12月 15 2009
NOOS LECTURE 2009 VOL.5、無事終了
今年最後のヌースレクチャー。無事、一昨日終了しました。
参加していただいた皆さんには心より御礼申し上げます。
今回は今年最後ということもあって、いつもより多くの人が集まってくれた。スタッフ合わせて総勢33名。お世辞にも広いとは言えないアカデメイアのオフィス内は暖房を途中で止めなくてはいけなくなるぐらいの熱気に溢れていた。
今回のテーマは4次元。まずは『光の箱舟』でも触れた4次元思想について簡単に話した。4次元思想とは19世紀末から20世紀初頭の欧米で流行した思潮で、人間性が持った限界を道徳や倫理といった宗教的な側面からではなく、4次元知覚の獲得というゲシュタルト変換によって突き破ろうとする、まぁ、一種の知性改善運動のようなもののことだ。ヌーソロジーも入口の部分はまさにその手の方法論を踏襲していると言ってよく、4次元の何たるかを考えることから始まる。一通り4次元思想家たちの話を紹介したあと、いよいよヌーソロジーが説く独自の4次元論に突入。
ヌーソロジーが説く4次元——ヌーソロジーが用いる次元観察子という概念への進入口は3次元空間の反転認識にあるのだが、これは言い換えれば正の4次元と負の4次元の区別を見いだすということと同じ意味だ。正の4次元というのは4次元ユークリッド空間、負の4次元というのは4次元ミンコフスキー空間、すなわち時空のこと。ヌーソロジーのいう人間の外面(主体極)が4次元空間に当たり、人間の内面(客体極)が4次元時空に相当する。4次元時空は空間と時間だから、結局は、反転した空間とは4次元空間に相当することになる。
それから、この4次元空間と関連する哲学者の思想についての話をしていった。G・ライプニッツ、A・ベルクソン、M・ポンティ。一人当たり1時間とっても時間が足りないくらいのメンツだが、この3人の大御所の思想を1時間強でダイジェストし、ヌーソロジーとどのような関係にあるかについて話した。
最後に、どうして人間の認識が4次元空間ではなく、4次元時空の方に陥っているかについて、ラカンの鏡像段階論を借用しながらその理由について話した。僕らは鏡の中の空間で生きている。物質世界は実は見えない世界で、心の世界が見える世界だ等、いつもの通りヌース節を連発させたのだが、会場に来ていただいた皆さんにうまく伝わったかどうかは前回よりも自信がない(笑)。
まぁ、今回は哲学的な話が多くて難解だったかもしれない。。ちょっぴり反省。次回はまた趣向を変えて臨みます!!
それにしても来ていただいている方々の人柄に助けられて、レクチャーも楽しくやれている。重ね重ね感謝の気持ちで一杯である。
3月 8 2010
現象学とヌーソロジー
最近、あまりにブログを更新していないので、ツイッターのつぶやきから、ブログ記事を起こしてみました。
おはようございます!! 今日は次回レクチャーのプレゼン準備です。key noteを使ってます。いいソフトです。使いこなせてはいませんが。ここ1ケ月、ヌーソロジーと現象学の類似性とまたその相違性について概括していました。まだ人前でうまく話せるほど咀嚼できてはいませんが、次回のレクチャーでは少し話してみようと思っています。何事もチャレンジやね。
現象学とヌーソロジーとの最も大きな類似点は、意識の在り方を主観的な位置から再構成していくという点です。既存の客観的な知識の枠組はとりあえずはすべてエポケー(判断の中止)する。第三者目線ではなく、自分自身のリアル世界から意識の在り方を見つめ直すということですね。こういう思考態度を現象学では超越論的還元と呼びますが、早い話、自分が赤ん坊であったときのことを想像して、そこからどうやって現在のような意識構成ができあがってきたのか、その条件を事細かに問うていく、ということです。 その意味で、現象学は発達心理学とも深い関係を持つと考えていいのですが、心理学系の知識との絶対的な違いは、現象学は自然的態度(通常の世界認識の常識)をエポケーしているわけですから、物理世界と心理世界を二元論的に分離させません。心理学は物理世界という外在と心理世界という内在を区別して、その内在の方の在り方の秩序を探索するという前提で成り立っていますから、自然的態度の立場に立って意識を思考していますね。しかし、現象学はそれさえも括弧に入れてエポケーする。その点が決定的な相違となっているわけです。
こうして現象学は、内も外もない意識のタブラ・ラサ状態からどのようにして内在と外在が生じ、そして、それら認識の構成を最終的にすべてを取りまとめているところであるものとしてのエゴ・コギト、すなわち統括者としての主観性(これが超越論的主観性と呼ばれるものです)へと回収されているのか、その構成秩序を志向性という概念を使って明確にしていこうと努めます。いや、実際にはまだ明確にはなってはいないので、明確にしようと試みた、ということかな。
これら一連の現象学の思考態度とヌーソロジーでいう「人間の外面において思考する」という姿勢とはほぼ一致していると言っていいのですが、現象学とヌーソロジーの最も大きな違いはヌーソロジーが時間も最初の段階でエポケーしてしまうという点です。ヌーソロジーの場合、無茶苦茶、思いっきりがいいのです。まぁ、人によっては無謀ともいいますが(笑)。
現象学が時間をエポケーしきれなかったのは、対象に対する志向性をそのスタートラインに組み入れてしまったからだと思います。このスタート地点の部分での吟味の曖昧さが、現象学自体に最後まで尾を引いて呪いをかけているように僕には感じられます。要は対象を志向する自我極というものの発生についての論証が曖昧なのではないかということです。ヌーソロジーにおいては時間の発生の契機はこの自我極の措定にあると考えます。これはヌーソロジーでいう「人間の内面」のことに当たりますが。この自我極の問題は結局、最後までフッサールの頭を悩まして原自我問題として残されます。
ヌーソロジーでは自我極の発生の起源は知覚世界の裏返し(外面から内面への反転)にあると考えますから、この最初の時点で外面に現象している他者(大文字の他者)が問題となります。つまり、還元が持った最初の志向性とは世界そのものにあるのであって、自我極にあるわけではないということです。デカルトの言う「われ思うゆえにわれあり」ではなく、ラカンの言う「われ思わざるところにわれあり」ということですね。ある意味、デカルトの従順な学徒でもあったフッサールにおいては、思考の原点がいつも「自我ありき」なので、この発想の転換がどうしてもできなかったように思われるのです。それが最後までつきまとい、結局のところ他者との関係は超越論的間主観性という曖昧な概念で覆われてしまったのではないでしょうか。自我の起源が他者にあるかもしれないとは決して考えないわけです。
それともう一つの重要な相違点は、現象学は現象学と自称しながらも、世界が現象してくるその理由には結局、何一つ触れることはできてはいないのではないかということです。どういうことかというと、現象として目の前に物質が現出してくる理由については何一つ語られていないということです。 これでは結局のところ、現象学ではなく、あくまでも内在における意識の構成学であって、客観をもたらしてくる物質という存在がいかにして成立しているのかという、その条件について吟味が終了しているとはまだ言えない、と思います。カントのいうモノ自体からまだ抜け出せていないということですね。ヌーソロジーは現象学がいうこの志向性のシステムを幾何学的に構成することによって、そこで展開されてくる幾何学こそが素粒子構造の本質であり、その観念としての普遍性、遍在性が局所性へと接続してくるところに物質そのものと、超越論的主観が同時に成り立っているという仮説を立てています。
ここでいう遍在性から局所性への相変化というのは物理学的に言えば、波動性としての素粒子から粒子性としての原子への相変化という意味です。要は超越論的主観性の構成そのものが第一の原子である水素原子として現象化しているのでないかということです。もちろん、この論証は現時点ではまだはっきりと論理立てて整理されてはいませんが、 この仮説が明証性を獲得し、万人に妥当なものとなることができれば、それによってようやく真の意味での現象学と成り得るのではないか、というわけです。物質と意識の接点が見出され、主客一体の宇宙観が確立されてくると言ってもいいでしょう。
はてはて、そのようにうまく事が運んでいきますかどうか。それは今後のヌーソロジーの頑張り次第であり、はたまた神のみぞ知る、というところでしょうか。 うぅ、。準備せんとあかん。。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 4 • Tags: カント, ラカン, 内面と外面, 素粒子