5月 30 2006
Kaisetsu of ODA ウォッチャーズさま
このブログにもよくトラックバックしてくれている不連続的差異論のページにレスを書きました。内容がコンパクトにまとまっているので、とりあえず、プログでも紹介しておきます。
Kaisetsu of ODA ウォッチャーズさま
>ご執筆でお忙しいとき、TBでお邪魔して、少しは気にしています。
とんでもありません。哲学との関連性に関してたくさんの示唆を与えていただいているのは、わたしの方です。おかけで、ヌース理論の思想的位置が極めて明瞭になってきています。改めて不連続的差異論との邂逅に感謝しています。
>とまれ、「オイディプス化」とは、見事な命名ですね。私は、父権制化ないし近代的自我化と見ています。
ドゥルーズも言ってましたが、無意識の構造は地層を持ち、多層化しているように思います。一神教の発明が「オイディプス化」の意ですが、おそらく近代自我の形成は、このオイディプス化におけるヌーメン(神霊)の力が、さらなる下部に独自の生殖領域を作り出すことによって出現してくる第三の無意識回路の生産物ではないかと考えています。ドゥルーズの言葉で言えば、末端性器、つまり資本主義機械ですね。
今のところ、次のような方向性で考えています。
第一機械/原始土地機械………C^2(前後に虚軸/前後のみ二本。理由はよく分からない)
第二機械/専制君主機械………C^3(左右に虚軸)
第三機械/資本主義機械………C^4(上下に虚軸)
これはゲージ対称性の拡張にともなう次元進展に同じですが、ヌース理論では虚軸が持った直交性とは「観察」と考えます。イデアは複素n次元多様体の中でこうした直交変換を重ねていくことによって、無意識の観察の進展を推し進めているのではないかと思います。ペンローズも指摘していたように、おそらく、無意識構造は極めてアルゴリズム的なのではないでしょうか。骨格は極めてシンプルなものになっていると感じます。
C^3の虚軸(視線)は左右から介入してきますが、C^4の虚軸は上下に貫かれるように降りてくることになります。発生論的に言えば、人間にとっての絶対的上下とは、宇宙空間と地球内部の方向に当たりますから、この無意識の視線によって、初めて大地(地球)が球体として対象化されることになります。この視線が近代パラダイムの骨格である地動説を誘因してきたのかもしれません。フーコーのパノプティコンを例に出すまでもなく、近代コギトの中に潜むこの高見の塔に住まう巨人の目は、常に、この上空からの視線を所持しています。しかし、この「帝国」的視線はC^5の登場によってまもなく勢力を無くしていくことになるのではないかと考えています。C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。ドゥルーズ(アルトー)のいう器官なき身体。ここに始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械への再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。
>左右感覚と奥行き感覚の乖離の事象がとても気になります。C^2=メディア界では、乖離せずに、一種未分化的に合一しているわけですが、この空間は、球面として見ていいのでしょうか。ここは、量子論の《空間》です。私は、まだ、量子論の幾何学が明確に描けずにいますが。
はい、おっしゃる通り球面です。4次元空間上の3次元球面S^3になります。C^2で言えば、SU(2)という群です。まさしく、量子論が展開するスピノールの空間です。
>とまれ、ODA ウォッチャーズ氏の指摘にありましたように、虚軸と実軸の対極性が、C^2=メディア界にあり、それが、オイディプス化=現象化によって、奥行きと左右に乖離するという風に考えていいようにも思えるのですが。
はい、C^2上のSU(2)はメディア界そのもののトポロジーになっていると思います。メビウスの帯のように捩じれを持って内部=外部、外部=内部という交通空間を作っていますね。浅田彰さんが「構造と力」でクラインの瓶の比喩で説明していたトポロジーの本質がこれに当たるのではないかと考えています。
>C^2=メディア界の複素平面から現象空間に転化するときに、虚軸(虚軸と実軸の対極性)が、無限から有限になり、単なる前後になると見ていいのでしょうか。
対峙し合う自他の関係性が、○(視野空間)と・(他者の目)の双対(○・○・)から、○○(二つの視野空間の同一化)と・・(二組の目の同一化)へと乖離してしまうということだと思います。このへんは初期ラカンが用いたシェーマLの図式と同じです。これら両者の関係は象徴的同一化と想像的同一化の作用と解釈することができると思います。C^2で顕在化していた純粋強度の場としてのメディア界(これが不連続的差異の場だと思っているのですが……)は、これら両者の間に沈み込み、文字通り、メディア界として無意識の欲望回路となるのだと思います。対象aのことだと思います。黄金比的運動が起こっているところ。
>とまれ、おかげで、私なりに、幾何学化のイメージが出てきました。C^2=メディア界(=メディア平面、内在平面?)は、現象界において、潜在化していて、これが、時間軸と関係していると思います。そして、この時間軸とエネルギーが関係しているのでしょう。相対性理論は、C^2=メディア界をオイディプス化=現象界から定式化していて、また、量子論は、なんとか、それを、相補性等で把捉しようとしていますが、まだ、オイディプス化=現象界のへその緒、つまり、唯物論に囚われていると思います。
はい、わたしも全く同じように考えています。現在のわたしたちの意識は、主体が自他ともに鏡像空間で把握されているために、4次元の方向が反転しているのだろうと思います。上に挙げた群SU(2)はパウリ行列で表現することができますが、4次元目の空間を虚時間itと見立て、このitに(-i)を掛けて実時間tに符号を換えると、SU(2)はローレンツ変換群にかわります。この時間t→虚時間itという変換はウィック変換と呼ばれていますが、おもしろいことに、これはあのホーキングが「無境界仮説」の中で、特異点を解消するために使用したトリッキーな数学的技法でもあります。彼は宇宙の始まりの前には虚時間宇宙があったとして、「無」の問題を解消しようとしました。時空的無の背後に何があるのか——これが実は原始土地機械(顕在化するメディア界)ということなんでしょう。物理学がモノ的イメージから脱却することができれば、新世界は一気に訪れてきそうな気配が漂っています。楽しみです。
7月 14 2006
光万歳!!闇万歳!!
人間の内面と外面という概念は、もともとOCOT情報が最初に伝えてきたものだが、今となって考えれば、これは人間の空間認識を光のカタチに沿って見るための基礎となる概念だったことが分かる。僕らは「光によって」対象を見つめてはいるが、「光となって」対象を見つめたことはない。ここが問題なのだ。光となって対象を見つめるとはどういうことか——おそらく、このことを理解するために、この人間の内面と外面という概念がある、と言っても過言ではないのだろう。
まずは、人間の外面について一言で説明しておこう。それは、僕らにとって「見える」という出来事が起きている空間の片割れのことを意味する。それには二種類あって、一つは、モノの表側で像として見えている部分(ヌースでは「表相」といいます)、もう一つが、モノの背景となっている空間側(ヌースでは「表面」といいます)のことである。モノの認識はこうした図と地の相対的な差異によって可能となっているが、どちらも「見えている」という意味では、同じ種族に属する空間であることが分かる。
さて、対象認識は必ずしもこの二つの相対的な差異だけで成り立っているわけではない。もう一つより大きな双対関係がそこには存在している。それは、見えない部分としての図と地だ。すなわち、モノの裏側と背景空間の裏側。背景空間の裏側とは、ヌースの文脈では、観測者が背後に感じている空間のことでもある。そして、この見えない部分は、当然のことながら、他者にとっては見える部分となっている。こうした自他における内面と外面の双対的配置を、ヌースは内面・外面、内面*・外面*と表記する。
数学的には、モノの表と裏は2次元射影空間が作り出す捻れを持っており、背景空間の表と裏は3次元射影空間としての捩じれを持っている。どちらもメビウスの帯のような内=外、外=内というカタチを持っているということだ。光のカタチとは、まさに、この二層を貫いて走る空間の捻れにある。単なる可視光がグノーシス的な認識の光へと変質するためには、僕らは、光が持つこの内外の捻れに意識的になることが必要であり、その捩じれた光に合わせて事物を見つめ直さなければならない。それは、思惟が光に乗るということでもあり、世界への眼差しが光そのものになるということでもある。そうした眼差しこそが宇宙卵の卵割力となり得るのだ。
さて、光になって初めて気づくこと。。。それは、闇の大切さである。闇は光のシンボル(片割れ)であり、同時に、光は闇のシンボル(片割れ)である。真の倫理は、この光と闇の共存関係の中で築かれるべきなのだ。
君が光を一身に浴びるとき、僕は闇の中に佇み、
君が闇の中に佇むときとき、僕は光を一身に浴びる。
こうした光と闇の双数的関係の中で、それら相互の呼吸を司っているのが、ほんとうの光と呼んでいいものなのかもしれない。光は闇という対比があってこそ、光足り得るのだ。光だけの世界に光は無い。闇だけの世界にも闇はない。その意味で、この光が空間構造として持っている内=外、外=内捻れの構造は、闇と光の勢力が絶えず拮抗する、一種の「薄暮」の領域と言っていいだろう。光でも闇でもない何か。光でも闇でもある何か。言い換えれば、僕でも君でもない何か。僕でも君でもある何か——こういう微細な振動が起こっている場所のことをイマージュの草原と呼んでいいのだろうと思う。そこには確固とした闇と光の対立はない。常に風に吹かれて刻一刻と形を変え流れて行くイマージュの七変化があるだけである。言葉の交換と欲望はそこで生成され、整作され、光と闇の分離、抽出を推し量ろうとする。イマージュから個物へ、そしてまた、個物からイマージュへ。ハイブリッドな振動世界から、光と闇のコントラストを受ける空間へと出たとき、光は結晶化し、客体化的な事物へと至り、一方で、闇は事物を背後で支える空間へと変わるのである。
君や僕という主観存在は、その意味で言えば、そうしたイマージュの風が吹き抜けて行く回廊と言っていい。ただ、問題は、それらそこでの二つの風向きが全く逆に向いているということ。風のぶつかり合いは渦巻きを起こし、このぶつかり合いは、互いのエネルギーを消費させ収束の渦を形成する。そして、そこに、悲しみや、怒りや、嘆きといった魂の苦痛が走る。この回廊をエッシャーが描く絵画以上に、鮮明に、ありありと、見えるもの、感じ取れるものへと変えていくことが肝要だ。そうすれば、互いの風向きを同じ方向へと向かわせる方法論が見えてくる。それらの風は、元の風とぶつかりあって、より豊穣な、黄金螺旋によって拡大して行く生成の渦巻きを作り出すに違いない。こうした新種の風が、ヌースがフォニオの旋風(つむじかぜ)と呼ぶ、創造空間に吹くハルモニアの風なのだ。二つの光と、二つの闇に祝福あれ!!
ってなわけで、人間の外面と内面、そして、外面*と内面*………そこんとこ、ヨロシク!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3 • Tags: イマージュ, グノーシス, メビウス, 内面と外面, 表相