3月 4 2016
君よ、内なる螺旋となれ!!
ドゴン神話では、創造の神はアンマと呼ばれた。アンマの座はオリオン座にあるとしている。アンマによる創造のストーリーは以下のようなものだ。
・アンマは宇宙の創造にあたって自らの内部にフォニオという種子を形成する。
・フォニオは物質の起源と言われる。
・フォニオは双子であり、回転している。
・フォニオはこの世で最も小さいものの象徴であるが、すべてのものを入れるための倉でもあるとされる。
・そのため、フォニオが〈最も偉大な穀物〉であるといわれる。
・フォニオは七階層の振動を作り出している。
・フォニオは22のヤラ(殻のようなもの)からなる。
「フォニオはこの世で最も小さいものの象徴であるが、すべてのものを入れるための倉でもある」―ヌーソロジーの読みでは、フォニオとは素粒子のことのように思われる。最も小さいものが最も大きいものを含み持つというモナドロジックな性質がフォニオにはある。幅化してしまった奥行の延長性から、もとの奥行き本来が持った持続性への転換。この空間の身振りに自らが意識的になること。
フォニオは七段階の振動を作りながら自らの内部で螺旋状に成長していく。この七段階の振動を発展させていくのは種子の生命の本質とされる言葉の活動である。言葉の力によって種子がその内部で成長を遂げていく。
言葉はその意味で〈先導-記号〉となっている。
十分に種子が育つと、そこからこの種子は螺旋状の旋回の方向を反転させフォニオを双子化させて世界を開いていくとされる。ここにドゴンの空間論の基本となる「7×2=14」という数が配置される。この「14」はドゴン神話の根幹を支える数となっている。それは次のような彼らの儀式の言葉として残っている。
・アンマは浪費したあとで整える。アンマはひとつ。それは14の空間。
・アンマの名を唱えることは空間を一つに保つこと。
・アンマの名はすべてのものを保ち守ること 。
・アンマは一回転するごとに14の天と地を作る。
・アンマよ、上に七つ、下に七つ、アンマは14の世界を回された。
・上に14、下に14のアンマ。
「フォニオは七階層の振動を作り出している」-この7階層の振動は、おそらく物理学的には11次元超重力理論における「7つの余剰次元」と呼ばれるものだろう。この余剰次元が内部空間として素粒子のシステムを作っている。この7つの余剰次元は人間の意識をイデア界へとつないでいるエーテル的な虹の階梯のようなものだ。ヌーソロジーはこの階梯を次元観察子ψ1~14として削り出す。
余剰次元はわれわれの無意識を構成している。余剰次元を思考に浮上させるためには空間に潜む捩れを見出さなくてはならない。わたしたちは空間に潜むこの捩れと引き換えに世界から主体へと静かに遷移している。この捩れは存在におけるクロスロードであり、そこにおいて、わたしたちは時空という同一性の世界から魂という差異の世界へと差し向けられている。
この捩れは今までは潜在的なものとして存在していたものであり、唯物論的に制度化された思考の中ではなかなかそれを見出すことは困難だったが、それは一つの超感覚的知覚として確実に浮上し始めている。
ドゥルーズは言っていた。マクロな知覚は、ミクロな知覚の間に確立される微分的関係の産物なのである。それゆえ意識の中に知覚されるものを生み出すのは無意識の心的メカニズムである―と。
われわれの無意識は無限小で蠢いているのだ。空間と時間として現れる延長性は無限小領域の従属物であり、それらは二次的なものである。われわれの本性は無限小の住人として生きているということ。そこに戻るために、今、「奥行き」が開いてきている。
空間と時間の中に立ち現れた物質という有限性の中に、己の精神の無限を内包させていくこと。有限の線、有限の面、有限の塊の中に己の精神の無限の進行を感じとること。内なる外、外なる内へと己自身の思考の姿形を襞のように捩り、永遠を織り込んでいくこと。そしてその肌理の表情を味わうこと。
今から新しく生み出されてくるこのような精神の切り開きの運動を、ドゴンのフォニオの発芽になぞらえて「内旋=インボリューション(in-volution)」と呼んでみるのもいいかもしれない。re-volution(革命)とは、本当はこのin-volutionのことを言う。
7月 22 2016
もっと、もっと、ほら、もっと、もっと、ほら!!
今回は長文になります。すみません。
ヌーソロジー界隈ではよく知られているΦさんがSU(2)ゲージとヌーソロジーの関係性についてツイッターで丁寧に解説してくれている。本文あとに掲載しておくので、ヌーソロジーを追いかけている人はコピペして保存しておくことをオススメしたい。
物理学の言葉は基礎知識がないと確かに難しい。でも、今は意味がよく分からなくても、近い将来、ここに書かれていることが手を取るように分かってくる日がやってくるのではないかと思う。
意識のナゾについては伝統的な宗教を始めとして、オカルティズムや哲学、そして現行のスピなどが実にいろいろな思考を展開してきた。でも、反発を覚悟で言わせてもらえば、こと人間の霊的構造について多くの人が相互了解性を持って語り合える思考の枠組みを提供しているのは素粒子物理しかないと僕は思っている。
この学問の変容が人類の未来を担っている、そう言っても過言じゃない。一番の悲劇はこの学問が未だに物質の学問だと思われていることだ。物理学者たちはすでに素粒子が物質でないことに気づいてはいるのだが、相も変わらず「われ-それ」という主客関係でもって素粒子を一連の操作対象と見なしている。
本来、エーテル的なもの(持続体=生命的なもの)としてある素粒子を物質的なものとして操作してしまうと、エーテル的なものは物質的なものに対する反転力として働いているので逆エーテル化してしまう。原子力が引き起こす様々な惨劇はこの逆エーテル化の効果から起こっている。
逆エーテル化とは、言うまでもなく、生命を殲滅する力へと変化するということだ。原子力が持った圧倒的な暴力性に対して宗教も哲学も全くの無力だったことはフクシマを経験した日本人なら誰でも知っている。止められるのは誰か―逆説的だが、それは物理学しかない。物理学が自分自身を知るしかない。理性が理性の内部から己自身のはらわたを食いちぎること。それしかない。さっき「物理学の変容が人類の未来を担っている」と言ったのは、この意味においてだと考えて欲しい。
何度も言っていることだが、素粒子は奥行きとともに私たち自身として息づいている私たち自身の現実存在だ。意識を幅の支配から逃れて奥行きへと反転させよう。素粒子とは「なること」に方向付けられたわたしたち人間の魂そのものなのである。
「ゲージ対称性の拡張が人間の無意識構造に対応している」なんて言うと、物理学者も心理学者も鼻でせせら笑うかもしれない。それはそれで仕方がない。しかし、ひとたび奥行きに持続を見て、それを虚軸としてこの目の前の空間を再構成していくと、素粒子物理学の諸概念が次々とわたしたちの内的なものとして裏返っていくのが見えてくる。
ここにある「ゲージ対称性」という現代物理学特有の概念もその一つだ。これは内的に反転した空間認識においては「自己を自己として常に保存している意識の統合的な働き」と考えるといい。いわゆる、「統覚」というやつだ。
例えば、位置を変えようが、時間が経過しようが、「僕」は常に「僕」であり続けている。意識は単に時間と空間の中だけではなく、無意識の中で他者領域との間も行き来している。それによって共感や反感、さらには悟性や理性という能力が生じてくる。それでも常に「僕」は「僕」であり続けている。
この、いろいろなところを動き回っても常に僕を僕として在らしめている働き。それが素粒子物理学が持ったゲージ対称性の本質と考えるといい。これは言い換えれば、僕という経験的存在を作り出している「高次の自我」の空間的在り方と言っていいものだ。
要は経験的自我はこの高次の自我に常に「おまえはおまえであれ」と変換を受けているということだ。この「おまえはおまえであれ」というところに実は意識が生まれている。でも、問題はこの変換の方向に二つの相反する方向があるということ。それと、もう一つは他者の無意識の方向だ。この流れ側に自己側が呑まれることによって、世界は物質だけの世界になってしまう。それが今の人間の意識の現状だと考えるといい。人間が空間を奥行きではなく幅で覆っているというのもそうした意識の在り方の一つだ。
高次の自我の何たるかが見えてきて始めて人間は自己と他者の正統な交換に入れる。つまり、主体の交換の位相に入れる。それが見えない限りは自己と他者が出会うの無理。そして、素粒子より上位で活動しているすべての物質はその出会いによって生まれているものだ。原子とは「霊だ」と言ってるのも、そういう意味においてだと考えてほしい。
物質的宇宙観という名の下にやせ細ってしまったこの存在世界に「宇宙生命の方位」とも云うべき新しい概念を作って、僕らの生きる精神をも含んだ宇宙へとイメージを膨らまさないといけない。―われわれはどこから来て、どこにいくのか―もっともっとイマジネーションを広げよう。常識は常に打ち破られるためにあるのだから。
もっと、もっと、ほら、もっと、もっと、ほら!! ^^
【Φさんのゲージ対称性に関する解説/2016.5.26】
ヌーソロジーでよく登場する「SU(2)対称性とは何か?」について、まず物理学で言うところの一般的な意味を理解をするには、この単純な文面に表象されていない意味を理解する必要があります。
これがわからなければヌーソロジー的な意識構造論からは、いつまで経っても「わたしとあなたの愛の秘密」までたどり着けないとも言えます(笑)。
ここで言う「SU(2)対称性」というのは、例えば、uクォークとdクォークというアイソスピン2重項に対して、局所的位相変換(ローカル・ゲージ変換)としてのSU(2)変換をおこなったときに、ディラック方程式の形が変わらないことを意味します。
文系のヌースファンの方の中には、この段階で既に「は?」となって頭がフリーズしてしまう人もいるかもしれませんので、少し丁寧に説明することにしましょう。
まず、現代物理学における考え方の基礎をなしている基本的信条みたいなものがあって、「あらゆる物理法則は観測者の物の見方に関係なく成り立つはずだ」というものがあります。
これはある意味、物理法則に不変性を求める立場からは当然の信条と言えます。「物理法則はどんなところへ持って行っても成り立つはずだ」と言われれば、地球上で暮らす私たち一般人の感覚としてもそんな気がします。
こうした現代物理学では主流となっているこの基本的信条は、そもそもアインシュタインが特殊相対性理論や一般相対性理論を作り上げたときからでした。
この基本的信条に立つ前提から「あらゆる物理方程式は座標変換に対して不変だ(座標変換の前後でその形を変えない)」が要請されます。これが「対称性原理」と呼ばれるものです。
アインシュタインの特殊相対性理論や一般相対性理論の基本骨格である特殊相対性原理や一般相対性原理は、この対称性原理に基づいています。
もう少し数学に寄って説明しますと、ベクトルψに行列Aが左から作用してベクトルψ’に変化する場合、ψ’=Aψと書きますが、例えば、ψ、ψ’が3次元ベクトルで、Aが3次元回転群SO(3)の要素であるとき、ψ’=Aψは3次元ベクトルの回転という座標変換を表します。
同様に、ψ、ψ’が複素2次元ベクトルで、Aが特殊2次元ユニタリー群SU(2)の要素であるとき、ψ’=Aψは複素2次元ベクトルのSU(2)変換(特殊2次元ユニタリー変換)という座標変換を表します。
ところが、量子論以降の現代物理学においては、物理量(物理変数)は古典物理学のときのような単純な数、つまり、c-数(古典論的物理変数)ではなく、微分演算子や行列演算子といったq-数(量子論的物理変数)に代わってしまいました。
そこで、量子力学や素粒子物理学などの現代物理学においては「ゲージ原理」と呼ばれる対称性原理が用いられるようになりました。
ある物理方程式に対してグロ-バル・ゲージ変換の前後で形が不変のとき、ローカル・ゲージ変換の前後でも物理方程式の形が不変であることを要請する考え方が「ゲージ原理」です。このとき、ローカル・ゲージ変換はゲージ変換と略されます。
これを説明するために、現代物理学で用いられるゲージ変換、つまり、局所的位相変換(ローカル・ゲージ変換)について簡単に説明します。
まず、一般にゲージ変換(位相変換)には、時空の場所に依存しない大局的位相変換(グロ-バル・ゲージ変換)と、時空の場所に依存する局所的位相変換(ローカル・ゲージ変換)があります。
ところが、現代物理学においては物理量として微分演算子が使われることから、このゲージ原理で扱われる物理方程式、つまり、素粒子の運動方程式では、ふつうの位相変換(第一種のゲージ変換)で変換される対象である状態ベクトルの前には微分演算子がくっついています。
すると、微分演算子の直後に位相変換がくる場合は、微分演算子が作用してしまい、ずれが生じてしまいます。
これを補正するために、状態ベクトルに対する位相変換に合わせて、微分演算子を調整するための変換(第二種のゲージ変換)が要請されてくるわけです。これが「ゲージ原理」です。
少し具体的に書けば、状態ベクトルψの位相変換ψ’=Uψを行うと同時に、微分演算子Dμも、Dμ’=UDμU†と変換するというわけです。
ところが、このとき、微分演算子Dμの後にくる位相変換U†(正確には位相変換の共役変換)は微分の影響を受けてずれが生じます。
そこで、微分演算子Dμの項の中に、微分演算子が作用して生じる位相変換のずれた分を調整分として抱え込んでしまおうというわけです。このときのずれの回収を担うのが、「ゲージ場」と呼ばれる調整項です。
これは数学的には一般に「接続係数」と呼ばれるもので、歪んだ時空における平行移動(並進)においてその歪み分を吸収する役割を担うものです。
要するに、観測者が物の見方を変えたときに、そこに歪みが生じている場合、その物の見方自体の中に、その歪みを吸収する仕組みが組み込まれているはずだということです。
確かに、観測者は自分自身の物の見方自体の内部に住んでいるため、自分自身の物の見方自体がそもそも歪んでいるということに気づきません。つまり、それは、自分自身の物の見方自体にその歪みが吸収されてしまっているからだというわけです。
そして、言ってしまえば、ヌーソロジーでは、大胆にもこの現代物理学が要請するゲージ原理の中に、人間の意識における自我の起源をも求めようとしていると言えます。
つまり、U(1)ゲージ原理に自己側の意識構造における自我の由来を探り、さらにその意識構造の上位階層として、SU(2)ゲージ原理に自己側と他者側の意識構造が交差するところに自我が生じてくるそもそもの起源を求めているということです。
人間の今の意識において、私たちが普通に意識が目覚めていると思い込んでいる意識の多くは、ある意味ルーチンワーク的で無意識的な自動思考に陥っていて、とても「起きている」とは言えません。
人間がある種の「危機的状況」に陥ったとき、初めて、本当の意味での「思考」が起こります。このとき、初めて「意識が起きた(目覚めた)」と言えるわけです。
これは数学で言えば、掛け算で3×5と5×3のように、計算の順序を変えても、計算結果が変わらない場合、「積の交換法則が成り立つ」と言います。
私たちが「最も正しい」と思い込んでいる平板な平等観は、こうした意識ベースから来ているように思います。そうした平等観の方が、専制君主にとっては平べったくて浅はかな分だけ支配に都合がいいのではないでしょうか。
ところが、自然界はこうした私たちにとって当たり前だと思い込んでいる、普通の四則演算が成り立つ世界ではありません。むしろ、「積の交換法則が成り立つ」世界の方が特殊なのです。
自然界は対象を対象の座のままで据え置いた観測者のいない世界ではなさそうです。むしろ「観測者-対象」の双対的関係をベースとした世界のようです。
それこそが古典物理学に立脚した世界観ではなく、量子物理学に立脚した世界観であり、今や現代の主流の世界観です。
ヌーソロジー的に言えば、観測者によって観察されているモノの内面で眠り込んでいて起きていない状況が、現代人の唯物論的世界観であり、ヌーソロジーの次元観察子の世界で言えば、ψ1~ψ2に対応します。古典物理学に立脚した世界観はまだこの段階であり、数は実数の世界だと思われます。
次に、量子論の発露とも言えるのが、観測者-対象関係が問われるようになった世界観であり、古典物理学に立脚した世界観から量子物理学に立脚した世界観への移行期でもあります。この段階がヌーソロジーの次元観察子で言えば、ψ3~ψ4の段階であり、数は複素数の世界だと思われます。
観測者-対象の関係として、演算子-状態ベクトルの関係を対応させてみることもできます。演算子の積に関しては「積の交換法則」が既に成り立ちませんが、複素数自体の積においては「積の交換法則」が成り立っています。
背景として「可換」でないものを抱えながらも「交換法則」を成り立たせている世界というわけで、これこそが、現代の人間の意識のベースになっている世界観ではないでしょうか。
この次の段階、ヌーソロジーで言うところの次元観察子ψ5~ψ6の段階になると、あなたとわたしがそう簡単に入れ替えられないように、ごく当たり前に「交換法則」が成り立たない世界が出現してきます。これが数としては「四元数」概念の世界というわけです。
U(1)対称性は複素数的な概念に基づいているとすれば、SU(2)対称性は四元数的な概念に基づいています。この差異は、短絡的には、紙の帯の両端をふつうに貼り付けた「普通の輪」と、一回捩って貼り付けた「メビウスの帯」との違いのようなものとして象徴されます。
この差異こそが、U(1)とSU(2)の差異であり、複素数と四元数の差異であり、ベクトルとスピノルの差異というわけです。わたししかいない宇宙と、あなたとわたしがいる宇宙の差異と言ってもいいかもしれません。
この差異が見えてくると、ヌーソロジーの一番の肝とも言える自己と他者の意識構造の文脈がよりダイナミックに見えてくるのではないでしょうか。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: SU(2), エーテル, ゲージ対称性, スピノル, 奥行き, 次元観察子, 特殊相対性理論