3月 6 2008
太陽と月に背いて(2)
(写真はhttp://blog.nsk.ne.jp/stella/archive/month200504.htmlからお借りしました)
実存の奪回。自分自身の目を見開くこと。ちょっと偉そうなことを言ってるかもしれませんが、このことは必ずしも、他人様に人生の指針を指し示したり、人間がどう生きるべきかを説くなど、宗教的な説教を意味しているわけではありません。そうした立ち位置は僕は基本的に好きではないし、自分の生活態度を振り返っても、人様にそうした提言をできるほど立派な人格者でもないからです。ヌース理論というのは、新しい思考様式を提示するものではあっても、決して人の生き方を説くものなどではないということ、まずはこのことをしっかりと頭に入れておいていただけると助かります。ちょっと誤解を招く言い方になってしまうかもしれませんが、ヌースの思考は社会的現実にはあまり関心がないということです。社会的な現実は現実として社会の中に生きる一個の人間として問題意識を持ち、精一杯、その解決に向けて努力していく。それしかありません。むしろ、一番まずいのは、自分の実存的問題と社会的現実で起きている問題を一緒くたにして、同じ地平で思考してしまうことです。そうした不安定な意識はいとも簡単に政治的なアジテーションに煽動され、社会的現実を思いもよらなかった方向へと向かわせる力になってしまうこともあります。20世紀に起きた2度の大きな戦争もそうした意識の在り方が招いた予想外の惨劇だったと言えないこともありません。
事実、ヌース理論の構築の母胎となったオコツト情報にも、「善を行なえ」だとか「愛が大事である」などといった説教じみた内容は一切ありませんでした。もちろん、ヌース理論が目的とするトランスフォーマー型ゲシュタルトの習得というのは、結果として個々の心情の中に倫理的なものを呼び起こす力を持っているとは感じてはいますが、しかし、そうした内容の方が強調され、メインとなって伝えられていくことには僕自身、とても抵抗があります。というのも、道徳的なものや倫理的なものを求めようとする衝動もまた、人間型ゲシュタルトの範疇ではないかと考えているからです。
ヌース理論が提唱する高次元の思考様式にはおそらく「善」や「愛」といった概念は存在しないのではないかと思います。理由は簡単です。光になると光が見えないように、僕ら自身の意識が愛や倫理の源泉力そのものに変身してしまえば、愛や倫理など存在のしようがないからです。ですから愛の実現の出来事は決して感情的なものとしてはやってこないだろうということが言えます。それはむしろ淡々とした知的作業として進められて行くのではないか。僕の個人的な感覚から言わせていただければ、そちらの方がはるかに健全な愛の達成の在り方のような気がします。今までは決して出会うことができなかった自他それぞれの意識が、一度だけ奇跡的に統合される場所——オコツト情報によれば、それが「シリウス」という場所です。
此岸にプレアデス=我があり、彼岸にオリオン=汝があるとして、果たしてその二つを分け隔てている中間地帯であるシリウスとは一体どのような場所のことをいうのか――にわかには受け入れ難い内容かもしれませんが、それは「モノ」である、というのが目下のところのヌース理論の考え方です。
しかし、このシリウスとしての「モノ」は僕らが普通接している「モノ」とはかなり違った存在です。僕らが日常の中で「モノ」と呼んでいるのは、「見ているわたし」と「見られているモノ」が分離したところに存在しているモノです。普通、こうした「モノ」たちは対象や客体と呼ばれており、それを見ている「わたし」とは独立した存在として、「わたし」の外部にあると考えられています。しかし、「わたし」の外部にモノが存在しているのだとすれば、モノの世界は人間の感覚器官とは何ら無関係に正体不明の存在物として漂っていることになり、そこから、人間の感覚機構が拾って来たものだけが、人間に「モノ」として知覚されているということになります。とすれば、人間の知覚に上がってくる以前のモノそのものの世界については、結局のところ、人間には永久に分かり得ないということになってしまいます。つまり、モノそのものの存在自体は超越的なものであるという結論が出てきてしまうわけです。こうした超越者としてのモノのことを哲学者たちは「モノ自体」と呼んできました。
ヌース理論がシリウスと呼んでいるのは、実はこのモノ自体の世界のことを言っています。プレアデス、シリウス、オリオンという宇宙の三位一体構造とは、言い換えれば、「わたし」-「モノ自体」-「あなた」という三位一体構造のことでもあるというわけです。このことは、言い換えれば、モノ自体の秘密を解かなければ、「わたし」が「あなた」の下にたどり着くことなど到底不可能だということを意味しています。スピリチュアルな世界ではいつも感性重視で愛の思想を説いていますが、もし、真の意味での愛の成就があるとするならば、それはモノの中で、モノとして達成される必要があるのではないか、というのがヌース理論からの提言なのです。
5月 2 2008
時間と別れるための50の方法(8)
視野空間を「面」として見る——このことは決して視野空間を2次元の平面として見るという意味ではないので気をつけて下さい。視野空間と云えども、そこには奥行き方向も含まれているわけですから、ここでOCOTのいう「面」とはあくまでも3次元空間のことになります(正確には3次元空間内の一つの方向が一点同一視され面のようなものへと変換された「2次元射影空間」というカタチです)。このことは、こうした「面」を見ることにおいて、その観察の視線は一つ上位の次元に存在しているはずですから、この「面」への観察が行われている空間が4次元空間であることを示唆しています。
普段、僕らは空間を3次元と考えているので、世界に対して視線が入射してくる方向を、視野に映っている面をx-y平面と考えれば、それに直交するz方向として考えがちです。しかし、このような思考は自分の位置をすでに3次元空間上の点のようなものとして想像してしまっていることによって生まれてきています。つまり、前々回、前回と詳しくお話ししたように、モノの手前側に自身の目玉や頭部を想像的に位置づけて、そこに「世界を見てるとする自分」の位置を思い措き、その鏡像とも言っていい位置に3次元的方向を見出し、概念化しているのです。ですから、本来の実像としての自分、つまり、「前」=知覚正面自体は、この3次元性の中には存在していません。
ホントウノ、ワタシ、トハ、モノソノモノ、ノコト、デハナカッタ、ノカ?
デハ、モノハ、ナゼ、ワタシヲ、モノノ、ガイブニ、オイヤル、ヒツヨウガ、アッタ、ノカ?
言うまでもなく、モノそのものはモノを見ることはできません。モノがモノを見るためには、モノではないもの、つまり、モノをモノとして対象化できる外部を作り出す必要があります。そして、モノを対象化する外部を作るためには、モノ自体をその外部へと逸脱させるための能動力と、その反映として現れる受動力の二つの方向性が必要になります。もちろん、ここでいう受動力の方が鏡像としての「わたし」です。なぜなら、その「わたし」はモノの由来を知らないからてす。その「わたし」は、ただ、モノを受け取るしか能がない。生まれて気がついたらモノが目の前にあった。
しかし、他方の能動力の方はモノの由来をある程度は知っています。知っているからこそ、モノ自体の世界さえをも乗り越えて彼岸に渡ろうとしたわけです。その意味で、この能動力は此岸にいる「わたし」には決して触れることのできないもの、つまり、他者となっているのです。本来、世界そのものであったわたし。そこに鏡としての他者がすでに配置されており、その中に、人間としてのわたしが産み落とされる。そして、わたしはその鏡像に同一化し、わたし本来の「前」を喪失し、今度は他者の後ろを持ち込む。。光速度という名のわたしの皮膚はそのでっち上げの偽の「前」方向への視線によって突き破られ、主体であったモノは客体としてのモノのように振る舞うようになる。要は、他者という名の鏡と自己という名の鏡像が能動と受動の関係を作っているということです。
こうして、「あなた」という存在、つまり他者は、「わたし」にとって、モノから常に超出した、モノの彼方にいる者として存在し、一方の「わたし」、つまり自己はモノから常に疎外され、未だモノに成りきれぬ者として、モノの手前に存在させられているわけです。以前、お話したように、これら三者はオリオン(真実の人間)、シリウス(ヒト)、プレアデス(人間)の関係にあります。
モノジタイ、デアルコト、ハ、ラクエン、デ、アッタ。
アダム、ト、イブ、ハ、ナゼ、ラクエン、カラ、オイダサレナケレバ、ナラナカッタ、ノカ?
モノからのこの相異なる二つの方向への相補的分離の様子は「人神/アドバンスト・エディション」の380頁で紹介した交合円錐のモデル(図9/向かい合う他者の視野空間と交合円錐)を使うと比較的簡単にイメージすることができます。
この交合円錐モデルでは、自他の視野空間と瞳孔の関係を互いに交差する二つの円錐の底面と頂点の捻れの関係で表しました。このとき、自他の視野空間をモノから超出した力、自他の瞳孔をモノから疎外された力と考えてみるのです。というのも、瞳孔とはわたしたちが普段、3次元空間内で自分の位置と考えている場所のことであり、その瞳孔に対する認識は、上にも示したように、他者の視野空間に支えられて初めて出現することができるものだからです。——まだまだ続きますよ。
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 4 • Tags: オリオン, プレアデス, 人類が神を見る日