5月 4 2005
JムービーはJブービーか。
今年のゴールデンウィークは久々に自宅でくつろいで、ヌースとDVD三昧。何と1日にDVDを2作づつのペースで鑑賞してしまっている。レンタルビデオ屋というのは一度通いだすと止まらなくなってしまうのだが、この惰性的反復を止めるには駄作を続けざまに借りればいい。わたしの場合、そろそろ打ち止めだなっと思ったら、邦画をレンタルすることにしている。今回借りた日本映画は「デビルマン」と「血と骨」という二本の作品だったが。。。わたしの期待通り、またやってくれました日本映画。これでしばらくはDVDを借りたくなくなる。ありがとう日本映画。。。
さて、まず最初に「血と骨」という作品だが、この作品は日本アカデミー賞をはじめとする去年の国内の映画賞のほとんどを総ナメにした作品ということで少しは期待していたのだが、予想通りひどい映画だった。のっけから「ゴッドファザー・Part2」のあまりにも安っぽいパクリ。そして、ラストは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のこれまたチープなパクリ。バクりが悪いというわけではない。どうせパクるのであれば、一度完コピしてからにしてほしい。表面的で安易なパクリは製作者の姿勢が見えて、それだけで、興ざめしてしまう。音楽、演出、カメラ、どれをとっても、賞を受賞した作品にしてはひどすぎる。この映画の場合、確かに予算面の問題もあるだろう。戦前から戦後にかけての昭和のリアルを装っているセットがまるで横浜のラーメン博物館みたいだ。どうにかならないものかこの美術センスは。主演のたけしの演技はすごみがあったが、裏を返せば、この作品からたけしを取ったら何も残らない。にもかかわらず、監督賞、作品賞、主演女優賞、助演男優賞、女優賞、脚本賞………ってほんまかいな、という感じである。★★。
さて、次の「デビルマン」だが、こちらはついに前人未到の境地へと達してしまった。東映バンザイ。東映バンザイ。東映バンザイ。とみんなで三度叫ぼう。東映は、かつて「北京原人」という大傑作を生んだが、この「デビルマン」はそれを軽く超えてしまったのではないか。まだ、21世紀も始まってまもないが、間違いなく21世紀の映画史上サイテーの作品として映画史にその名を残すだろう。もとい、20世紀中に劇場用映画として作られた作品を合わせてもこれにかなう作品はないかもしれない。あの「死霊の盆踊り」より、はたまたあの「シベリア超特急」より、この作品が背負った恥の強度は凄まじい。どこかのサイトに「絶対悪というものがあるということをこの映画は証明した」といった映画評があったが、それは決して大げさではない。見れば分かる。これに比べれば「キャシャーン」は何と輝いていることか。それにしても作品の中でニコニコ顔で出演していた永井豪は自分の最高傑作がここまで辱めを受けて悔しくはないのだろうか。わたしだったら、間違いなく東映並びに製作者全員を告訴するだろう。点のつけようのない作品だが、5段階評価としては★。
しかし、真の問題は「デビルマン」のデキの酷さにあるのではない。深刻なのは、2004年の国内の映画賞を総ナメにした「血と骨」、そして日本映画史上かつてない駄作と評判の「デビルマン」、この両作品が映画の質としてはそれほど大した差がない、という歴然とした事実である。この事実が持つ空恐ろしさこそが現在の日本映画界、ひいては、日本のカルチャー界全般が持った危機の本質なのではあるまいか。
もし、映画が総合サブカルとしてその時代の精神状況というものを反映しているジャンルであるとするならば、現在の日本映画全体が放っているオーラの色が今現在の日本人の精神的実状であるということをわたしたちは認めなくてはならない。レンタルビデオ屋に行って、邦画のコーナーの前に立ってみるといい。そこには何とも言えないグロテスクな波動が満ちている。別にホラーものが流行っているという理由からではない。SFもの、青春グラフティーもの、コメディーもの、社会派もの、ヤクザもの、etc………すべての作品がおしなべて不純で安易に見えるのはわたしの思い込みか。マーケットをなめている。プロ野球と同じで、これも豊かすぎる社会が生み出した余剰な脂肪分というところか。。。
日本人は技術的なものよりも、感性的なものを重んじるというが、そんな一人よがりの夢想などは今すぐに捨て去るべきだ。技術なきところに感性なし。ハリウッドを真似た韓国に倣う必要はないが、まずは、映画のイロハをしっかりと学んだ映画人を要請する場を作るべきだ。感性を云々するのはそれからだ。
5月 5 2005
骨が折れる4次元の解説
ヌース理論はわたし自身の中では日々パワーアップしていってる。だけど、他者に伝えられなくては単なる自己満足の域を出ない。現在、テキスト用に整理していってるのはNC assemble line(エヌシー・アセンブル・ライン)というやつで、これは四次元空間を具体的に理解していくための手順プロセスのようなものである。NCというのは全体が完成すると4次元球面というカタチになるのだが、4次元球面のカタチをイメージできるようにするためにはどのような思考方法を用いればよいのか、それらをいろいろと試行錯誤しながら現在まとめているところだ。
4次元空間さえおぼつかないのに、4次元球面なんてどうやってイメージするのか、と思っている人がほとんどだと思う。しかし、4次元空間を描像することは難しいことではない。みんな4次元を難しく考えすぎているだけなのだ。4次元を理解するためには観察という要素を加味すればいい。ヌース理論では「次元が上がる」というのは「観察する」とほぼ同じ意味なのだ。
「光の箱船」にも書いたように、たとえば、1次元は2次元方向から観察される。続いて、2次元は3次元方向から観察される。ならば、それと同じように、3次元は4次元方向から観察されているのではないか。。。ただ、それだけのこと。だから、対象の位置の概念が形作られる空間が三次元空間だとするならば、それを観測している者がいる場所は3次元ではなく4次元だということになる。わたしは今、博多にいるけれど、この博多にいるということを知っている私自身は四次元にいる、単にそういうことだ。じゃぁ、この四次元ってもっと具体的に言うとどういう世界なのか——ここでふくよかなイメージを無数に提出すればするほど、四次元知覚の機能はアップしてくる。このイメージを送り出すのがヌースの言い出しっぺであるわたしの仕事だ。
たとえば、あらゆる位置から一つのリンゴを見てる意識があると仮定してみよう。そのような意識で見られているリンゴは普通、客観的なもの、と呼ばれる。じゃあその客観は三次元世界の産物かというと、そうではない。主観の観察でさえ4次元にあるわけだから、客観がもっと上の次元だというのは当然、予想がつく。客観というのは三次元立体としての一つのリンゴを同時に様々な方向(他者)から見れるものなのだ。そうした客観化を作り出す意識を客観意識と呼んでもいいし集合意識と呼んでもいい。とにかく、そういった意識の存在を想像してみよう。そうすると、すぐに分かるのは、こうした意識が時間を超えているということだ。時間を超えるということを空間的に表現すると、瞬間的に別の場所に移動ができる、ということでもある。つまり、「時間よ止まれ」と言って、世界の時計をいったん止めて、その止まった時間の中で動く事ができて初めて他者の立場に立ってリンゴを見ることができる。
しかし、4次元連続体としての時空は、時空一体であるので時間が止まれば空間も凍りつく。だから、ここで動ける空間というのは四次元時空に含まれる三次元成分としての空間領域ではない。それは三次元には含まれない空間だから、ここに四次元空間が初めて顔を出すという筋書きになる。この第4の空間次元の描像を初めて明快な映像で示してくれたのが映画「マトリックス」だった。バレットタイムの中で時間は止まるが撮影しているカメラは動いている(ウォシャウスキー兄弟が実際には無数のカメラを並べて撮影していたことを思い出そう)。このカメラの動きが展開している空間とは現実的には何の空間だったのか——それが空間内に配位された他者の視点だということだ。他者の視点を全部共有するというところに、客観意識、または集合意識の最も分かりやすい表現がある。こうした意識から見た風景はあらゆる視点を持っているので当然、不変だ。それこそ、その不変性が数学的に四次元対称性と呼ばれている概念に対応する。つまり、生きている人間のいる位置は想起、持続、記憶を含んでいるという意味で三次元空間上の位置ではなく、四次元空間上に組み込まれた位置なわけである。世界を見る視点をいろいろと変えるというのは、その意味で四次元空間上の回転になる。それが時間に現れればSO(1.3)で、空間に現れればSO(4)である——。物理学も、そろそろ観察や他者の視点といった概念をより積極的に考慮してはどうか。そうすれば物質と意識を結びつける理論へと駒を進めることができるはずだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 6