5月 30 2009
地球から広がる空間について、その5
●ミクロとマクロが同じ方向だということのほんとうの意味
さて、冒頭でOCOTの世界観の中では人間が認識している空間のミクロ方向とマクロ方向の関係も「対化」であるという言い方をしましたが、これは自己と他者の間では身体空間の方向性が「人間の外面」と「人間の内面」という形で互いに反転して現れているということと同じ意味を持っています。
たとえば目の前に他者がいるとしましょう(下図1)。自己にとって他者の身体は他の存在物と何ら変わるものではなく、いかにも物体然とした形態で目の前に出現しています(レッドで示した3次元)。ですから自己側から見た場合、他者の身体から広がっている空間は単なる物体から広がる3次元の空間と全く同じものにしか見えません。こうした状態で認識される身体周りの3次元性のことをヌーソロジーでは「核質」と言います。
一方、今までお話してきたように、空間に対する認識の原点を物体側から観測者である「わたし」の身体側へと反転させ人間の外面という場所から空間を観た場合、その身体周りの空間はもはや物体の延長線上で把握できるような空間ではなくなっており、前-後は4次元、左-右は5次元、上-下は6次元とも言えるような全く別種の空間として認識されてきます(ブルーで示した3次元)。このようなかたちで認識される身体空間のことを「反核質」と言います。
自己の外面認識が芽生え始め(顕在化のことです)、身体回りの空間を6次元として思考し始めると、当然のことながら他者の身体を取り巻いている空間も本来ならば6次元空間として見なさなければならないのではないかという認識が生じてきます。つまり、ここで核質の対化(自他の空間がともに3次元と認識されている場合)と反核質の対化(自他の空間がともに6次元と認識されている場合)の双方が認識に上がってくるわけです。このときの核質と反核質の関係がそのままマクロ空間とミクロ空間の関係に対応してくると考えるとよいでしょう。つまり、マクロ空間とは他者の身体周りとしての空間のことであり、ミクロ空間とは自己の身体周りの空間であるということです。このことから、当然、自他においてはミクロとマクロも例のキアスム(交差配列)の関係で構造化されているということになります。
自己 核質(マクロ) 反核質(ミクロ)
他者 反核質*(ミクロ) 核質*(マクロ)
こうした自他空間の相互反転関係に普段、僕らが気づけないのは、核質の対化(自他における人間の内面全体)を等化している精神の働きがウラで暗躍しているからです。この精神が次元観察子ψ13にあたる観察精神と呼ばれるものです。このψ13は別の言い方をすれば現在、世界をワンワールドへと持っていかせようとしている無意識的主体の力と言っていいかもしれません。民主主義や平等主義や資本主義が作りだしているグローバリズム、さらには現代文明の駆動力となっている科学主義や貨幣主義もおそらくこのψ13の統制下のもとで働いている様々な属性ではないかと思います。言うなれば人間型ゲシュタルトを人間の意識に与えている本源力のことです。
観察精神とはその意味で反核質の対化における等化そのものの精神ということになりますが、この精神活動は反核質の対化が作り出している6次元の回転群SO(6)とSO(6)*とを等化した7次元空間における回転運動として現れてきます。
4次元時空とは全く別のところで密かに活動しているこの7次元空間は自己側においては人間の外面側へと入り込み素粒子が持った内部空間の全体性を作り出してきますが、他者側においてはそれが人間の内面側へと映し出され、ある意味時空とは全く見分けがつかないマクロ空間側に射影されてきます。さらに、観察精神であるψ13自体が次元構造全体の中を回り巡ってψ1へと回帰する性質を持っているために、観察精神が持った等化の働きだけはψ1で示されるマクロ空間方向に某かの回転運動として射影されてくることになります。その回転というのがほかならぬ月の公転です。
――つづく
6月 29 2009
空間を哲学する——対話編その1
●男と女が潜む空間
藤本 男・男が『太陽の子』で精神、女・女が『地球の子』で物質、そして男・女が『月の子』で意識。これってヌーソロジー的に言ってどのような意味があるんですか?
半田 空間には男性的な性格を持った空間と女性的な性格を持った空間という二つの区分ががあるということだよ。そして、面白いことに空間が持ったこの性差は自己と他者の間では全く逆の構成を取っている。それによって、自己-他者が絡み合った空間では、必然的に、男・男、女・女、男・女、という三種類の力の流れを持った別々の回路が生み出されてくるんだよね。空間に内在しているこうした性差に僕らの意識はまだはっきりと気づいていない。それに気づき出すと、意識というものがこの空間に内在している性差が生み出す差異(力)の流れによって生み出されているものであるということが見えてくるんだ。
藤本 差異の流れ?
半田 違いがあるからその違いを埋めようと力の流れが発生しているってことだね。
藤本 気圧の差によってその間に風が吹くみたいな。。
半田 うん、そうだね。
藤本 確か『シリウス革命』でも書かれていましたね。性愛は必ずしも男・女の間で生まれているものではないって。
半田 もちろんだよ。ホモセクシャルもヘテロセクシャルもどちらもあり得る。宇宙的摂理からすればホモが異常なんてことは決してない。僕はホモじゃないけど、ホモセクシャルな性愛関係は決して否定されるべきものじゃない。
藤本 僕も女大好き派ですけどね。へへ。でも、男・男、女・女といったホモセクシャルな結合というのは何か深い意味があるんですか?
半田 うん、ある。さっきも言ったように、これは宇宙のエネルギー流動が単に(+,−)といった二値的な関係で動いているのではなく、(+,-,+,-)という四値をベースとして動いているために必然的に形作られる性関係なんだよ。具体的にいうと、[男・男]は精神の対化の結合を意味し、それは純粋な理性の世界を形作ってくる。一方、[女・女]は男・男の結合に反映されて付帯的に出現してくる空間でこれが物質世界のことを意味している。ヘテロ結合である[男・女(女・男)]は物質と精神との間を取り結ぶいわば中間の媒介領域としての聖霊が活動する中性領域のようなものだね。アリストファネスが語った「愛の起源」の寓話は、こうしたそれぞれのセクシャリティーの結合の在り方が太陽、地球、月という三つの天体の関係と深いつながりを持っていることを示唆している。
藤本 半田さんの言う空間に内在する性差というのは、ヌーソロジーがいつも内面とか外面とか呼んでいる幾何学的概念のことですか?
半田 うん、そう。簡単に言っちゃうと「人間の内面」というのが女、「人間の外面」というのが男。働きとしては内面が付帯質で、外面が精神だね。さらに付け加えると、外面から内面に向かうのが男のリビドー(欲動)、逆に内面から外面に向かうのが女のリビドー(欲動)だということになるね。
藤本 外面から内面が男のリビドー?内面から外面が女のリビドー?リビドーって?
半田 無意識の流れのようなものと思えばいいよ。無意識はある構造の中を流動している。これは僕がいつも使っているケイブコンパスの図で説明した方が分かり易いだろうね(下図1)。外面から内面というのはケイブコンパスでいう思形(=ψ9)を指し、内面から外面というのは感性(=ψ10)のことを指してる。ブルーの矢印が外面から内面に向かって、反対にレッドの矢印が内面から外面に向かっているでしょ。フロイト流に言えば、ブルーの流れが現実原則で、レッドの流れが快感原則だ。
藤本 図式だけではよく分からないので、人間の外面と内面を一言で簡単に説明していただけませんか?
半田 内在と外在、もしくは主体世界と客体世界という言い方ができるかな。いずれにしろどちらも意識の在り方の違いによって生まれているものだということ。外在が絶対的な客観世界として存在してそこで意識が生まれているのではなく、外在も意識の在り方の一つにすぎないということだ。
藤本 ということは、上に示されたケイブコンパスの図を参照して言えば、男のリビドーが外在世界の認識の方を作り出し、女のリビドーが内在世界の認識を作り出しているということですか?
半田 そうだね。悟性的なものと感性的もの。思考的なものと感情的なものの関係と言いい変えてもいいよ。神智学-人智学の言葉で言えばメンタル体的なものとアストラル体的なもの関係と言っていいかな。
藤本 男=悟性、女=感性。。何かフェミニストから殴り込みをかけられそうですが。。
半田 はは。美人だったら歓迎します。ユングのアニマとアニムスではないけれど、人間はこうした男なるものと女なるものの両性からなっているということを言いたいのであって、決して即物的に男と女のことを言ってるわけではないよ。
藤本 そうですよね、今までそうした言語的な観念としてしか言い表せなかったものをヌーソロジーでは空間の構造として幾何学的に描像しようとしているんでしたよね。
半田 その通りだね。そのような意識の類型の分別を空間のカタチとして知性の中に再表現しようと思っているんだ。ここで表現されるカタチこそがヌーソロジーがイデアと呼んでいるものだね。もっと卑近な言い方をすれば霊的世界を天上からこの地上に引きずり下ろして、天上と地上の区別を消すってことかな。
藤本 そのカタチを表現するために重要な役割を果たしているのが身体空間だということなんですよね。
半田 うん。科学のように数式や図式上の理解でもなく、宗教のような情緒的理解でもない。身体を通じて空間を見たときの構造的な理解だ。ヌーソロジーは意識変革のためにもっとも重要なことは、従来の空間に対する3次元イメージに大きな変更を加えることが何よりも重要なことだと考えているんだ。空間認識が変わらなければ意識が変わったとはとても言えない、ということだね。
藤本 では、人間の外面と内面を身体を中心にイメージした場合、どのようなものとして出現してくるのでしょうか。
半田 最も分かり易い言い方をすれば、身体の「前」と「後」と言っていいと思うよ。「前」が人間の外面。「後」が人間の内面。
藤本 う〜む。ということは、「人間の外面」というのは主体や内在が存在しているところだと言われてましたから、僕らが主体や心の世界と呼んでいるものは身体の「前」のことで、反対に客体や外の世界と呼んでいるものは身体の「後」のことということになりますね。
半田 だね。その通りだよ。そういうふうに主体や客体概念を変更していかなくてはならないということだね。なぜ、そういう変更が必要なのかを具体的に語っていくのがヌーソロジーの入口の醍醐味でもあるんだよね。とにかく最初のうちは「えっ!!」「うそでしょ。」「まさか!!」のオンパレードになると思うけど、そのうちいろいろなことがビシバシ繋がってきて深く合点が行き出すと思うよ。
藤本 う〜ん、まだまだわっからないなぁ。。。。でも、なんで身体の「後」側が内面で、「前」側が外面なんでしょうか?そのときの内とか外とかというのは何を基準に言っているんですか?
半田 実際に目に見えているか、見えていないかだね。見えている世界のことを外面と呼び、見えていない世界をを内面と呼んでいる。ただそれだけのことだよ。たとえばこうしてタバコを手にとったとき、タバコのパッケージは見えているよね。これはパッケージの「外面」だ。「外面」だから見えている。そう考えよう。だけど、バッケージが印刷されている紙の裏面、つまり内面側は見えない。同様にパッケージの裏側も見えないよね。だから、それも内面だ。それと同じで、人間にとって身体の前方向は常に見えている。でも、背後側は常に見えてはいない。だから、前者を人間の外面と呼んで、後者を人間の内面と呼んでいるんだ。
藤本 外面は見える世界。内面は見えない世界ということですね。確かに見えている世界は常に身体の前側であって後側の世界は見えてはいません。でも、なぜ、それを「面」と呼んでいるのかが分かりません。内面や外面に付いている「面」という呼び方があまりしっくりとこないのですが。だって身体の前方向も後方向もそれなりに奥行きを持っているでしょ。僕らは普通、面というと、テーブルの表面のように平べったい広がりのようなものをイメージしてしまいますから。
半田 そうだね。だから、ヌーソロジーの思考空間に入るためには、普段僕らが「前」や「後」に対して抱いている広がり(奥行き)の感覚を一度幼児に戻った感覚になって頭から消し去ってもらわなきゃいけないんだよね。純粋知覚というやつ。幼児の意識にはどちらが遠いとか近いとかそんな遠近感覚はまだ生まれていないよね。「前」はそれこそペッタンコに潰されて”面的”な空間として見えている。そうした認識に一度リセットする必要があるんだ。数学的に言えば目の前の空間を2次元射影空間として考えるということなんだけど。。
藤本 そうした見方をすることによって何が分かるというのですか?何か有意義な発見でもできるというのでしょうか?世界をより複雑に見て、返って頭を混乱させるようにも感じてしまうのですが。
半田 オッカムのカミソリかい?はは、今の段階ではそうかもしれないね。しかし、ヌーソロジーの思考に慣れてくると、世界をこれほど単純化して見る思考法は他にはまず存在しないということが分かってくるはずだよ。ヌーソロジーはあるがままに世界を見ているだけであって、今の人間型ゲシュタルトの方があるがままに世界を見れなくなっているから、逆にあるがままに世界を見ることの方を難しく感じてしまっているだけなんだよね。禅師が言うように、一度、君のそのお茶碗の中を空っぽにする必要があるね。そして、一からヌーソロジーの概念で自分の認識の成り立ちというものを再構成していってみるといいよ。するとヌーソロジーがなぜ、身体における「前」と「後」の差異を重要視しているかが自然と理解できてくる。保証するよ。
藤本 そこまで言われるなら一応、半田さんを信用しましょう。続けて下さい。
半田 OK。じゃあ、射影空間のところから続けるよ。射影空間というのはとりあえず視野空間を面としてみたときのことを言ってると思えばいい。僕がいつも使う「モノを中央に挟んで向かい合う自己と他者」という思考モデルがあるよね。
藤本 ええ、NC(ヌースコンストラクション)のもとになっている自己-他者とモノの配置図のことですね。
半田 そう。身体の「前」をもし2次元の射影空間(射影平面)として見ると、自己と他者が向かい合った状態では、それぞれに見えている射影平面は互いに裏返しの関係になっているのが予想されるよね。つまり、射影の方向が正反対なので向かい合う自他がそれぞれに形作っている視野空間のカタチは射影平面のオモテとウラという言い方ができるわけだ。
藤本 確かにそうですね。こうして今、僕と半田さんが向かい合っているとして、僕が見ている視野面は半田さんの背後側で構成されており、同様におそらく半田さんの視野面は僕の背後側で構成されている。。これが半田さんのおっしゃる「自己と他者では人間の外面と内面が逆に構成されている」ということの意味ですよね。
半田 うん、その通り。下にイメージ図を添えておくね。
藤本 でも、だからなんだというのでしょう?当たり前のことのように聞こえますが。
半田 確かに当たり前だ。でもね、実は現在僕らが一般に受け入れている時空概念ではこの当たり前のことがうまく説明できないんだよ。
藤本 えっ?どうしてですか?
半田 時空というのは3次元の空間+1次元の時間で4次元時空としているわけだけど、空間だけ取ってみればあくまでも3次元だよね。実は射影空間を裏返しにできるのは4次元空間においてであって、3次元空間じゃ1つ次元が足りないんだ。
藤本 えっ?それってどういうことですか?
半田 たとえば、3次元空間の中に僕と藤本さんがいる、とする。普通は、僕と藤本さんの身体が位置している場所を3次元空間の中で互いに入れ替えれば僕の視野空間と藤本さんの視野空間を入れ換えることができるように思っているでしょ。
藤本 ええ。半田さんの場所に僕が移動すれば、今、半田さんが見ている風景を今度は僕が見るようになるってことですよね。
半田 うん。でも、時空という枠組の中に僕と藤本さんの身体をモノのように位置させてしまうとそうはならないんだ。つまり、藤本さんがどのように移動しようと僕の見ている風景を藤本さんは絶対に見ることができないし、逆もまたしかり。。
藤本 ええ〜?どうして?
半田 僕と藤本さんの物質的身体の位置を互いに入れ替えるというのは、幾何学的に言えば単なる2次元の球面上での回転での位置の入れ替えであって、このような回転移動では視野空間を構成している射影平面を入れ換えることはできないんだよね。というのも、射影平面というのは幾何学的に捩じれを持っているから。ちょうどメビウスの帯みたいにね。だから、この入れ替えを可能にするような回転を起こすには3次元じゃ空間の次元が一つ足りないんだ。4次元空間じゃないと無理。
藤本 だとすると、それは一大事ですね。時空の中では誰も外界を共通のものとして見ることはできない、客観世界なんてものはどこにもない、ってことになってしまう。
半田 そう、見えている世界は常に主観であって、そこに客体などはないってことさ。
藤本 ということは見えている世界自体を自分と呼んでも何も矛盾はないことになりますね。
半田 ああ、そうだよ。世界は4次元時空として構成されていて、それを見る機能を持った物質的身体がその時空内部に存在させられていて、そこから人間は世界を観察している——これが科学を始めとする一般的な世界知覚に対するイメージだと思うんだけど、単に目の前の空間を射影空間と解釈しただけで、現在の僕らのモノの考え方には赤信号が点滅してしまう。科学が意識に対してメスを入れることができないのも、外界と内界という認識が拠って立つ位置の取り方が極めて曖昧というか、事実とはほど遠い概念の中でステレオタイプ化されているからなんだ。その曖昧さが、意識や精神といった概念に対するイマジネーションをより貧困なものにしている。
藤本 つまり、時空の中に物質があって、その物質が複雑に構成された結果として人間の肉体があって、その複雑さの度合いから意識というものが発生し、その意識によって人間は肉体から外部の世界を眺め、自省的意識を持つことができるようになったというような話は人間が勝手にデッチ上げた作り話だということですか。
半田 まぁ、そこまでは言わないけど、どうも真実を指し示してはいないということだね。まず時空があって人間がそこに生まれて来たのではなくて、まず最初に人間がいてその後で時空が概念として生まれて来たとする方が正しいと思うよ。
藤本 時空が概念として。。
半田 そう、時空というのは実在じゃないってことだ。あくまでも概念によって構成されているものにすぎない。数学では(非)ユークリッド空間よりも射影空間の方がより原型的なものだと考えられているんだ。つまり、射影空間からユークリッド空間が構成されてくるということ。このことが何を言っているかわかるかい?
藤本 ………?
半田 つまり、射影空間がまず先に与えられないとユークリッド的な空間は生まれてこないということ。このことを人間の現実に当てはめれば、幼児期は人間は空間を射影空間として経験している。そして、その空間をもとにして自分中心の空間を作り出して行く。この中心は言うなれば無限遠平面なんだけど、そこに他者が介入し、自分の身体性や言葉を獲得していくことによって、この無限遠平面が排除されてしまう。数学的にはこの排除によって計量が可能となりユークリッド空間が成立してくる。何が言いたいかというと時空は「世界を観察している自分」を消滅させるという脱中心化によって初めて生じてくる世界だということなんだ。
藤本 つまり、自分という中心をしっかりと持っている赤ちゃんや幼児にとっては時空は存在していないということですか?
半田 うん、存在していない、というか実際に認識として成立させてはいないよね。少なくとも僕は覚えていない(笑)。時空というものは人間の意識発達によって後天的に構成された概念の一つにすぎないということだよ。その概念に合わせて僕らがすべての事象を整理しているだけ。カントという哲学者は時間・空間はアプリオリ(経験に先立った)な直観形式だと言って、世界を何とか主観の方向にもってこようとしたのだけど、実はこれではまだデカルトが論じた客観としての延長概念の抗力を消し去るには中途半端で、時間や空間はあくまでもアプリオリというよりもむしろアポステリオリ(経験に準ずる)な直観の形式なんだよね。問題の本質は、どうしてアポステリオリにそうした直観が人間の意識に芽生えてくるのかというところにあるのであって、そこで暗躍している無意識の仕組みこそがアプリオリなものなんだよね。だから、ヌーソロジーはその無意識の中にあるより原型的な空間に立ち返って、時空の発生の契機について考え、かつ、そこを足場として精神と物質の関係性についても考え直そうとしているんだ。
藤本 その原型的空間の立ち上がりとして、人間の内面と外面という概念がどうしても必要になるということなんですね。
半田 そう。絶対に必要不可欠なものだと思う。
藤本 そしてそれが身体の「前」と「後」だと。
半田 うん。
藤本 シンプルですよね。
半田 と思うんだけどねぇ〜(笑)。
藤本 でも何で「後」が女で、「前」が男なんでしょ?
つづく。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: アストラル, カント, ケイブコンパス, シリウス革命, フロイト, メビウス, ユークリッド, 人間型ゲシュタルト, 付帯質, 内面と外面, 対談, 無限遠