6月 18 2009
地球から広がる空間について、その8
地球から広がる空間についてダラダラと駄弁を弄してきましたが、ここで地球、月、太陽が精神構造においてどのような役割を持っているのかについて簡単にまとめておきます。今まで示してきた地球や月の自転、公転の話ともいずれドッキングしてきますので、それが楽しみに思える方はどうぞ楽しみにして下さい。
まとめの前に、まずは僕の会社の取引先の会社の通信誌に掲載されたインタビュー記事を紹介しておきます。この記事は毎回、映画をネタにヌース話をくっちゃべる「NOOS DE CINEMA」というコーナーで、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を題材にしたときのものです。
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ
「人間は一体どこに向かって、一体何をしようとしているのか?」
今回のヌースDEシネマは「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」を題材にヌーソロジーの独自な視点で語っていただきます。
* * * * *
藤本 今回の映画は、オフ・ブロードウェイで大ロングランを記録したロック・ミュージカルを映画化した『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』です。デヴィッド・ボーイやマドンナなどのロックスターもオフ・ブロードウェイでミュージカルを観劇しています。デヴィッド・ボーイはその後ロス公演に出資したりマドンナは劇中で歌われている曲の2曲を自分のレーベルからリリースしたいと申し出たそうですね。
半田 とにかく楽曲が素晴らしかったね。特にテーマ曲ともなっている『愛の起源(The origin of love)』はミュージカル史に残る名曲だね。作曲を担当したスティーブン・トラスクもバンドのギタリスト役で出演してる。サウンド・トラックを買っても損はしないと思うよ。
藤本 そうそう僕もCD買いました。ツタヤで借りようかなと思ってたら、半田さんに強く勧められて、博多のキャナルシティに一緒に行って買いましたね。(笑) どの楽曲もとても素晴らしいと思います。その中で『愛の起源』は一番気に入っています。この曲はプラトンの『饗宴』にモチーフを得た寓話を物語としてバラードにしたとCDの説明書に書いていました。
半田 そうなんだよね。『響宴』での議論のテーマが「愛」だったんだ。その中でソクラテスがまず愛を永遠のイデアとして語るんだけども、アリストファネスが語った愛の起源の寓話の方が有名になっちゃったんだよね。世界が生まれたばかりのころの人間は二人一組で背中合わせの生き物で、両手両足がそれぞれ4本ずつあった。しかし、人間が地上を支配するのを嫌った神さまは、この最初の人間を二つに引き裂き、それぞれ今の人間の形にした。以来、人間は失われた半身を求めて愛を渇望するようになった。という話だね。テーマ曲の『愛の起源』はそのストーリーをとても分かり易くアニメ仕立てにしていて、映画のセンスをぐっと引き立てていたよね。
藤本 その話なんですけど、今の人間が生まれる前=愛が生まれる前=人間が二人一組だった頃は「三つの性」があった。男と男が背中合わせだと『太陽の子』。女と女が背中合わせだと『地球の子』。そして『月の子』はフォーク・スプーン、太陽と地球、娘と息子の中間。今は男と女だけど、この「三つの性」について解説していただけますか?
半田 この三つの性というのはね、世界というものが生まれるための三位一体を象徴させて言っていると考えていいんじゃないかな。まず男・男の『太陽の子』というのは精神、女・女の『地球の子』というのは物質、そして男・女の『月の子』が意識。物質と精神をつなぐものが意識なんだけど、今の人間は人間自体の精神が自己と他者という双子関係で作られているということに気づいていないので、世界の成り立ちを単に男性原理と女性原理の二元論で見ちゃってるんだよね。それだと両性具有的な原理が見えない。結果、精神と物質が対立してしまう。そして間をつないでいる両性具有の部分が無意識の中に沈んでしまうんだね。月はその沈んでしまった無意識を象徴するものなんだよね。
藤本 男・女の『月の子』は、物質と精神をつなぐ意識であり、両性具有的な存在と考えていいのですか?映画の中で主人公のヘドウィグは、西ベルリンで男として生まれ育ちますが、アメリカの兵隊に求婚され、アメリカに渡るために性転換手術をします。その手術が失敗して傷跡が1インチ隆起してしまう。題名になっているアングリー(怒りの)インチ(1インチ)。ヘドウィグは、『月の子』ですね。
半田 主人公のヘドウィックがゲイだという意味ではそうだね。しかし、別の解釈もできる。そもそもこの作品が面白いのは至るところに月に象徴される人間の無意識世界を目覚めさせろというメッセージが様々な比喩となって盛り込まれているところなんだよね。たとえば、ヘドウィッグが歌う挿入曲の『ヘドウィグ&アングリーインチ』では「オレのオチンチンはもともとは6インチあった。それが1インチだけ残されてしまった、こんな半端な状況で一体どうしてくれるんだ!!」ってその何ともやりようのない怒りを歌ってる。これは全体の5/6がどこかに消えてしまった中途半端さに対する怒りなんだ。5/6というのは10/12でもあるんだけど、「12のうちの10がどこかに消えてしまった」という話は古代の宇宙論ではよくある話で、たとえばユダヤの「失われた10支族」の伝承なんかもそうだね。12で完全なのになぜか2しか残っていない。残りの10を探さなくてはならない、ってね。12のうちの2というのは不吉さを表していて、東洋占術なんかでも天中殺で使われてる。ヌーソロジーの宇宙観もそうだよ。
藤本 奥深い話ですね!では顕在意識が2で残り10が潜在意識。そしてこの映画のテーマは、「人間の無意識世界を目覚めさせろ」ということですか?どうしたら人間の無意識世界が目覚めるんでしょうか?
半田 ズバリ、最初に紹介したこの映画の主題曲でもある『愛の起源』の中にそのヒントは隠されているんじゃないかな。『愛の起源』の中で、もともと人間は背中合わせでくっつき合っていて、手足が各4本ずつあったと言ってる。このことが何を意味しているか、そのナゾを解くということだよ。実際、こうしたことを言ってるのは何もプラトンの『響宴』だけでなく、アフリカのドゴン族の神話にもノンモという生物がいて、これまた男・女の背中合わせのかたちをしてるんだ。日本にも両面スクナという伝説が残っているしね。
藤本 そうなんですか。アフリカや日本やでもそのような神話が残っているのですね。手足が4本ずつある意味って何ですか?それが「人間の無意識世界を目覚めさせる」ことと関係あるんですよね。
半田 これはヌーソロジーの根幹とも関係があることなんだけど、人間という生き物は本来、自己と他者で成り立っているということなんだ。つまり、ほんとうは二人で一人であって、個体が独立して存在しているように考えるのは誤りだということ。おそらく、大昔はそうした「二人で一人」という人間像が当たり前に思える意識状態で人間が存在していたのかもしれない。もっとも、それを人間と呼べるかどうかは分からないけど(笑)。
藤本 手足が4本とは、自己の中に他者が存在している。自他共にひとつであると言うことですね。それを神が引き裂いた。他者を取り戻そうとすることが愛ということですか?
半田 他者を取り戻すとも言えるし、ほんとうの自分を取り戻すとも言えるよね。なぜなら、自己とは他者によって与えられているものだから。『愛の起源』が語る背中合わせの男・女とはその意味で言えば、愛を成就した人間のかたちそのものと言っていいのかもしれない。愛が成就しているのだから、そこには愛なんてものはない。今の人間が愛と呼んでいるものはそうした失われた半身を取り戻そうとするあがきのようなものかもしれない。
藤本 「人間の無意識世界を目覚めさせる」・「ほんとうの自己を取り戻す」ことは、「愛を成就した人間のかたち」・「手足が各4本ずつあった」・「6インチあった」・「12」に戻ることですよね。この映画は、ヘドウィックが今の人間として、その道を彷徨っている姿を描いているのだと思います。
半田 そうだよね。その意味で言えば、愛が成就できない今の僕らはすべてがヘドウィグであり、そこに怒りや苦しみをぶつけるアングリーインチとも言えるね。
藤本 ヘドウィグは、現在の人間の象徴的存在ですよね。この映画の最後のシーンで、ヘドウィックは、化粧が剥がれ落ち、カツラを取り裸になって、雨が降る夜の街角をフラフラと歩いていきますよね。最後のシーンとしては、寂しい終わり方です。これも何か意味があるんですよね。ヘドウィグは、どうなるのでしょうか?凄く気になります。
半田 そうだね。一見するとこの映画は、結局「人間は魂の片割れを追い求めて永遠にさまよい続けるしかない」というメッセージを発しているように思えるけど、僕は違う見方をしてるんだ。ラストの少し前のところで、ヘドウィグが女装を脱ぎ捨てて男の姿に戻って額に十字架を描いて歌うシーンがあるよね。そのとき衣装は純白に変わっている。このシーンは実は無意識の覚醒を描いたものじゃないかと思うんだ。だから同時に、ヘドウィグと対照的な関係にあったイツハク(彼女はいつも男装をしていた)も、本来の女自身の姿に戻り、隠されていた美しさを開花させる。ここはこの作品でも一番大事なところで、本来の男と女に戻った人間の姿が現れているとこなんだ。さっき言ったよね。今の人間は皆がアングリーインチなんだって。つまり、「無意識を目覚めさせる能力」が去勢されて、悩み苦しんでいる。だから、本来の男と女に戻るということは、無意識の目覚めを寓意させているんだよね。そして、この映画が素晴らしいところはそこで物語を終わらせなかったところ。無意識がたとえ目覚めて愛が成就したとしても、また、別れがやってくる。最後にヘドウィグが雨の街を裸で放浪するシーンはその意味で「新しい始まり」と解釈した方がいいだろうね。そうやって、世界は流転し続けているんだと。決して愛が究極ではなく、成就した愛は、また別れの物語を作り上げ、人間という存在のストーリーは永遠に続いて行く。愛の成就というゴールよりも変化していくプロセスこそが最も大事なものなんだよ。—— 「いきいき生活通信」 2009年5月 1日号より転載
ということで、次回、地球、月、太陽の話を、架空のインタビュー形式にして続けてみることにしましょう。次回はコテコテにヌースロジカルに話します。
7月 1 2009
空間を哲学する——対話編その2
●「前」と「後」が意味すること
半田 その理由付けを話す前に僕が「前」と「後」と呼んでいる身体が持った方向についてその意味合いを正確に把握してもらう必要があるんだよね。その把握が不十分だと何を言ってるか分からなくなる恐れがあるから。
藤本 そうですよね。半田さんが言ってる「前」とか「後」というのは、体を外部から見たときの前や後のことではなくて、あくまでも身体の内部において自分が感じている「前」と「後」という方向性のことですよね。
半田 そう、身体を不動のものとして見たときの言わば「絶対的前」や「絶対的後」のことを言ってる。だから、後だろうが上だろうが空間のどの方向を向いてもそこは「前」ということになるね。
藤本 ということは、自分の周囲をグルリと見渡せば、そこは全部「前」ってことになって、見えているものが存在しているのはすべて「前」ってことになりますよね。とすると、前以外の後とか、左右とか、上下とかってのは一体どこにあるんでしょう?
半田 それが意識の中ってことじゃないかな。意識の中で重なって存在させられている。意識の中で空間が多重に重なり合って存在していると考えるといいんじゃないかな。その畳み込みの構造がヌーソロジーが無意識の構造と呼んでいるものなんだ。
藤本 つまり、普段、僕らは自分の身体を包んでいる球体状の空間というのは3次元だと考えているけど、ほんとうのところは前だけで構成された球体や、後、左、右、上、下といった各方向それぞれの集合が形作る全く別の球空間が、それこそ身体の回りに重なり合って存在させられているということですか?
半田 実際に今、確認してみるといいよ。そうなっているでしょ。
藤本 確かにそうですね。
半田 今、藤本さんが感覚化している空間は身体空間と呼ぶにふさわしいものだよね。そして、ヌーソロジーではその空間こそが高次元空間の正体ではないかと考えているんだ。
藤本 なるほど。僕らは普通、身体というと、いつも自分の身体を外から見て物質的な肉体として解釈しがちだけど、そうすると身体は単にモノの塊と違いがなくなってしまいますね。でも、身体を今、自分自身がいる場所そのものとして考えると身体は物質的存在というよりも空間の中に溶け込んだ境界のない存在のように感じてきます。そして、その空間はモノが存在しているような空間とは全く違う種類の空間のように感覚化されてこないこともない。。。
半田 うん。ヌーソロジーはそうした未知の空間にアクセスしようとしてると思えばいいよ。それを知性に引っ張り上げてくるとでもいうのかな。そして、それらの空間と自分の意識との関係を明確にすることをとりあえずの目標としている。。
藤本 身体空間ってエヴァでいうATフィールドみたいなやつですかね。その空間に入っちゃうと物理的攻撃がまったく意味を為さないというか(笑)。
半田 物理的攻撃というよりも物理的な思考によって形作られた様々な概念の攻撃は一切通用しないよ、ってことだろうね。身体空間そのものにおいて現象を見つめれるようになった意識はもう3次元世界にはいないってことになるだろうから。
藤本 人間型ゲシュタルトから変換人型ゲシュタルトへの遷移。つまりヌース的幽体離脱ですね?
半田 そうした空間認識の中では少なくとも自分が物質的肉体の中にいるという観念は消滅してしまうだろうから、その意味では魂が肉体を離れたという言い方ができるね。
藤本 身体空間に前-後、左-右、上-下という三つの軸があるとして、半田さんはいつも前-後軸から話を始められるのですが、それは意識にとって前-後という方向が最も基本的な方向だからなのですか?
半田 うん。少なくとも「見える」という視覚に関して言えば、被造物のすべては身体に対してつねに「前」に存在しているよね。だから、そこからじゃないと話自体が始まらない。世界は光とともにありきってことだ。というのも、ヌーソロジーでは古代の伝統的な秘教と同じく光そのものが精神だと考えているからね。その意味で言えば、「後」というのは決して光が入り込むことのできない闇の世界のことでもあり、実のところいかなる存在物も存在していない「無」の場所だということになる。ヌーソロジーではそれを「付帯質」って呼んでいるんだけど
。
藤本 ははぁん、付帯質というのは無の意味だったんですか。
半田 精神としての力が存在していないという意味でね。
藤本 ということは、精神が男で、付帯質が女ってことですかね。光とともに精神のすべてがある場所が男で、何もない無の場所が女。こりゃぁ、ますます女性群からブーイングが起こりそうだ。
半田 いや、卑下する意味で無のことを女と言ってるわけじゃない。むしろその逆だよ。無とは言い換えれば創造の原初の場とも言っていいし、そこからすべての精神が生み出され、かつ、それらの精神がそこで物質として表現されるという意味では創造自体を創造をする本源力と言えないこともない。つまり、無は神を創造する場でもあるという考え方もできるということだよ。意識空間全体から見れば、万物が存在者として存在する状態である「有」とは、創造を終えた精神の全体性が創造の始まり以前である無の中に首を突っ込んで、その精神の履歴を物質として見せている状態なんだよね。
藤本 本にも書いてあった「物質世界はタカヒマラ(宇宙精神)の射影である」という内容ですね。
半田 うん。そして、そこから次なる精神への進化の方向性として精神が光を立ち上げていると考えてほしいんだ。われわれ人間が世界を「見る」ということの本質的意味はそこにあるんじゃないかと思ってる。
藤本 人間の女が男を生むように、この女(無)もまた創造者としての新しい精神を生む可能性を人間という存在の中に孕んでいるということですね。
半田 そうだね。より正確に言えば、女が男と女を子供として生むように、この無なる女もまた創造者としての新しい精神と創造を受け取るものとしての新しい無を生み出す可能性の両方を持っているということだね。
藤本 やがて起こる進化が人間の意識を定質と性質の二つに分けるというヌーソロジーの審判の体制!!ですね。
半田 はは、意地が悪いね、藤本さんは。ヌーソロジーはそれほどユダヤ思想的ではないよ。分かれるのはあくまでも自分であって、個体が選別されるわけじゃない。もともと「わたし」というものが二つの意識の流れからできていて、人間には一つの流れしか意識できていない。しかし、もうじきもう一つの意識が目覚て、自分自身を二つに分離するということなんだね。これは裁きでも何でもない。単に一つのものが二つに分離を起こすということさ。
藤本 いゃ、いまだにそうした終末の裁きを信じたがる人たちが大勢いますからね。ヌーソロジーはそうした思想とはきっちりと一線を画したものであることを半田さんに表明してもらうためにも、ここは一発、突っ込みを入れてみました。
半田 おお、さすが藤本さん。僕の分身みたいだね。
藤本 のつもりです(笑)。
半田 さて、さっきから言ってる創造というのは、物質のもととなっている精神の創造のことを言ってるんだけど、「前」というのは文字通り現象世界(phenomenon)が現前(present)する場だよね。理由は分からないけれどもとにかく世界が現象化し、光とともに無数の存在物が僕らの身体の「前」に存在させられている。もちろん僕らはこの由来を露ほども知らない。これらは創造者からの純粋なる贈与として送り出されてきているわけだ。
藤本 ふむふむ。前は神からの贈与だと。
半田 そう。そして、その受取人が実は身体の後だということだ。後が前を受け取っている――つまり、世界がこうして存在しているということは男(神=万有)が女(人間=無)にプレゼントを渡しているようなものとしてイメージしてみようというわけさ。
藤本 ものすごいプレゼントですね。世界そのものを君にあげるよって――か。神ってカッコいいなぁ。で、そのブレゼントの目的は何なのですか?男が女に贈り物をするとすればそこには必ず下心があるはずですよね(笑)。無償の愛なんて言わせませんよ。
半田 そう、ある。やっぱりセックスだと思うよ。存在論的レベルでのね(笑)。
藤本 へっ?存在論的レベルでのセックス?何かすごいエクスタシー感じちゃいますね。
半田 いいかい。後には何もない。おそらく、そこは無底としての深淵だよ。この無の深淵を宇宙的な女性器だと考えてみよう。
藤本 夜は昼よりも深い。そして、女は男よりも深い。ってわけですね。
半田 そう。遥かに深い。遥かにね。たとえ神でもこの深淵には理解が及ばない。
藤本 だからこそ、男はその深淵に首を突っ込みたがる。いったいアソコはどうなってるんだと。。
半田 その通りだね(笑)。この無は「前」である神から彼のイチモツを奥深く挿入されている。神はその無底とも言える場の中に自らの性器を挿入し、そのまぐわいを快楽と感じながら精子をバラまいているんだ。それによって存在と存在者、すなわち現象世界が生まれている。
藤本 現象がこうしてある、ということ自体が存在論的セックス………?
半田 うん。そして、このときバラまかれている精子が実は僕らが言葉と呼んでいるものだと考えてみるのさ。
藤本 言葉が精子?
半田 うん。一般には言葉はコミュニケーションのための記号体系とされているよね。そして、この体系はサルから人間に進化する過程で人間の精神が自然に獲得してきたものだと考えられている。しかしヌーソロジーではそういう考え方は御法度だ。あり得ない。それは人間という存在を物質進化の結果の生成物としてしか見ることのできない科学信仰が作り上げた言語観であって、言葉というものはそんな底の浅いものじゃない。もっと存在全体に根を張った宇宙的な霊力と考えるべきだと思う。宇宙を創造した精神が事実としてどこかに存在している。それがヌーソロジーにおける仮定的前提だ。言葉といものはその精神が歩んだ足跡をあたかも遺伝子のようにして自身の体系のうちに内蔵させている。そして、それは光となって「無底」という名の女の腹の中に流れ込んでいる。そこに生まれているのが言葉ではないかとダイナミックに仮定してみようというわけだ。古代のアレキサンドリア人たちがよく言ってたロゴススペルマティコス(種子としての言葉)というやつさ。初めに言葉ありき。言葉の命は光であった――ていうね。
藤本 ………つまり、前が言葉を精子として後に流し込んでいるということですか?そこに人間が生まれている。。
半田 だね。たとえば生まれたての赤ん坊を想像してみよう。彼、彼女の意識には「前」しかなく、そこにはたぶん後はない。つまり、赤ん坊には無という観念はないんだ。赤ん坊にとってはただあるものだけが見えるものとしてただある。ここでいう「前」というのは純粋知覚の世界だ。その意味で言えば赤ん坊の意識は「前」である宇宙精神と一体化していると言っていい。つまりウロボロス的状態だ。しかし、赤ん坊はそのうち言葉を覚え始める。言葉というものは知っての通り赤ん坊の中に自然発生的に生み出されてくるものじゃないよね。それは親とか兄弟とか近しい他者によって言い伝えられ、教授されていくものだ。そして、当然、彼らは赤ん坊の背後からそれらの言葉を伝えるのではなくて、前から笑顔を以て伝える。ちゅばちゅば、とか、ぶーぶーとかいいながら、哺乳瓶や自動車のオモチャなどのモノを使ってね。つまり、赤ん坊は他者から投げかけられるモノへの眼差しや指差しによって言葉を習得していくんだ。
藤本 そうですね。赤ん坊が母親の視線や指差した方向を辿ってモノを眼差すというのは言葉の獲得にとても大切な条件だと心理学の本で読んだことがあります。でも、どうしてそれが赤ん坊自身の「後」と関係しているのでしょう?母親が指差して名指すものは赤ん坊にとってはやはり前にあるのではないですか?でないと見えないし。
半田 いや、赤ん坊にとっては「母親が名指しているモノは決して見えない」という意味でやはり赤ん坊の後にあると考えなくちゃいけない。
藤本 ?
半田 丁寧に説明するね。こうして僕と藤本さんが向かい合っている。今、真ん中にちょうど灰皿があるよね。僕が藤本さんに向かって「ここに灰皿があるよね。」と言ったとしよう。当然、藤本さんはそれを即座に了解する。しかし、ここで大事なことは僕と藤本さんは決して同じ灰皿を見ているわけじゃないということなんだ。僕が見ている灰皿の面は藤本さんには見えないし、逆もまたしかり。つまり、モノの前と後もまた身体の前と後と同じで、対峙し合う自他の関係においては、見える部分と見えない部分とか反転した関係にあるということなんだ。
藤本 でも、灰皿を回せば、僕が今見ている灰皿の部分は半田さんに見えるようになりますよね。
半田 そうだね。でも、藤本さんに見えていたその灰皿の当の部分は僕の方に回そうとした瞬間に見えなくなってしまう。結局のところ灰皿の全体像を僕と藤本さんが同じものとして同時に見ることは決してできない。たとえグルっと一回転させて互いがそれぞれに灰皿の全体像の記憶をとりまとめたとしてもそれらの全体像は決して3次元世界の中では重なり合うことはできないんだ。
藤本 なぜですか?
半田 さっき言ったように、二人が見ている空間が射影空間のオモテとウラの関係になっているからさ。
藤本 ということは、つまり。。他者によって名指されたものにおいては空間が反転しているってこと?。。
半田 そういうことになるね。射影空間として視像を見た場合、やはり向かい合う自他が見ているモノもそれ自体が反転しているってことだよ。そして、言葉や光ってのはその表裏を自在に反復して行き来している力のようなものなんだ。ということは、僕らが世界を言葉で構成し、その契機が他者からの言葉に依拠しているとすると、赤ん坊が最初に会得した言葉によって構築されていく世界は、他者の前世界が自己の後の空間にコピーされていっている世界ってことになる。つまり、言葉で認識が組み立てられている場所には実際には何もない。。。。
藤本 げっ、何もない無の場所に言葉が次々に投げ込まれていって、そこにある種ヴァーチャルな世界が、目の前に見えている世界を模写するようにして作り出されていっているということですね………ん?でも、それなら僕らはどうして言葉でモノの存在を相互に了解できるんでしょう?
半田 いい点をついてきたね。そのことについてはまた後で納得のいくように説明することになるよ。とにかく、今、考えてほしいのは、言葉の力はないものをあたかもあるもののように錯覚させる力を持っているということなんだ。そして、僕らが言葉によってモノの世界を認識しているということは、この言葉によって構成された世界の方を客体世界、つまり、外の世界だと思い込んでしまっているということなんだ。
藤本 ん~と、今、目の前にモノが見えている。しかし、これが灰皿だ。とか心の中でつぶやいて確認している灰皿自体は、その目の前に見えている灰皿ではなくて、もともとは他者に見えている灰皿で、それは自己にとっては前ではなく後の空間、つまり反転した空間に存在しているってこと。。。。あ~ん、頭がこんがらがってきました。。僕らが外の世界と呼んでいるものは他者にとっての「前」がわたしの「後」へとコピペされたもので、それはすでにわたしの「前」ではなくなっているということですね。じゃあ、「わたし」が今前に見ているものとは、それは外の世界ではないとすれば一体何だというのですか?
半田 俗にいう内側の世界さ。藤本さん自身だよ。いつも言ってるよね。「前」が本当の主体なんだって。つまり、「わたし」という精神自体が息づいているところ、それが「前」の正体なんだよね。
藤本 う~ん。。外の世界というのが言葉によって作り出された空間で、それが後の空間であるというのは何となくですが分かりかけてきました。だけど、前がなんで本当のわたしなんでしょう?泣いたり笑ったり、苦しんだりしているこの「わたし」自身のこころは前に存在しているということになるのですか?
半田 うん。たぶんそうだ。前にある。。。
藤本 どうしてそう言えるのですか?
――つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 6 • Tags: タカヒマラ, ユダヤ, ロゴス, 人間型ゲシュタルト, 付帯質, 対談, 言葉