7月 7 2005
雑誌「スターピープル」
この二日間はN社から出ている雑誌「スターピープル」の原稿書きをやっていた。次号は何やら「数」についての特集を組むということで、何か書いてくれないかと依頼があったのだ。最初はπとeという二つの超越数について書き始めたが、自分でも訳が分からなくなり挫折。急遽、方向転換してとりあえず最近のわたしのマイブームである虚数について少し書いてみた。発売は9月中旬ということなので、興味がある方はそちらを見て頂きたい。
さて、この「スターピープル」という雑誌、実に不思議な雑誌である。紙質や編集デザインやグラフィックは今までのニューエイジメディアの中でも抜きん出てお金をかけているように見える。しかし、編集長のI氏の話を聞くと、大して売り上げ部数は上がっていないらしい。何でもN社での他の部門で出た利益をごっそりと雑誌製作に注ぎ込んで何とかやっていけてるとのこと。わたしが言うのもおこがましいが、実に殊勝な心がけだ。もちろん、雑誌部門自体の売り上げも伸ばしたいと考えているようだが、そこはそれ、今の出版不況の時代に発行部数を伸ばしていくのはそんな生易しいことではない。N社自体は採算ペースを死守するために旧態依然としたニューエイジ風の書籍の刊行を行っているが、I氏本人は、クリシュナムルティーやグルジェフのファンだけあって、心の底ではハードコアなオカルト雑誌を作りたい野望を抱いているようだ。ただ、時流はそうしたコアさを敬遠するかのように動いている。
マガジンカルチャーというと、わたしたちの若い頃は流行を切り開いていくためのイノヴェーター的なメディアだった。まず雑誌を購読している連中自体が少数だったし、何の雑誌を読んでいるかでその人間の人となりが分かったものだ。マガジンの出自はその本来が政治機関や思想団体のアジテーター的役割を果たしていたのであるから、それは当然の話ではある。しかし、現在では、マガジンは単にマーケッティング理論に合わせて送り出される買い物情報誌の類いがほとんどを占めている。知性や感性を刺激し、生き方そのものをダイレクトに問うような雑誌は皆無だ。
「スターピープル」以前にも、バブル期には、いろいろなニューエイジ向けの雑誌が出ては消えて行った。が、そのほとんどはスピリチュアルマーケットを意識して作られたもので、どうでもよいたらい回し的な情報を常連客に向けて発信していたにすぎない。純粋に新しい価値や世界観の模索に取り組んだものなど皆無だった。マーケッティング戦略としてターゲットをしぼって動くのではなく、新たなターゲットとなる層を作る。そういった心意気とビジョンがなければ雑誌など発刊しても無意味だ。
ヌース理論が語っていることはニューエイジでもなんでもない。むしろオールドエイジ、否、エインシェント・エイジである。この行き場を失った時代の生命力を再生させるためには、古代にちりばめられたグノーシスの叡智を全く違ったテイストで現代に復活させるしかない。「Star People」のstarがNASAが謳っているような星々の意味ならば、この雑誌の命は短いだろう。しかし、魂の灯としてのasterから派生したstarであるならば、たとえ部数は少なかろうが、そこで伝えられていく内容は、単なるマーケット情報ではなく、「存在からの語りかけ」として末永く読み継がれていくことになるはずだ。I編集長の奮闘を祈る。
6月 1 2006
ダ・ヴィンチ・コード
——ネタバレあります。映画を楽しみにしている人は読まないこと。
とりあえず、どんなものか観に行ってきた。いやぁ、驚いた。ウィークデーにもかかわらず、行列ができるほどの大賑わい。僕が行ったのは博多の中州にあるユナイテッド・シネマのシネコン。ここでは3館で封切られているのだが、どこも満員御礼。最近に類を見ない盛況ぶりだ。それに観客のほとんどが10代〜20代の若者たちで占められている。「マトリックス」のような作品なら理解できるが、「ダ・ヴィンチ・コード」にこんなに若い連中が集まっちゃっていいのでしょうか。メディアのバカ騒ぎのせいだな。
原作を読んでいないので何とも言えないのだけど、映画としてはこれは明らかに失敗作デス。謎解き映画であることを考慮したとしても、台詞があまりに解説口調すぎ。おかげで映像よりも字幕を追っかける方で大忙し。僕なんかはまがいなりにもオカルティックな知識が多少あるからいいものの、その方面の知識がない人にはチト難しいのでは?と、ちょっと心配になりながら観た。そしたら、案の定、勇んで映画館に足を運んできたと思われる若者たちの何割かは、上映開始後20分に爆睡。う〜ん、なんか、ヌースレクチャーの初日みたいだな(笑)。
要は、この作品、大枚のお金を叩いて映像化した意味があまり感じられないのだ。ベストセラーに乗っかった便乗商法の典型デス。マグダラのマリアがイエスの妻であったという話は「キリスト・最後の誘惑(M・スコッセシ監督)」などでもテーマになったことがあるので、今更驚くことでもないが、この作品(原作)はそうしたスキャンダルをより俗っぽく描いたので当たったんだろう。いわゆる王家の血脈とかいうやつ——イエス・キリストの血筋がメロヴィング朝の末裔に引き継がれており、その御方は今でも生きている——。日本にもあるよね。こういう類いのそそる話。南朝系の天皇の血を引くフニャララ天皇というのがいて、それをずっと守っている家系も存在する——。まあ、それが本当の話だとしても、僕のようなタイプは、そういうのはカンベンしてと言いたくなってしまうんだな。
イエス・キリストは「家族を憎めない人間は、わたしの弟子にはなるな」とまで言った人。グノーシス主義の過激派だ。直系だの純血など、そんなコテコテのユダヤ的な情念に対しては徹底して反抗したはず。それが何で今さら血脈なんだ?それじゃあ、選挙で教皇を選ぶローマ・カトリックの方がまだましじゃないか。
キリスト教は一つの巨大な虚構装置だ。西洋中心の歴史概念はすべてこのキリスト教という最大のペテンの上に築かれてきている。青年イエス・キリストはグノーシス主義者だったと思われるが、キリスト教自体は違う。彼らはイエスの権威を纏った権力集団である。連中がやってきたことを事細かに見てみるといい。布教・聖戦という大義名分のもとに世界の隅々までに軍隊を派遣し、力で民衆を支配する。十字軍、イエズス会、コルテス、ピサロ・・・そして、重要なことは、現代も本質のところではそれは何も変わっていない、ということだ。やり方こそスマートになってはいるものの、「無限の正義」をひけらかすかの帝国の精神構造は昔のローマ・カトリックそのものではないか。世界は未だにユダヤ・キリスト教の中に潜む男のロゴスによって支配されているのだ。
この作品で一カ所だけ光ったところがあった。ラストシーンだ。ルーブル美術館の前のピラミッドの地下深く、無数の芸術作品に囲まれて眠るマグダラのマリア像。それが最後に大写しにされる。これは象徴表現としてはかなりグーだ。ヌースをしこしこやっているわたしとしては少しジーンとした。聖母マリアではなく、マグダラのマリア。これが肝心な点なのだ。今まで、キリスト教をモチーフとした映画では、十字架の上に磔にされたイエス像か、幼きイエスを優しく抱く聖母マリア像しか登場しなかった。しかし、ここにきてついにマグダラのあの女がスポットライトを浴び出したわけだ。これは、本当に画期的。ピラミッドの下に眠る乙女イシス。月の知識の象徴。芸術の原動力。まさに眠れるグノーシスである。
イエスの復活はマグダラにかかっている。マグダラこそが復活するイエスの母なのだ。こうした映画が世界中で大ヒットするということは、ひょっとすると多くの人の無意識はすでにマグダラの目覚めを直感しているのかもしれない。彼女はたぶん絶世の美女だぞ。誰が彼女のハートを射止めるか。頑張ろ!!
By kohsen • 09_映画・テレビ • 4 • Tags: グノーシス, ユダヤ, ロゴス