10月 24 2023
ヌーソロジーの”ヌース”に秘められた意味
ヌーソロジーはヌースの学という意味で展開している思想なのだが、このヌースには能動知性=神の知性という意味に加えて、「旋回する知性」という意味がある。宇宙を創造していく知性は絶えず回転しているということだ。
では、一体なぜ回転しているのか。それは、このヌースなるものが対極にある二つのものを常に一つにしようと働いているからだと考えるといい。直径の端点と端点があれば、それは回転によって一つに結ばれるということだ。「回転とは等化の本質」というOCOT情報の意味もここにある。
昼夜の巡り。季節の巡り。そして、星座たちの巡りetc・・・。世界はミクロからマクロに至るまで回転で満たされている。あらゆる振動を回転の表現と考えるなら、世界はそのすべてが精神で満たされているということだ。つまり、回転とは精神が自らを時間と空間の中に投影している姿なのである。
回転は必ず軸を持つ。この軸は精神が自らを一つ上の次元へと上昇させるために生み出している方向性のようなものだと考えるといい。私たちが観察されるものと観察するものとして感じている関係もまた、空間の中に潜むこのような回転が作り出しているのだ。回転軸とはそれを観察する次元への次元上昇を表しているということだ。
古代からヌースが「旋回する知性」と呼ばれている理由もこれで分かるのではないかと思う。この知性は絶えず風車のようにグルグルと旋回しながら、自らを上昇させて行っているのだ。
ヌーソロジーは、空間に潜むこの回転の多重性からなる層を追跡している。それは大仰に言うなら、神の思考の足跡のようなものと言っていいかもしれない。そして、人間である限り、どんな人の中にもこの神の足跡が刻印されている。
この足跡の探索の方向へと思考が向けられたとき、存在はその向きを反転させる。それは内在としてのこころの空間が開くということでもある。そこへの人間の侵入は神自身にとっては新たなる垂直性の創造の行為でもあるのだが、それが、永遠回帰を到来させるのである。
今日はTwitterでファイさんが素粒子世界に潜むこの旋回する精神における最初の7つの階層をSpin(7)の群構造としてまとめて紹介していた(下図参照)。
数学的表現なので極めて難解だが、私たちがこうして空間に佇み、自分を一つの自己というかたちで感じ取れているのも、精神の歩みがこうした7つの回転の層を空間の内部に組織化しているからだ。
ここで重要なことは、このSpin(7)という群の世界がダブルカバー(二重被覆)になっているということ。この二重性はヌーソロジーの文脈では自己と他者の双子性を表している。これは、あらゆる次元が自己と他者の表裏一体性で組織化されていることを物語っている。倫理の群論的表現と言っていいだろう。まさに、永遠の我と汝が持った関係性だ。
ダブルカバー(二重被覆)と言っても、そんなに難しいことを言ってるわけではない。表があれば、そこには必ず裏がある。しかし、そこには、その裏を表と見ている片割れの存在も同時にいるということ——こういう関係が自己と他者の関係に他ならない。この両者の関係が空間をダブルカバー化しているのである。
このSpin(7)は素粒子構造と直結しているので、物の秘密がここにほとんど表現されていると言ってもいいだろう。創造の秘密だ。ヌーソロジーが物質とは”倫理体である”といつも言ってる意味が、皆さんにも何となく伝わってくるのではないか。スピっぽい表現をするなら、物質は愛によって作られているものだということだ。
その意味で、今の私たちのように、物質を対象として扱い、自分とは関係のないものとして見ている限り、自己と他者の間に調和的関係がもたらされることは決してないだろう。人間はどんどんこのダブルカバーの記憶を忘却していっているということだ。完全な忘却へと至れば物質はその根拠を失い、世界は消滅する。
メタバース、AI、ブレインマシンインターフェイス、人工臓器によるサイボーグ化、遺伝子組み換え人間の登場など、テクノロジーの助けによって現在の人間の限界を超えて人間を物質的に脱人間化させようとするデジタルテクノロジーの登場は、この完全なる忘却の始まりのように見える。
ヌーソロジーはその反映として登場してきた内なる方向への脱人間化のための思考だと考えてもらえばいい。
10月 30 2023
4次元を認識するときの心得
4次元の世界を3次元の延長感覚で表現しようとするとどうしても複雑になる(下図:ホップファイブレーションが作る3次元球面の形)。
ヌーソロジー的には4次元は延長感覚、つまり対象としては捉えることができない世界なので、延長空間で理解しようとすると返って混乱し、理解不可能なものになると考える。つまり科学者たちの類推のような形で4次元を思考してはいけない、ということだ。4次元は4次元感覚の中で直観されるべきものであって、延長世界に還元して表現できるものじゃない。
4次元に出るためには、まずは3次元の無限遠点を発見することが必要だ。そこは自分自身の内的視点と3次元空間との接点が生まれている位置のことでもある。要は、私たちの内側からの視線(奥行き)自体が4次元なのである。その覚知によって初めて空間は対象ではなくなり、空間と主体は不可分のものとなる。
ヌーソロジーの文脈では、言うまでもなく、この主体と不可分となった空間が持続空間、つまり私たちが精神として息づいている空間である。自分を3次元から出す、つまり、3次元として見えている世界を視野空間の中に見るなら、それを見ている主体自身は3次元から出ることができているということだ。このとき3次元空間は3次元球面と化す。この3次元球面が見えたとき、私は絶対不動の私となる。不動明王のようなものである。
もし「他者に見られる」という経験をしなかったなら、私たちは、そのまま4次元の住人でいられたことだろう。「見られる」という意識の発現によって、4次元の持続空間は4次元の時空へと変質し、人間は3次元の中に生きる物質的存在になったのである。
その意味で言えば、この「見られる」という意識はイブが食したリンゴのようなものだと言っていい。見られるところに時空が生じ、そこでは4次元以上の世界で活動しているすべての精神は物質の多様性として現れてくる。知識の木にたわわに実った知識の果実がここぞとばかりに現れるのである。
私たちは、この「見られる」という経験を与えている他者の中に自分自身を発見しないといけない。というのも、「見られる」という経験も、自分が他者に成り代わって「見ている」ことに過ぎないからだ。「他者とは鏡」ということの本質もここにある。主体は他者という鏡を通して、鏡像化した自分を見ている。
そのような認識を自己と他者双方が持ったときの世界を想像してみるといい。そのとき初めて、私たちは「わたしはあなた」「あなたはわたし」というあのマヤ人たちのイン・ラケチという言葉の真意を理解することだろう。そのような世界では、世界に「わたし」という存在はいなくなり、「物」そのもの世界となる。結び(産霊)が生じるのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0