4月 10 2005
スピノザ効果
今日は、昼近くに起きた。外は昨日と打って変わって雨模様。花見の予定を組んでいた人たちには残酷な天気である。近くのY電機からバソコン用の部品を買ってきたあと、スピノザの『エチカ』を書棚から取り出し、久しぶりに読書の時間を持った。
しかし、日曜日の午後に何でまた『エチカ』なんぞ古めかしい哲学書をほじくり出してきたのか——。それは、最近、ヌース理論会議室の方に顔を出されたgnuさんという方の一言がなかなか頭から離れなかったからである。曰く——ヌース理論は数学に幻惑されている。。。
ヌース理論に使われている数学的定式化が曖昧だ、とか、間違っているという批判であれば、今までも何度かはあったし、こちらもそれらの批判が正当であると感じれば、素直に訂正すればよいだけの話だった。しかし、今回のgnuさんの意見は視点が全く別のところにある。だからこそ、少し気になっていたのだ。会議室の方でのgnuさんとわたしのやりとりを読めばすぐに分かるが、この方はかなり数学ができる方だ。ただ、その割に、こgnuさんご自身は数学をあまり信頼していない様子である。このご時世、医者が医学を余り信じていないというのならまだ話は分かるが、数学者が数学の神を信じていない(少なくともそうした印象を受けた)、というのは結構、意外であった。
さて、ヌース理論は果たして数学に幻惑されているか否か?——ケイブコンパス当たりの解説に、たどたどしい群論や高次元トポロジーの用語が多用されてくるのは事実だが、しかし、それらの記号表現や論理構成に特別の魅力を感じているからというわけではない。ヌース理論に登場してくる「人間の内面」「人間の外面」と言った概念があまりに、群論や高次元トポロジーの世界と相性が良すぎるから、ただそれだけのことである。翻って、このことは、ヌース理論に登場する観察子という概念が、高次元トポロジーの諸概念に唯一実体概念(意味)を付与できる思考体系であることを暗示している。数学者たちが首をひねっている高次元空間にはれっきとした意味があるのだ。わたしの場合、こうした信仰の後押しをしてくれているのがスピノザ、その人なのである。スピノザはデカルトと同時期に活躍した孤高の哲学者である。ヌース理論が「幾何学とは一つの倫理学でなければならない」といつも言ってるのは、このスピノザがしたためた一冊の書物「エチカ」の影響なのだ。
スピノザは人間の認識には三種類のタイプがあると考えた。第一種は「想像知」(imaginatio)で、これは通常の感覚的認識を意味する。第二種は「理性」(ratio)で概念的認識である。第三種は「直観知」(scientia intuitiva)と呼ばれ、これは、概念的認識から、さらにその原因の認識へと進むのだ。言うなれば、認識の認識である。そして、この認識の認識において人間の知性は改善され、真に能動的な神的知性が誕生すると考えたのである。彼にとって、神との合一を果たすこの知性こそが幾何学が持つ本質的精神なのであった………。
果たして数学や物理学抜きで、精神と物質の間に横たわる黄金の環の姿を知性に再現しうるのか——それはやはり難しいだろう。このために、必要なのは新しい数学というよりも、数学に対する新しい解釈である。認識を認識するためのあの第三種の認識に深く関わる幾何学は、すでに既存の数学の中に網羅されていることをヌース理論は直感している。いくぜ、スピノザ!!
5月 9 2005
60億総Poserの時代
一昨日あたりから、この間購入したPoser6(ポーザー・シックス)を本格的に使い始めた。もちろん、テキストに導入するイラストや、ネット上でのアニメーションコンテンツの作成のためである。ソフトに詳しくない人たちのために言っておくと、Poser 6とは人体3D作図専用の最新版ソフトのようなものだ。おそらく、3Dアニメーションで人体が登場する部分はほとんどこのPoserシリーズで作られているのではなかろうか。それくらい人気の高い代表的なソフトと言っていい。
まだ、触り始めたばかりなので何とも言えないが、最近のPoserは各関節部の動きが連動するように作られているようだ。かなり昔にPoserの古いバージョンを触ったことがあったのだが、そのときはまだ諸関節の動きの連携はこれほど巧みにプログラムに組み込まれていなかった。そのため、例えば、足首や膝、股関節といった三カ所のジョイントはそれぞれ独立して自由に動かすことができ、初心者がいじくっていると、複雑骨折したかのような不自然なポーズがすぐにできてしまう。一度、関節がグニャグニャになってしまうと元に戻すのがもう大変。そのために即ギブアップした記憶がある。しかし、現在のバージョンは、親切にもそうした不自然な関節の動きの連携を許さないように初期設定されているようだ。例えば、歩行のポーズを作るときに右足を出せば自然に左手が前に出てくる。けんけんのポーズを作るときに右膝を軽く曲げ左足を上げれば、右肩が落ち体全体は若干右に傾く。そういう姿勢に自然になってくれる。その意味では大変、使い勝手がいい。しかし、このプログラミングは、裏を返せば、不自然な関節の連携は禁止する、というおふれ書きに取れないこともない。このソフトではUSAの陸上選手のような走りのポーズはすぐに作れるだろうが、ナンバ走りをする江戸時代の飛脚を表現するにはかなり面倒な操作が必要となるだろう。
世界観と身体観は同期して変遷する——。近代的な物質的世界観の中では身体観もまた物質的な枠に閉じこもってしまった。いわゆる3次元認識のクセに沿って、三次元の物質的身体感覚が養成され続けているのだ。このPoserはまさに、そうした身体イメージの総仕上げのように感じる。実際にPoserを触っていて感じるのは、身体にこういった動き以外はあり得ない、否、あってはいけない、という統制である。実際に使っていて言うのも何だが、フーコー風に言えば、身体を機械として管理する眼差しをより一層強化させるツールであることに間違いない。
そろそろ身体を物質概念から解放してやってはどうか。ヌース理論の考え方では、(人間の外面という意味で)身体と身体の周りの空間は区別することができない。見えている風景そのものが皮膚なのだ、という言い方をするのもそのためだ。とすれば、毎日のように繰り返される他者との情念の交流は身体の生理作用と直結していると言えるし、モノを見て何を感じそこから何を表象しているか、といった思考作用でさえも、身体の代謝機能と別物ではない。いうなれば、わたしは、常に、身体とともに、身体の内部で生きているのである。自身の身体を物質のように見る眼差しは真のリアルから逸脱したナルシス的自我=水子の目によるもの以外の何ものでもない。自分を外部から見るのではなく、内部から見ること——内側から見た身体とは世界そのものなのだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: フーコー, 内面と外面