6月 30 2023
ヌーソロジーの空間観と人間観
見るもの自身も空間の中に含まれている。それがヌーソロジーの空間観である。今の私たちにはそのことに気づいていない。だから世界が対象のように見えてしまう。見るもの自身が空間に参与してくるなら、世界と自己は分離不能なものとして顕現してくるだろう。これが、ヌーソロジーがいう「顕在化」だ。
この”見るもの自身”の存在は当然「奥行き」の中にいる。そして、この奥行きは3次元の中には含まれていない。もしあなたが奥行きを3次元の中の一つの方向として見ているなら、あなたの魂はすでに他者に乗っ取られている。それは他者から見たあなたの奥行きであって、あなた自身の奥行きではないからだ。
つまり、3次元認識の中ではあなたという存在は抹殺されていると考えてよい。一体どれだけの情報、知識群がこの3次元の鋳型に沿ってあなたにインプットされていることか。それらの知識群があなたをあなたの奥行きからますます遠ざけていく。「抹消された主体」とは、この”奥行き”のことなのである。
知覚的現実として奥行きに長さはない。延長で構成された3次元空間から見れば、奥行きそのものは無限小への射影になっている。そして、この射影としての奥行きが3次元で物質と呼ばれているものの起源、すなわち素粒子になっている。空間の外と内を繋ぐ認識の出現……存在の開きとはそういうものだ。
これはハイデガー風にいうなら、天空と大地の抗争に終止符が打たれるということでもある。天空とは外在性のことであり、大地とは内在性のことでもある。すなわち三才としての天・地・人——世界を形成する要素としての天と地と人。この言葉の本意も存在論的に理解できてくる。
天空の支配のもとに生きるか、大地の意義のために生きるか——すべての人間がこれら両者間の抗争の場に投げ込まれ、両者を調停すべく使命を持って、天空と大地の狭間に送り出されているということだ。そのくらいダイナミックなイメージで自分という存在を捉えなおしてみるのも悪くはない。
7月 3 2023
奥行きの空間に対して自覚的になること
「ポストモダン」という言葉は今や死語に近い。ヌーソロジーの文脈からすれば、現代がモダンから出れた試しは一度もなく、むしろデジタルモダンの到来によって近代の世界観・価値観はより増強されて行っているようにも見える。科学主義や資本主義がその根底から変容を起こさない限り、近代の終焉が訪れることはないだろう。
個人的には、デカルト以後に起こった主観と客観の逆転が近代的思考の駆動エンジンになっていると思っているので、この逆転した位置関係が是正されない限り、人間主体という驕りを持って稼働するこの「人類」という暴力装置が停止することはおそらくない。つまりは、人間が自然主体の世界へと帰還できたときにこそ、初めてそこにポストモダンと呼べる時代が訪れるということだ。
自然主体の世界に帰還すると言っても、別に近代以前に戻れと言ってるわけじゃない。全く別のあり方で人間を自然の内部へと差し戻して行くのが必要で、そのための絶対条件は「自然を精神化させること」だ。物質的自然は近代の産物であって、これは本来的ではない。この誤った概念を解体させない限り、自然主体のビジョンの到来など望むべくもない。
「今さら自然の精神化なんて、どうやって?」と思う人も多いかもしれないが、このビジョンを実現させるためには空間に対する観念をその根底から変革させる必要がある。空間自体を精神化させるのだ。空間を単なる自然物の容器のように見なすのではなく、自然を律動させている一つの崇高なる精神の様態としてみなすこと。
ヌーソロジーが「奥行き」と呼んで執拗にフィーチャーしているものも、空間に内在する、かような精神のことなのである。
「奥行きこそが自己の場である」ということに異論を挟む人はそれほど多くはないと思う。過去の哲学者たちが語ってきたように、そこは紛れもない”この私”が実存している場でもあるからだ。それぞれの人が固有の奥行きの中に自分を感じて生きている。その事実がまだ私たちにはうまく意識化されていない。
意識は脳の産物であるとか、いや霊魂に由来するのだとかいった応酬で、科学と宗教が不毛な論争を延々と続けているのも、物質と精神をつなぐこの「奥行き」に私たちがまだうまくアクセスすることができていないからにすぎない。奥行きにおいて空間は精神であり、それはまた物質でもあるのだ。
そのような新-感覚が空間に舞い降りてくれば、文字通り、近代は幕を閉じ、近代が作り出した「人間」という概念も世界から消え去って行くことだろう。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0