6月 21 2008
時間と別れるための50の方法(16)
●4次元空間への脱出口
「時間と別れるための50の方法」とタイトルを銘打って書き進めてきたこの駄文も、もう(16)まで来てしまいました。肝心の時間についての話が一向に出てこないじゃないかと怪訝に思っていらした方も多々いることでしょう。ようやくです。ようやくこれで時間を含めた4次元という次元(4次元時空と4次元空間)の本質についてヌース的な視点から話す準備が整いました。ここからは今まで以上に頭の柔軟性が必要になります。OCOT情報を交えながらじっくり進めましょう。
モノから広がっている3次元空間の方向性はシリウスでは何と呼ぶのですか?
垂子(スイシ)です。垂子とは線です。
(シリウスファイル)
まずは、今まで説明してきたψ3とψ4の球空間の半径が持つ互いの関係を正確に描いておきます。
この図から、ψ3の半径部分は観測者から見てモノの背後方向に延びている直線に対応することが分ります。一方、ψ4の半径部分の方は、モノの手前にいる観測者自身の方向、さらにはそこをも突き抜けて、観測者の背後側へと延びている直線に対応しているのが分ります。今一度、皆さんもその二つの方向性の違いを確認してみて下さい。
すると、ψ3の半径が指し示す方向は正面方向にあるので「見えます」が、ψ4の半径の方向性はモノの手前側に向いており、まずは「わたし」の顔面方向、さらにはそれを突き抜けた後は「わたし」の背面方向となって、共に「見えない」ことが分ります。この「見える」「見えない」が「人間の外面」と「人間の内面」の違いです。僕は外面を「現実的なもの」、内面を「想像的なもの」とよく言い換えるのですが、これは、前は見える、という意味において現実ですが、後ろは見えないという意味において、つねに想像でしかないからです。
モノから広がる3次元空間の概念は実は人間の内面=ψ4の球空間にしかあてはまらない。というのが前回の内容でした。では、現実として目に見えている外面=ψ3の球空間は一体どこにいったというのでしょう。
ここで、もともとψ3の球空間が2次元射影空間を作り出すための球空間であった、ということを思い出す必要があります。モノの背景面方向には確かに、無限遠方へと延びている線分が感覚化されています。しかし、現実としての知覚正面上ではその線分上の点はすべて一点で同一視されているというのが分かります。つまり、射影空間上ではψ3の球空間の中心点(光学中心と言います)と無限遠方は同じものになっているという言い方もできるのです。つまり、無限遠の長さの半径が無限小の長さに潰されているということです。そうした線が回転するのですから、ψ3はその中心にある微小な球体に縮まっていると考えられます。ψ4に包含されてしまったψ3とは何と中心点近くまで入り込んでいるわけです。『人神/アドバンスト・エディション』では、この入り込みを空海のいう重々帝網という仏教概念を使って即身化のルートと呼びました。微塵のミクロ世界にも、マクロが映り込んでいるというわけです。ライプニッツの言葉を借りれば、これはモナドです。
こうして説明しても、見えている世界がミクロ世界?そんなバカな、と思う方がほとんどだと思います。とにかく、実際に皆さんの身体を使ってこの様子を確かめてみて下さい。前回示したワークで言えば、バスケットボールの周囲を回転していくときに、その中心とその背後方向に延びている無限遠へと延びている線が、現実には点のように見えていることを確認しながら、ゆっとりとバスケットボールの周囲を回ってみればいいだけです。どうでしょうか。ボールの背景面上で次々と遷移していく無限の彼方にまで延びているはずの視線の突端はボールの中心点とピタリと一致して、点にしか見えないのが分りますね。知覚的事実としてこれは否定のしようがありません(下図1参照)。
「神が聖母マリアの胎にひそかに宿り給うたとき、そのとき点が円環を内包したのだ。」
こちらも、ヌースではもうおなじみの引用(『シリウス革命』205ページ)ですが、これは16世紀に活躍したオランダの建築家シェフラーという人の言葉です。この言葉は人間の空間認識の反転が、世界に創造者を再来させる、ということを意味しています。マリアの胎にひそかに宿り給う神………受胎告知ですね。この「ひそかに」というところがミソです。光の救済なんてものはそんな派手なものとしてはやってこない。人間の内面に堕ちた光のかけらをそっと物質(マテリア)の中心に差し戻してやること。そこから光の目醒めが始まります——つづく
7月 30 2008
時間と別れるための50の方法(24)
●位置の交換という概念
――一つの対象(客体)に対して、主体として感覚化されている位置を、対象の手前に存在していると思われる肉体側の位置側から、対象の背後に見えている背景面側へと移し替え、さらに、そこに見えている背景面を、そのまま対象の中心部へと遷移させること。これを「位置の交換」という。(『人神/アドバンスト・エディション』p.389)
OCOT情報では、人間の最終構成が始まると、主体概念と客体概念の逆転が自然に起こってくると伝えてきています。この逆転のことをヌース理論では「位置の交換」と言いますが、その内容はまさに、ベルクソンが主張していた、観察されているイマージュとしての客体(その対象が対象足り得るための記憶のたなびきを含むということ)の中に主体を見るということに他なりません。大ざっぱな言い方をすれば、「わたし=主体とは実は見られているものの方だった」ということを意味します。
前回のベルクソンのところでも話しましたが、「位置の交換」という作業が持つ意味は、「意識がここにこうして生起している」という出来事を、従来の考え方のように自分の体内(脳内)で起こっている観念作用の連鎖物のように捉えず、目の前の自然という開かれた場所そのものへと遷移させる、ということと同意です。ただ、このとき注意しなければならないのは、この自然という存在を、従来の時間・空間的な意味での「外部」環境のように見なしてはならないということです。この生起の場所とは持続=記憶を所持した「わたし」が浸透している世界なわけですから、むしろ、従来の言い方をすれば、わたしの内部として息づいているような場所になります。つまり、人間の外面(知覚が起こっている場所)という空間とは身体の内部世界という言い方もできるのです。それが外部のように見えてしまうのは、人間の意識が人間の内面空間の方に偏ってフォーカスさせられているからにすぎません。
対象の背後と手前をそれぞれ半径に持つ互いに反転した二つの球空間、次元観察子ψ3とψ4。さて、もしこのような空間の二分割が精神と物質の分水嶺足りうるものだとすれば、人間の外面=ψ3は人間の内面にとっては、極めて微小な空間領域の中に映り込んでいるということになります。モノの背後の空間はモノの手前の空間の中に小さく縮められて半径無限小の小さな球体となって入り込んでいる。すなわち、これは哲学が「内包(ないほう)」と呼んできた概念にほかなりません。
時空という名の延長空間上のあらゆる位置にきら星のごとく散りばめられた〈未分割の広がり〉の内包としての知覚空間。ここに今まで紹介してきたようなベルクソンの思考を重ね合わせれば、それはまさしくライプニッツが「モナド(単子)」と呼んだ概念に酷似してきます。
モナドとは世界を作っている最小単位のようなものです。しかし、これはデモクリトスが唱えたようなアトム(原子)のことではありません。アトムは物質の最小単位としての概念ですが、モナドとはライプニッツによれば、精神のことです。ですから、モナドには認識能力があります。そして、モナドはそれぞれが世界の中心でもあり、全体を表象する能力を持ち、なおかつ部分とも成り得るような代物です。仏教の言葉で言えば「一即多」「相移即入」なる帝網(たいもう)の目、今風の言葉で言えば部分が全体を含むホログラフィックな存在です。
一人、時空の魔術師となって、
星空の下に立ってみよう。
手のひらの上には小さなピンボールが一つ。
その表面には星々のすべてが映り込み、
今か,今かと、
反転のときを待っている。
次元観察子ψ3の球空間のイメージは、ちょうどこのピンボールの表面が裏返しになったようなイメージです。モノの背後にある時空間の広がりは光速度によってその限界にまで縮められ、人間の内面においては、そのモノの中心点と見なされるところへとそっと人知れず入り込んでいる。そんなイメージです(下図1参照のこと)。
しかし、ここはもはや単なるモノの中心点ではなく、今までの話でも分かるように、そのモノの存在の知覚が起きている場所のことでもあり、「わたし」自身と言い換えてもいいようなところになります。こうしたモナド化した「わたし」自身のことをOCOTは「最小精神」と呼んでいますが、これはヌース的に言えば、覚醒した小さな小さな主体の赤ちゃんです。
最小精神は顕在化における最初の位置となります。(シリウスファイル)
こうした一連のイメージを持って、周囲のモノを一つ一つ見つめてみるといいでしょう。そうすると、その見つめているモノの中心に見つめている「わたし」が息づいている感覚が多少なりとも現れてくるはずです。。。ん? 現れてこなかったらゴメンナサイ。
――われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである。(ベルクソン『思想と動くもの』)
まだまだ続くよ。
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 2 • Tags: イマージュ, ベルクソン, モナド, ライプニッツ, 人間の最終構成, 人類が神を見る日, 位置の交換, 内面と外面