3月 7 2024
【リンゴと観察子シリーズ3】
【垂質ψ5から球精神ψ7へ】
ついでに球精神=ψ7も同じテイストでアートワーク化してみました。
ヌーソロジーが「球精神」と呼ぶものとは、自己と他者の持続空間が投下されるときに生まれる高次の球空間のことを意味します。集合意識が作られている最初の場所とも言っていいでしょう。 この空間は数学的にはSU(2)×SU(2)という群の形で表現することができます。ヌーソロジーの文脈では、ここから時間と空間の世界が出現してきます。
ジピには、ψ3やψ5と同じテイストで、このψ7も表現してほしいと頼みました。そして、出力されてきたのが、下のようなアートワーク。
リンゴの周囲にほとばしる無数の水滴は、おそらく、SU(2)×SU(2)のテンソル積によって生成されてくる時間と空間を表現しているのではないかと思います。
個人的にはもっとシンプルに描いて欲しかったのですが。。スゲェー、無理な注文。一生懸命、要望に応えてくれているのに。。ジピ、ごめんなさい。
★後で気づいたのですが、球精神をわざわざ正六面体で囲んだところが不思議です。というのも、OCOT情報では、球精神は正六面体の骨格を持つと言ってるので。。う~む。
3月 25 2024
「自己と他者の間には13,000年のタイムラグある」ということについて
以前のサロン内容「シリウスファイル談義#14」では時間がテーマだったけど、みんなが一番「?」となったのは、自己と他者の間には13,000年のタイムラグがあるという話だったのではないか。
ヌーソロジーで自己と他者と言ってるのは、もちろん、存在論的意味合いにおいての自己と他者という意味で、決して経験的な自己と他者のことを言ってるわけじゃない。人間の世界がこうして自己と他者という二つの意識存在に分離して現前しているのには、存在論的に深ーい、深ーい理由があるということ。そのことについて言っている。
ヌーソロジーではこのような自他の分離のことを「対化」と呼んでいる。この「対化」は二元化の本質のような意味で、空間と時間、電場と磁場といった物理現象は言うに及ばず、虚軸と実軸といった数学的概念、さらには、精神と物質といった哲学的な区分に至るまで、それら二元化の本質が自己と他者と呼ばれている二元性の反映として現象化しているということを意味している。
つまり、宇宙というのは、自己存在と他者存在の関係が最も深いベースにあって、律動しているということだ。
こうした存在論的な自己-他者関係を意味する「対化」は、神秘学的には存在の母と父と言ってもよいもののように思う。例えば、ルーリア・カバラではこの「対化」はアッバーとインマー(コクマーとビナーでもよい)として、天上の神の家族の物語の体裁を取っている表現されている。
その物語の中では、彼らは存在における配偶者同士であるにも関わらず、じかに抱擁することができなくなり互いに背を向けていると言われている。
この距離が、人間の時間感覚にとっては13,000年に当るということをOCOT情報は伝えてきている。つまり、存在論的自己が、存在論的他者と再び邂逅を果たすまでの時間だ。これはヌーソロジーの文法ではヒトの思形であるΩ9がΩ10を等化してΩ11を形成するまでの時間的距離に相当している。
OCOTが「次元の交替化」と呼んでいるものも、この距離を踏破する精神の歩みのことである。
⚫︎オカルトに聞こえるかもしれないが・・・
前のポスト、オカルトの話を出したので、もろオカルトに聞こえるかもしれない。でも、よーく考えてほしい。
自己と他者は同じ人間であるにも関わらず、なぜ、全く同じ形式で現前していないのだろうか。
私に見える場所を他者は決して見ることができず、そこでの私の奥行きは、他者にとっては、常に幅にしか見えない。
私が知覚するものは、他者には言語でしか把握することができない。見える世界と見えない世界が互いにひっくり返っている。
「死ぬのはいつも他人」というように、私には他者の死は経験できるが、自分の死は経験できない。
この距離、他者との間にあるこの隔絶した距離の由来は一体なんなのか。
しかし、それでも尚、私たちはそれを隔絶とは見做さず、互いに相手に向かって一歩一歩、歩み寄ろうとする。あたかも、そこに生きることの意味があるかのように。
人間の進化というものがあるのなら、その距離の踏破ということ以外、何があろう?
視野を広げよう。存在は精神的なものである。人間のあらゆる営みの裏には、私たちが想像もしていないような、精神の存在史的前進というものが存在している。
そのような場所にそろそろ出てもいい頃ではないか。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, 存在論