4月 24 2005
ばっちゃまとじっちゃま
日曜日の午前。トーストとヨーグルトの軽い朝食をすませ、大リーグ中継を見てのんびりしていると、突然電話が入った。今年83才になるオフクロからである。
「ひろちゃんね、今日は天気がよかろ?お父さんと一緒にドライブに連れていっちゃらんね。」
「えー、今からね。なんで急に言うとね。こっちだっちゃ、いろいろ予定があるとよ………」
どうやら、ドライブに行きたいらしい。やれやれ。今日は午後からゆっくりアカデメイアのコンテンツの制作をしようと思っていたのに。。
自分で言うのも何だが、わたしのオフクロはかなり強烈なキャラを持ったばっちゃまである。たぶん本能のみで生きている。理性はない。ドライブに行きたくなったらドライブに行く。もちろん、自分では運転ができない。じっちゃまと一緒にタクシーで出かければいいものの、タクシー代がもったいない。どこかにタダで連れて行ってくれる人間はいないものか。いる、いる。ちょうど近くに優しい優しい孝行息子が住んでいる。息子のことだから、日曜日は家でボーッとしているに違いない。それであればわたしとじっちゃまをドライブに連れて行く義務がある。連れて行かないとあんたは本当に親不孝な子供ばい。。これが、ばっちゃまのロジックである。この一方的なロジックには腹が立つのが当たり前の話だが、このばっちゃま、なぜか、腹を立てるとこっちが負けのような気にさせてしまうキャラなのである。一種の妖婆と言っていい。
しょーがない。今月は食事にも連れていってあげていないので、ドライブぐらい一緒してやるか(ほらね)。。ということで、午後からばっちゃま(83歳)とじっちゃま(86歳)を連れてサンデーアフタヌーン・ドライブに出かけた。明るいうちに帰ってきたかったので、とりあえずは近場の油山というところに出発。あまりに天気が良かったので、「よかドライブ日和やねぇ~」と声をかけると、二人ともすでに口を開けて寝ている。おい、まだ、出発して10分しか経っとらんやないか。。しゃーない、年寄りやもんな。目的地に着いたので起こすと、今度は山の風景を見るなり
「山は暑かね。ひろちゃん、海に行かんね。」
って、おい、今、来たばかりじゃねぇーか!と喉まで出かかったが、グッとこらえて、
「なーんだ、海がよかったんだ。じゃあ、百道浜にでも行こうか。」
と、内心引きつりながら再出発。しかし、足は確実に怒っている。アクセルを吹かす右足が微妙に荒れているのが分かる。
「ひろちゃん、運転が荒かよ。。。」
「くぅー………。」
わたしの気持ちなど、ばっちゃまとじっちゃまは全く察する気配もない。もっとスピード上げてやれ。と、ばっちゃまの方を見ると、又、口を開けて寝ている。
「くぅー………。」
ほんとにたくましいご老人たちだ。わたしは本当にこの人たちの遺伝子を受け継ぐ息子なのだろうか。それを考えると茫然自失となる。。。
さて、海に着くなり、ばっちゃま起きて曰く、
「アイスクリームが食べたかね。」
ここでキレたら、ヌーススピリッツを販売している会社の社長として面目丸つぶれ。耐えるしかないのだ。耐えるしか。
「そこに、おいしいブルーシールのアイスクリームが売っとるよ。買ってきちゃるけん、待っとかんね。」
「ストロベリーがよか。」
「はい、はい、ストロベリーね。」
「小銭もっとらんよ。」
「はい、はい、わたしがおごりますよ。」
バーロー。
傍らで、よく事情が分かっていないじっちゃまがニコニコ笑っている。実はじっちゃまの方は、もうかなりボケが進んでる。数年前まではかなり怒りっぽかったが、最近は終始ニコニコえびす顔。何を言っても怒らない………というか、もう耳が聞こえていない。それに引き換え、ばっちゃまの方はすごい地獄耳。記憶力もわたしなどより数段いい。今年26歳になる孫娘と街に出かけてはブランド品を物色するエネルギーを持ち合わせている。そのばっちゃま、どうも、最近、カプチーノを飲み覚えたらしい。今日も、海からの帰り、最後にカプチーノを飲みたいと言ってきかない。困った。カプチーノを飲むためには市街地の方に出ないと店がない。しかし、市街地に入ると車は混んでるので帰りの時間が遅くなる。ここは何とかばっちゃまをだまくらかさなくてはいけない。
そこで、提案した。
「うちの近くのオランダ屋敷まで行こう。あそこにはカプチーノはないけど、ウィンナコーヒーがあるよ。」
「ウィンナちゃ、どげなのね?」
「カプチーノに似とうよ。」
「ほんとね?似とうなら、そっちでよかよ。」
果たして、カプチーノとウィンナコーヒーは似ているのか?それはばっちゃまの本能が決めてくれるはずだ。これはカプチーノじゃなか、と言い出せば、今日のドライブはすべてがオジャンになる。彼女の記憶から今日という日は抹殺される。それくらい機嫌が悪くなるのだ。ばっちゃま、万歳。ハイル、ばっちゃま。ばっちゃま、永遠なれ。。。。。
「ひろちゃん、このコーヒーおいしかよ。カプチーノと似とうね。」
「そうやろ。」
傍では、じっちゃまが、コーヒーに角砂糖を10個ぐらい入れて、ニコニコしている。ふー、今日はしっかりと親孝行ができた一日となった。二人とも長生きしてくれよ。
4月 26 2005
視野空間
いつもが不真面目というわけではないが、たまには真面目なヌース話を書くべぇーか。現在、アカデメイアコンテンツのNC assembleというページの内容を制作中である。これは、最新の次元観察子ψ1〜ψ8の描像を何とか分かりやすくヌーシストたちに伝えようと、イラストをふんだんに盛り込んだ解説ツアーになる予定だ。
まぁ、いろいろとアイデアを練ってはいるのだが、やはりヌースの空間認識をイメージ豊かに他者に伝えるのは難しい。それもこれも視野空間というものが実に得体の知れない対象だからだ。
視野空間(知覚正面)とは全く持って奇妙な空間である。科学的に見れば、視野空間は網膜に映った外界の風景像と見なせよう。しかし、そんな説明はヌース理論の見地からすれば全くの妄想、子供だましにほかならない。いゃ、もっと言っていい。トンデモである。網膜や眼球といった身体的な部分対象は、自らを他者化させて見る眼差しによって初めて存在し得るものだ。ちょうど主体が主体自身を名指すことができないように、主体の目は主体の目を直接見ることなどできない。わたしに目があるという言明は、他者の目を通じてしか行えない。つまり、主体は他者となって、自分にも目があると思い込んでいるだけなのだ。そこまで言っていい?言っていい。その思い込みの延長線上に網膜や水晶体といった観念が作り出される。だいたい科学が行っている説明はこうした他者の眼差しに晒された小賢しい小道具によって事態を解説しているだけである。だから、科学的思考では主体に触れることはできない。主体に触れるということができないということは、われわれの生の現実に触れていないということである。
さて、もし、主体が自分に目があるなんてバカな思い込みをしなければ、つまり、オレには目なんてないよーん、オレには顔なんてないもーん、オレには首なんてないのよーん、と思い切って英断すれば、主体とは視野空間そのものであったということが、すぐに判明するのだ。いや、もとい、視野空間という言葉も目を前提としているので、もっと別のいい方をしなくてはならない。あー、つまり、現象そのものが主体なのだ。まぁ、こんなことは20世紀の現象学が言い出したことで、いまさら新しくも何ともないのだが。。。
ヌース理論が取り組んでいる問題の一つは、現象そのものの位置で凍り付いてしまっている現象学を、何とか解凍させて光の種子を精製させようということ。現象学は、現象(自己性)と現象(他者性)の鏡合わせの拘泥の中から一歩も抜け出せていないばかりか、下手すると、現象として立ち現れた主体の不気味さ、無底さの中へと飲み込まれようとしている。ここに思い切って幾何学のクラルテを流し込み、水の鏡地獄から、もつれた魂の運動をサルベージしようというものである。
視野空間とは、生と死を隔てる膜である。この膜を破って膜の向こうに入れば、そこには視野空間を点のように扱う内面世界が広がっている。宇宙が自らの屈折レンズを使って、極大なものを極小の中に移し込むのだ。しかし、移し込まれた極小はそのことに気づかない。こうして極大を孕みつつ極小として生きる点が人間と呼ばれる存在なのだ。
君はポツンと宇宙の片隅に生きていると思ってる。でも、そうじゃない。——ほら、空を見上げてごらん。その空が本当の君なんだ。空が君であっちゃいけないという理由はどこにもない。だから、大声で叫ぼう。オレは空だ、って。。。。ヌースはみんなが空になれると本当に信じてる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2