1月 27 2009
永遠の塩の契約
今回の解説も例によってかなりアバウトです。あくまでもヌーソロジーが物質をどのようなものとして考えていこうとしているのか、その一端を感じとってもらえれば十分です
塩とは何ですか。
元止揚の働きの総体を表相に発露させる働きがあります。
塩は古神道において言霊、火とともに浄霊の三大秘儀の中のひとつとされている。大相撲の力士たちが土俵に塩を撒くのも聖なる競技の場を浄めるためだし、パワーストーン愛好者が塩で石を洗うのも、塩には霊的な浄化力があると信じているからだ。こうしたことを聞くと、科学通の人たちはその大方が冷笑を浮かべながらこう言う——そんな非科学的なことして何になるんだい。塩がエネルギーを浄化するなんて迷信を本当に信じているのかい?確かに塩は食べ物などの有機物の腐敗は防ぐさ。腐敗菌が塩分で増殖できないからね。古代人たちは微生物なんか知らなかったので、それを不浄な霊によるものだと思ったのさ。だから塩には不浄なものを防御する力があると信じ込んでいたんだろうね。そして、それが何にでも通用すると考えた。ただそれだけのこと。塩が君の部屋の気をよくするだって?はは、冗談はよしこさん。せいぜい湿度が幾分下がるぐらいで、気がよくなるなんてことはあり得ないよ。それに、そもそも気って何なのさ。
さて、OCOTからもたらされてくる情報は僕にとってつねに驚きの連続だったのだが、この「塩とは何か」という質問に対する返答はその中でもベスト5に入るぐらいの衝撃があった。ここには列挙されていないが、それは「塩とは光因(こういん)です」という内容だ。「光因」とは読んで字のごとく「光の原因となるもの」の意だが、どうして塩が光の原因なのか全く理解不能だった。
還元主義的な思考に慣れている僕らは普通、小さいものが寄り集まって大きいものを作っていると考えている。こうした思考のもとでは、つねに起源や原因はより小さいものにある。物質世界が素粒子によって作り出されたという科学的思考はその典型である。塩の主成分が塩化ナトリウムであるのならば、塩は塩素とナトリウムの化合によって生じたものであり、塩素やナトリウムは陽子や中性子や電子が寄り集まってできたものであり、結局のところ、それらの粒子はすべて光子に起源を持っているのだと。。光(可視光)も光子の一種に違いはないのだから、光子から塩が作られるという考え方には納得できても、塩が光子を作っているという論理は破綻している、そう考えてしまうのが当然だ。
しかし、どうやらOCOTたちの考え方は違うようだ。彼らにとって原子とは宇宙精神の構造体である。そして、この原子は前回話したように7のリズムを以てある意味、螺旋状にその構造を拡大していっている。螺旋とは直観的にみて重層した回帰性を象徴するものだが、この回帰運動はイメージすればすぐに分るように単に元の場所に戻ってくるわけではない。螺旋状に回転が一回起これば、その回帰は元いた場所Aの一つ上位の位置Bとなっている(下図1参照)。
この上位の位置Bがその下位の位置Aに対して何らかの働きを持っているのではないかと予測するのは心理的に自然だ。つまり、螺旋による回帰性を為す一連の位置群はスライド式に連動しており、上位が一歩駒を進めれば、下位もそれに引き連れられて動いていくような垂直の糸の関係で結ばれているということなのかもしれない。とすると、元素番号が大きいものが、小さな元素を作り出してきた原因となっているということであり、元素が素粒子を作り出す働きを持っていたとしても不思議ではない。
実際、塩化ナトリウムを構成する原子番号11番のナトリウムと17番の塩素との関係をケイブコンパスに対応させてみると面白い符号が出てくる。11番のナトリウムは対化の内面の交差領域における5番目に位置し、17番の塩素は対化の外面における5番目に位置し、重なりを持っている。原子番号11というのは次元観察子でいうとψ11のことであり、これは人間の意識における定質を意味し、その場所は表相と呼ばれる一つのモノの視像を作る位置に凝縮化されてくる。一方、17番の塩素は他者側にとっての5番目の観察子ψ*5であり、これもまた、自己側の表相の位置に重なり合ってくる。より正確に言えば、思形における表相、定質における表相はx、y方向にも表せるがここではZ方向(観察者の方向)に重ねて表示することにする(下図2参照)。
光自体は以前も説明したように、次元観察子ψ3〜ψ4の次元で構成されているが、何か一つのモノを見るというときの光は表相のことを指していることが分る。その意味での光は、少なくとも、ケイブコンパスから予想されるナトリウムと塩素の次元をその奥に携えていると言ってもいいことになる。
これだけでは一体何を言っているのか全く意味不明に聞こえるかもしれないが、僕が現在抱いている観察子の描像力からイメージすると、表相におけるこのナトリウムと塩素の重なりはおおよそ次のような話と深い関連を盛っているのではないかと予想している。
たとえば、新しいセラミックの開発をしている科学者がいるとしよう。彼は今までの材料に新しい材料を混ぜ合わせ、焦熱温度などを調整し、何度も何度も焼き直しては、新素材ができないかと苦心している。何度も試行錯誤を繰り返しては、それぞれの材料の分子構造を解析し、またそれらをうまく化合させるために、窯の中の酸素濃度を上げたり、電磁波を照射してみたりと、偶然が自分に味方してくれるのを辛抱強く待つ。そして、あるとき、自分が直観でイメージしていたものと全く同じものが突然、焼き上がる。こうした経験は程度の差こそあれ、多くの技術者たちが日々経験しているものだろう。問題はこのとき技術者の中の思考と物質との間に何が起こっているのか、だ。その技術者が「それ」を考えなければ「それ」はこの世に存在するものではなかった。それをこの世に誕生させたのは、彼のビジョン、思考、熱意、そして行いである。全くの主観の中にしか存在しなかった彼のイマージュが、客観性を持つものとしてこの世界に物質として出現する。ならば、そうなるような仕組みがどこかに隠されているに違いない——上にある「元止揚の働きの総体を表相に発露させる働き」とはこのよう仕組みのことを指している。
人間の想像力を物質として現象化させるために無意識の奥深くに張り巡らされた秘密の通路。この通路にどうやら「塩」は関係しているということなのだ。あらゆる現象はつねに表相として出現してくるものであり、それは光のもとに放たれる。「光因」という言葉も、そうした次々と産出されてくる新しい光に関係を持つものなのだろう。人間の思考と物質は聖書の言葉にあるように、永遠の塩の契約(民数記)によって結ばれているのかもしれない。
2月 4 2009
コーラ、存在の子宮
●交信記録19940216
窒素の次元と陽子の次元の違いは何ですか。
付帯質の内面にあるものと、付帯質の外面にあるものとの違いです。
中性子の次元と酸素の次元の違いもその関係と同じなのですか。
はい。
宇宙空間と大気圏の関係もそれと同じと考えてよいですか。
はい、その通りです。方向が逆だということですね。
原子番号13番のアルミニウムから20番のカルシウムとは付帯質の変換を観察していく力ということになるのですか。
そうです。見つけ出すものを人間の内面に生み出していく力です。
見つけ出すものとは何ですか?
………………。
そこが真実の人間の次元と考えてよいのですか。
そうです。真実の人間の牽性(ケンセイ)が作り出す要請(ヨウセイ)によって、ヒトの外面性が生み出している力ということになります。
■解説1
窒素の次元と陽子の次元の違いは何ですか。
付帯質の内面にあるものと、付帯質の外面にあるものとの違いです。
中性子の次元と酸素の次元の違いもその関係と同じなのですか。
はい。
宇宙空間と大気圏の関係もそれと同じと考えてよいですか。
はい、その通りです。方向が逆だということですね。
ヌーソロジーにとって素粒子の世界とは哲学者たちが「場所」と呼んでいるものにかなり近い。曖昧で漠としたイメージではあるが、意識の中には確かに場所とも称したくなるような何らかの領域の区別がある。たとえば「わたし」について考えてみよう。「わたし」とは単なる生理的身体(肉体)のことを指すわけではない。だから、わたしという場所は、単に時空的な位置を指すものではないだろう。「あなた」についてはどうだ?あなたにしてもたぶん同じだ。あなたとはあなたの肉体のことをいうのではないし、あなたにはあなたがあなたであるためのあなただけの場所というものがある。その場所があなたを規定しているのだ。では、「わたしたち」や「あなたがた」についてはどうだろう?何か集団で議論をやっているとき、これも漠とした感覚ではあるが、賛成派と反対派の意識がまるで一つの一つの塊のようにして、それぞれ場所のようなものを持っているような気がするときがある。とすれば、外在世界という空間性もそれら意識における多くの場所の中の一つにすぎないのではないかという感覚が芽生えてくる。そうなると当然、今度は、時間の場所、歴史の場所、国家の場所なんてものがあってもおかしくはない。哲学者が場所と呼んでいるものとは、こうした存在論的な差異を形作っている場所のことと考えればいい。
こうしたどことも言えない「場所」という概念のルーツは、おそらくプラトンが『ティマイオス』で語った「コーラ(chora)」という概念に起源があるのだろう。プラトンにとって世界の本質はイデア界にある。その意味で、人間世界に現れた自然現象は洞窟の壁に映る影のようなものでそこには本質はない。つまり、自然界そのすべての営みが影=似像とされるわけだ。だから、思考にしろ、感情にしろ、自然界の似像を媒介にして営まれている表象や言語による人間の意識活動全般もまた本質に触れていないという意味で似像といってよいものだ。イデアを父なるものとすれば、自然界や人間の意識の生産物はすべて子なるものと呼んでいいのだろう。
さて、プラトンはこのイデアとその似像という二者関係の間に、第三項ともいうべき「コーラ(chora)」という概念を置いている。プラトンによれば、コーラは以下のような特徴を持つとされる。
1、生成物を入れる容器
2、無時間性
3、叡智的なものでも感性的なものでもない
4、火、地、風、水の四元素が存在するところ
5、五つの正多面体(プラトン立体)と関係を持つ
6、モノを占めている空間のことである(アリストテレス)
多くの研究者によれば、イデア=父、人間=子とするならば、このコーラは母に対応するものとされているのだが、ただ、その具体的な説明となると、どうも難解で、あのデリダさえも「われわれはまだ、受け取ること、この受容体が持つ〈受け取ること〉というのが何を言っているのかを、考えてはいない」と言っている。
意識に生み出されている様々な表象や言語、それらをバラバラに飛散させることなく、カテゴリー化させ、グループ化させて秩序立てると同時に、また解体し、接合させ、流動、循環、反復を繰り返し行なっていくような、生きた意識の原器の蠕動がある。その原器こそがコーラと呼んでいいものだろう。
さて、このコーラだが、ニュアンスから見ると、これはOCOT情報がいうところの「潜在化した元止揚」というものに極めて近い。僕が常々、人間の無意識構造と呼んでいるもののことだ。潜在化した元止揚は文字通り、人間の意識の生産物とは絶対的に隔絶された差異を持った何ものかであり、それは、生産されるものではなく、元から、そこにあり続けているものでもある。と言って、それはイデア(物質を創造した神の観念)とは少し異なる。なぜなら、潜在化した元止揚とは、あくまでも、人間の知性と感性の調整を行ないながら、最終的には個体を完成へと導いていく構造体であって、その間は、決してその正体を表さない、それこそ、神秘のヴェールに包まれた処女の裸体ごときものだからである。創造的知性としてのnoosが人間の意識に発現し、その元止揚を発見したときには、人間の意識はもう人間の意識と呼べる次元には存在しておらず、発見された元止揚そのものも、それは「顕在化した元止揚」として、「潜在化していた元止揚」とは別なものに変わってしまう。この発見された元止揚そのものがヌーソロジーがイデアと考えるものだ。つまり、この論理でいけば、発見されることもなく「潜在化した状態としての元止揚」は決して知性には現れることのない、まさにプラトンがコーラと呼んだものにふさわしい存在となる。
OCOT情報によれば、潜在化した元止揚とは人間という方向を進化の方向へと変換している場だと言う。また、それだからこそ人間には意識が持てているのだという。神話的に言えば、これは迷宮に入り込んだテセウスに巻き付けられたアリアドネの糸だ。人間自体はすべてが中和された場に、観察精神の付帯質=肉体として生み出されており、それが投げ込まれているところは時空という光なき漆黒の領域である。OCOTによれば、この闇の領域に人間の意識を突っ込ませているの力が重力であり、この重力は質量と結託して物質という幻想を時空の中に凝結させている。その意味で言えば、重力とは父の力そのものであり、父によって子は水〈3次元性〉の中に沈められ、洗礼を受けているということになる。この方向を水上へと変換しているのが、潜在化した元止揚と呼ぶもので、それは物理的に言えば、重力に抗う素粒子群が持つ力に相当している。10年前の『人神』から一貫して言い続けているように、重力と素粒子の力は方向性が全く逆なのだ。
ヌーソロジーでは重力が働いている領域は人間の内面の意識領域と呼び、素粒子が働いている領域は人間の外面の意識領域と呼ぶ。これら両者を合わせたものが「付帯質の外面」の次元となる領域である。付帯質の外面においては人間の意識の変換性は働いているものの、それはあくまでも潜在化しているがゆえに、明確に知性の対象となることはない。いわゆるこれがコーラ=潜在化した元止揚だ。しかし、時が巡ってくると、知性はその方向性をその潜在性へと向け始める。永遠の処女はその股間を開き、ロゴス(種子)を迎え入れ、母なるものへと変身を果たすのだ。この母としての領域がOCOTが付帯質の内面と呼んでいるもののことだ。いわゆる元止揚が顕在化してくる領域のことだ。コーラとして存在させられていた素粒子構造は、この劇的な変身によって、原子番号1番から14番までの元素へとその姿を変えていく。ここが顕在化した元止揚が働きを持つ領域、すなわち、シリウス(ヒト)という場になる。
1、付帯質(フタイシツ)の外面、内面という表現の由来
付帯質とは外在として僕らがモノと呼んでいるもののことです。僕らは普段、自分自身をモノの外部に措定して、そこからモノを見ていると考ています。つまり、現在の僕らの常識では、人間はモノを外からしか観察できない宿命を持っているわけです。このときにいうモノの外というのが付帯質の外面の意味だと思って下さい。付帯質の外面においては内在世界というものは、さっきも言ったように、非常に曖昧な場所としてしか感受できません。こういう場所の曖昧さをOCOTは「人間の意識が持った不確実な方向性」と言っています。つまり、人間の意識は内在の場所を空間のかたちとして示せないわけです。こうした状態が、先にお話しした潜在的な元止揚が活動している状態です。
付帯質の外面がモノの外部だったわけですから、付帯質の内面とは、当然、モノの内部ということになります。つまり、人間が自分はモノの外部にいるのではなくて、モノの内部に存在しているのだ——と考えるようになったときの意識の場所の総称です。主体がこのモノの内部に位置を持つためには、人間の外面の意識(潜在化した元止揚)を覚醒させる必要があります。その第一歩がいつも言っているように、知覚正面自体を人間の主体そのものだと考えることに当たります(位置の交換)。
2、付帯質(フタイシツ)の内面へと移動する方法
知覚正面は『時間と別れるための50の方法』で何度も説明してきたように3次元空間の中に含まれるものではありません。それは正の4次元方向(4次元空間)にあるものです。知覚正面にある奥行きを遠い世界として考えると、そこにはまず時間が入り込んできます。つまり、遠くのものは過去と同意となり、奥行きは時間という負の4次元を重ね合わせてくるわけです。しかし、知覚正面そのものに映し出されている像そのものはベッタンコであり、そこには奥行きは存在していません。いかに遠くの世界であれ、知覚正面ではココにあるわけですから、このココは過去から現在に至るまでの時間をすべて含んだココになっていると考えられます。ヌーソロジーの考え方は、そうしたココこそが主体の位置ではないのか、と言っているわけです。その意味でこのココは時間を持ちません。4次元の長さが限りなくゼロに近いところまで縮められているということです。ですから、何かモノを見た場合、知覚正面上での視線は3次元的な感覚で言えば、すでにモノの中に入り込んだただ方向だけを持った極小の線のようなものになってしまいます(スピノール)。これが付帯質の外面から付帯質の内面へと移動する方法だと考えて下さい。4次元の人間は自在にモノの中と外を出入りできるのです。
写真はウォーターハウス「アリアドネ」(http://blog.goo.ne.jp/chimaltovより借用)
By kohsen • 04_シリウスファイル解説 • 0 • Tags: コーラ, プラトン, プラトン立体, ロゴス, 人類が神を見る日, 付帯質, 位置の交換, 内面と外面, 素粒子