3月 9 2011
ヌースアトリウム報告
地元、博多で3ケ月ぶりにヌーソロジーの集まりを「ヌースアトリウム」と銘打って開いた。アトリウムというのは建築用語で空中庭園の意がある。高層ビルなどで透明なガラスのルーフを通して陽光が指し込む開かれた高所の空間のことだ(新宿にあるパークハイアットホテルのフロントみたいなところ)。そこに集った人々が思う存分自らのプラトー(高原=高次元空間)のイメージについて語り合う——そうした主旨を持って久々にヌーソロジーに関心を持つ人たちに集まってもらったわけだが、今回も大盛況。決して広いとは言えない会社のラウンジに総勢40名ほどの人が集ってくれた。いつもながら拙い話にこれだけ集まってくれてほんとうに有り難いことだ。心から感謝、である。
ヌースアトリウムは何分にもディスカッションスタイルでの進行なので、従来のレクチャーのような下準備は一切ナシのぶっつけ本番である。テーマはヌーソロジーの世界に足を踏み入れるにあたって最も基本となる「人間の外面と内面」という概念と既存の哲学との擦り合わせ。レクチャーでは構造的な側面の解説が多かったので、アトリウムではそれらの概念が含み持つ多様な意味について、2年ほど前に書いた紀要の記事『知覚正面上における本性上の差異についての一試論』をダシにいろいろな角度から話をしてみた。
ヌーソロジーの思考スタイルを一言で表現するとすれば、同一性に従属させられた差異の群れを、同一性を従属させるような差異の群れへと反転させていくことにある(このへんはドゥルーズのパクリ)。たとえば、世界には様々なものがあり、それらのものには違いがある。しかし、そういった多様なモノの群れは結局のところ時空という同一性の中に従属させられている。人間にしても同じだ。人間には人種、国籍、性格、顔かたちなど、人それぞれ違いがあるのだけど、結局のところ、それは人間という概念で一括りにされ、「人間は所詮、人間である」という同一性の中で一般化される運命にある。一般化された眼差しの中では、個々の人間は互いに交換可能、代替可能な対象としてしか扱われない。「君の代わりはいくらでもいる。嫌なら辞めてもらってもいいんだぞ」という上梓の脅し文句も、「あいつだけが女じゃない、女なんてこの世に掃いて捨てるほどいる」という振られ男の愚痴も、みなこうした差異を従属させた同一性を前提として吐かれている台詞なわけだ。ほんとうは君の代わり何てどこにもいないし、あいつだけが君にとっては女であったはずなのに………ね。
同一性に従属するこのような差異の中で最大のものを僕らは対立と呼ぶ。お互いに違いがありすぎて真っ向から対峙してしまうこと。それが対立だ。大と小、強と弱、善と悪、対立の場では片方がもう片方を全面否定することになるが、対立が同一性に従属しているのであれば、ここには「皆が同じである」という前提が実は対立を生んでいるという皮肉な構図があることになる。もしくは皆が同じでなければならないという暗黙の要請が対立を浮き立たせ逆に皆を不幸にしているとも言えようか。。人間は神のもとに平等だ。僕らは愛によって繋がりをもたなければならない。天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず。。こうした言説は一見、至極まっとうに聞こえるけれども、実際には憎しみを生む源泉になっている可能性もあるということだ。差異の思考とはそうした同一性を基盤にした思考が生み出す概念とは全く違うものである。ある意味、人間を「みんな同じ」と言い放ってしまうこの暴力的な仮説から人間を解放させる思考のことを言う。
では、そのような「差異」とは一体どのような差異なのだろう。。この差異こそが唯一意識から同一性に縛られた思考を解放し、それこそ、今度は意識の中に同一性を従属させる思考を作り出すことができるのだが。。ドゥルーズはこの差異をベルクソン哲学を通して即自的差異の中に見た。即自的差異とは簡単に言えば「それ自身における差異」のことである。普通、差異というとさっきも言ったように二つのものの間の差異として僕らは考える。リンゴとミカンの差異。オレとオマエの差異。etc……。だけど、ドゥルーズ-ベルクソンのいう差異とは、目の前にあるものがたとえ一つであっても、それ自身にそれ自身とは違うものが存在していると考えるのだ。それが即自的差異というヤツである。はて、それって一体何?
目の前にリンゴがある。そこには同時にリンゴではないものが重なっている。それさえ見つけられれば差異の思考に一歩足を踏み入れたことになる。ベルクソンに言わせれば、それはイマージュとしてのリンゴである。イマージュとしてのリンゴという表現が分かりにくければ「持続を内包したリンゴ」と言い換えてもいい。目の前のリンゴは物質の範疇に含まれるものだが、持続を内包したリンゴはもはや物質とは言い難い。なせなら、持続を内包するということはリンゴであり続けているということであり、これはリンゴの記憶に等しいからだ。だから「目の前にリンゴがある」という客体認識は記憶がなければ成り立たないことになる。一秒前にもあった、5秒前にもあった。そして今もあり続けている。だから、今、目の前にリンゴがある——こういう考え方をしたときのリンゴがイマージュとしてのリンゴである。だから、イマージュとしてのリンゴはただの物質ではない。そこには精神が関わっている。精神が関わっているからには、それはもはや客体ではなく主体だ(もちろん今まで僕らが主体と呼んでいたものとは大きく趣を変えてはいるが)——要は、このように主体として解釈し直されたリンゴ。これがリンゴ自身における即時的差異というものだと考えていい。つまり、目の前のリンゴには客体としてのリンゴと主体としてのリンゴが重なって存在させられており、そこにはほらこんな差異があるだろ!!ということなのだ。
では、その主体としてのリンゴ、イマージュとしてのリンゴはどこにあるのか。ベルクソンが下す結論は明解である。もちろん知覚そのものの中にある(「知覚するものは知覚されるものの場所にある」とベルクソンはいう)。。つまり、知覚は知覚されるものの記憶を自らの中に内包して、今、そこに存在しているのである。となれば僕らが世界と呼んでいたものも一転してイマージュの総体となり、それはわたしの精神以外のなにものでもないじゃないか、ということになる。こうして世界という同一性はわたしという差異に従属するものへと反転させられるのである(これがヌーソロジーのいう〈位置の交換〉の意味だね)。
このことは「見るものとは見られるもののことである」と言ったクリシュナムルティーや「主体は世界の外部にいる」と言ったヴィトゲンシュタインの名を挙げるまでもなく、生きのいい哲学者であればとうに言ってきたことだし、今更、鬼の首を取ったように言うことでもない。しかし、この差異を人間の思考が空間的に識別化できるようになり、そこに確固とした幾何的な構造を見て取れるようになったとしたらどうだろう。さらには、そこに開示されてくる差異の幾何的な構造が現代物理学が素粒子と呼ぶものとダイレクトに連結していることが多くの人に理解され出したとしたら。。おそらく、人間の居住空間は時空から一気にミクロ空間へと大移動を開始することになりはしまいか。。差異の思考においては差異が同一性を内属させているのだから、差異が素粒子として見え出した暁には、同一性を保証していた時空は素粒子の中に内属したものとして見えてくることになる——ヌーソロジーにおける人間の外面の発見とはそうした即自的差異を認識に空間として顕在化させることをいうのだが、ここで「外面」といったような幾何学的名称を用いているのは、ヌーソロジーがこのような即時的差異に始まる差異の階層を単に哲学的な観念としてだけではなく、空間構造として対象化し、それを十全な観念としてダイレクトに意識に浮上させたいがためである。。。。
まぁ、ざっとこういった内容のことをくっちゃべっていたのだが、以前よりは、皆に理解してもらえたような気がするなぁ。次回もまた3ケ月後に開催しますね。今回参加された方も、まだ一度も参加されたことがない方も、現代哲学と現代物理学の融合に興味津々の方は是非、遊びに来て下さいね。
5月 25 2012
空間と放射能
空間をモノの容器のように見立てるのが僕らの常識となっているけど、そういうリアルはもう終わるんじゃないかって思っている。こうした常識はたぶん空間を幅でみようとする無意識的な欲望に駆り立てられているだけだ。何度も言ってることだけど、空間の根源的性格は幅ではなく奥行きにある。
奥行きとは言い換えれば、眼差しのことだ。空間が存在として開示するのは、空間が眼差しの充溢として変容を遂げたとき以外あり得ない。その意味で僕らはまだ存在としての空間に接していない。妙によそよそしい空間。命が何一つ吹き込まれていない空間。そして、眼差しが存在しない空間。そんな空間は「虚無」でしかない。
奥行きが眼差しでもあるというのは誰にもすぐに分かる表現だと思うのだけど、奥行きのみならず、幅や高さもまた、その方向を奥行きとして見ている眼差しが自分の中にあることに気づこう。横からの眼差しは奥行きを幅に変える。つまり、奥行きを存在から切り離す。これは、ドゥルーズ風に言うならば巻き込みを繰り広げへと展開させる「異化させるもの」の力だ。
高さ方向から入射してくる眼差しはどうだろう。「それでも地球は回っている」。これは歴史を中世から近代へと発展させる原動力ともなった眼差しである。この眼差しは、奥行きと幅を十字の関係として見ている。宇宙空間から見れば大地には直交する眼差しで作られた無数の十字架が散在させられていることだろう。この第三の眼差しにとっては地上での奥行きと幅は対称性を持って回転している。つまり、そこでは奥行きは幅と同一視させられ、かつ、その幅は単なる幅ではなく、眼差しが入り込んだ幅である。つまり、主体はここで超自我を自らの中に内在させ、自らの視線で自らを監視するようになるのだ。
直観すべきことは、こうした諸々の眼差しの種族たちは時空に存在するものではないということである。左右からの眼差しによって奥行きが幅に変えられるのならば、むしろ、こうした眼差したちは時空よりもメタな空間で活動している僕ら自身の身体性から派生してきていると考えなければならない。そして、言うまでもなく、こうした身体性の一部として時空が作り出されているにすぎないのだ。
眼差しは知覚的事実として、一切距離というものを持たない。それは数学的には射影のようにして無限小空間の中に縮約されている。ちょっと想像してみよう。前後も、左右も、そして上下もそれぞれ無限小にまで潰された空間の姿を。それは時空と呼んでいる僕らが慣れ親しんだ場所では極小の点状の構成物となって出現するしかないのがすぐに分かるはずだ。眼差しによって構成された身体の中では宇宙はこうした一点の中に沈み込んでいる。
そして、こうした沈み込みの身体こそが科学者たちが「素粒子」と呼んでいるものだと想定してみよう。そうすれば、「見るものとは見られるものである」というあの神秘家たちの達観が、はっきりとした知性のもとに浮上してくるのが分かるはずだ。なぜなら、僕らにとって見られるものとは物質のことであり、その物質は素粒子からできているからである。
しかし、残念なことに、僕らの眼差しは視線と呼び名を変え、まるで夢遊病者のように時空の中をさまよっている。実のところ、そこには何もない。なぜなら、そこには眼差しがないのだから。眼差しの身体の忘却。これは存在の忘却、いや、そうした眼差しを正当な眼差しだと主張することは存在の殺傷に等しい。
当然のことながら、この傷は存在にとっては堪え難い痛みとなっていることだろう。そこで存在はこの傷によって裂開した自らの組織の修復を諮ろうとする。つまり、存在自らが消失していく眼差しを補おうとするのだ。それは、時空においては素粒子の崩壊、並びに、それらの壊変として現れる。これが放射能である。放射能の本質は存在からの人間の逸脱なのである。
原子力という技術はその意味で人間精神の破壊を加速させるために出現している存在の外部にある何か全く別の力だ——もし、世界最終戦争というものがあるのならば、その戦いは核戦争などといった矮小な規模のものではなく、存在世界全体とその外部にあるこの不気味な力との戦いのことなのだろう。
そして、それはもう始まっているのかもしれない。
(上の画像はhttp://rit_hp.web.fc2.com/gallery/star/07.htmlからお借りしました。)
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ドゥルーズ, 素粒子