概念へと接続させることが絶対条件である。僕が執拗に、哲学者たちが語っているアプリオリ(超越論的構成)とは素粒子構造のことなのだと言っているのもそのあがきのようなものである。そして、それはドゥルーズのライプニッツ論やイデア論からすれば全く持って正統な主張のように思える。そして、その〈差異化=微分化〉の思考自らがバロック的な「襞」となって、実在の中に〈異化~分化〉としての新しい物質的表現を持たなくてはならない(それが反物質となるか超対称性物質となるかはまだ分からない。新しい原子ともいうべきか。)。つまりは、ドゥルーズの生成論を現実としての生成へと転換しなくてはならないということだ。それによって、思考は〈思考する私ー自我〉という思考システムの同一性から離脱し、生成の内在面を駆け抜ける生ける強度となって新しい存在への道を切り開くのである。晴れてこの切り開きが起こった暁には、哲学は相転移を起こし、哲学自身を一つの宇宙的な創造行為へと変態させることだろう。そこではもう、思考と実在を区別する術はない。すべてはありてあるもの、つまり存在の一義性の中に融一し、世界から人間という体制は消え去っていく。元素界というトランスフォーマーの空間が顕現するのだ。
この一点のみにおいてヌーソロジーはドゥルーズのバトンをしっかりと受け継いでいる。この一点のみにおいて。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌, ドゥルーズ関連 • 0 • Tags: アンチ・オイディプス, カント, ケイブコンパス, スピノザ, ドゥルーズ, ニーチェ, ハイデガー, フロイト, ベルクソン, ライプニッツ, 付帯質, 差異と反復, 河村悟, 素粒子