9月 12 2023
幅オンリーの空間から出よう
無限大=無限小という感覚が4次元認識のための絶対条件となる。幅と奥行きは本来等化されている。幅で見れば空間はマクロだが、奥行きで見ればそれはミクロの始原的世界である。この認識のみが志向性の乗り超えを可能とし、自分自身を外と内のねじれとして見ることができるようになる。
見るところにミクロがあり、見られるところにマクロがある。このねじれは当然のことながら自己と他者を折り返す。存在論の哲学者たちが”存在の襞”と呼ぶものも、この折り返しが生み出しているものだ。襞の思考は対象から逃れた主客一致の思考を開始するが、それは自他間の呼吸と言っていいものだろう。
対象知覚とはまったく違った方向にある、この垂直的な可視性。空間の深淵へと向かって穿たれた存在の穴。万物の生成はその内部で活動する永遠の我と汝との語らいの中で行われている。自他が、ここに、こうして、生きていることの理由もそこにある。私たちは彼らの表面だ。
科学的世界観の偏りは、空間が持つこうした垂直的な次元を直視することなく、幅(マクロ)でしか宇宙を見ていないところにある。奥行き(観測者)が空間に参画することを拒否し、常に世界の外部から宇宙を対象として眺めている。そのために、自分自身が始原であることに気づけていない。
量子現象がその誤りを執拗に訴えてきているにもかかわらず、科学的思考は外に立脚する視点をなかなか払拭できずにいるというのが現状だ。物質に対するゲシュテル的視点を一度完全に払拭しない限り、量子に対する理解は決して生まれないだろう。量子とは奥行きに根付く、原初の私たち自身である。
幅世界には幅世界固有のクロニクルがある。しかし、ここに見られる歴史は徹底した自己疎外の歴史である。この歴史観のもとに世界を見ている限り、他者は常に自己を抑圧するものとして現れてくる。およそ世に現れる全ての悪の起源は、この幅へと一方的に偏向した存在概念にあるのではないか。
幅オンリーの空間から出よう。そこにはあなたはいないのだから。
9月 19 2023
「精神の位置」 という概念がもたらすもの
ヌーソロジーはかつてないほど直球ストレートで「自己とは何か」について語っているのだけど、多くの人が幅世界の歴史の中で語られてきた「内在」に関する大量の情報にがんじがらめにされてしまっていて、シンプルに自分と空間の関係を見れなくなっている。自己=ミクロが通じないのもそのためだろう。
自己=ミクロ。つまり、ミクロとしての精神の位置。マクロに宇宙を見ている現在の人間は、その意味で精神の位置を見失っている。OCOT情報が「いまだ人間には位置がない」と言ってるのもその意味だ。
確かに、今の私たちには「物質の位置」という概念はあっても、「精神の位置」という概念はない。自分自身の持続が位置概念として空間に定位されていない。
意識を構造として思考していくためには、持続を位置として概念化させる必要があり、当然、それは時空の”外の思考”を芽生えさせてくる。その思考感覚がやがては、従来の時空内部での思考様式を相対化させ、人間の存在感覚を高次へと拡張していく。その意味でも「位置」の発覚はデカいように思う。
自分で言うのもなんだが、「精神の位置」という概念の何が画期的かというと、「物質進化の過程の一体どこで意識が生まれるのか」という科学者が立てるような問題を一蹴するところだ。ここで、物質を人工ニューロンのようなプログラムに置き換えても構わない。元々、次元が違うのである。
つまりは、精神の起源などは問えないということ。そういう割り切りが必要だということ。こうした割り切りの中では、むしろ、精神がどのようにして物質を自らの内部に表現したのか、という問いの方が正しい問い立てになってくる。
要は精神宇宙が先、物質宇宙は結果だということ。精神の位置が見出されると、今の私たちとは全く逆方向に存在する世界について、思考を立てていくことができるようになってくるということだ。
そして、そうした精神宇宙の始まりが、現在、科学が素粒子と呼んでいるものの即自に当たる私たち人間の無意識だ、というのがヌーソロジーの主張だ。物質宇宙と精神宇宙の関係をまるまる反転させて見ているわけである。そういう思考法を作りましょうよ、と。
下図は名古屋大学理学部 大学院 理学研究科/多元数理科学研究科 のHPより借用
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, 素粒子