3月 1 2005
ヌース理論のナンパ術
今日は会社で昨日の広告制作の仕上げをしたあと、自宅に戻って図面書き。
なんの図面かというと、新しいヌース加工装置のコア部分の設計図面だ。
コア部分は特殊なコイルで作る予定なのだが、いかんせん、そのコイルを巻くフレームが一般の電気部品屋にはない。
それで、専門の加工業者に頼んで作ってもらう必要があるのだ。
試作を繰り返すものだからお金もかかる。だから、普段はズボラなわたしも、このときばかりはマジになる。
ヌース理論は今のところ精神世界の辺境にある一大トンデモ理論のように思われているが、
実は新種のテクノロジーを生み出す技術理論に大化けするポテンシャルを持っている。
つまり、高次元テクノロジーの体系を作り出すことができる理論なのだ。
いまだそのへんの詳細は一切、外部には公表していない。
しかし、そろそろ、そうも言っていられなくなりそう。。。
世に波動グッズの類いは山とあるが、
おそらく、ヌース理論のようなアプローチで波動技術を考えている研究者はあまりいないだろう。
精神世界で言われているところの「波動」とは何か——
それは「歪みを持たない素粒子」のことである。
歪みを持たない素粒子とは何か——
それは、重力の支配を免れているイデア(強度的空間の構成秩序)のことである。
素粒子を文字通りミクロの粒に見てしまうと、「それ」は歪む。
このことは重力によって波動関数が崩壊するという内容に等しい。
「それ」の歪みを消すためには、見ている者自身が波動関数にならなくてはならない。
つまり、古典的粒子が量子力学においては量子化されなければならないように、
古典的観察概念にも同様の改変を施す必要があるのだ。
世界と世界観察は並行存在なのである。
そこに他者存在を鏡として持ち込めば、量子、意識間のブリッジが一丁でき上がり。
わたしがモノを見る、とはどういうことか。
わたしによってモノが見られる、とはどういうことか。
あなたがモノを見る、とはどういうことか。
あなたによってモノが見られる、とはどういうことか。
そして、そもそも、モノとは何か。
そうした発想を持って空間を追跡していけば、量子のナゾは解けていく。
見ている者自身が素粒子に変身したとき、彼は重力の関与が及ばない草原へと出ることだろう。
ドゥルーズのいう内在平面だ。。
わたしはプラトンの言葉をもじって、それを「コーラホール」と呼んでいる。
世界内部空間として穿たれた洞窟。
しかし、この洞窟は無窮の広がりを持っている。
いまだ、誰も、分け入ったことのない永遠なる処女の泉。
その泉の向こうには万物を生み出したあの十全なる子宮空間=海が広がっているのだ。
このコーラホールの内部に奥深く侵入して、
物質に錬金術的変容を与えるためには、
何を隠そう電子とトポロジーが重要なカギを握っている。
こやつらを利用しない手はない。
所詮、力の源泉はただ一つ。
月に隠された、もの言わぬ女のハルモニアなのである。
ゲット、一発。も〜らい。
そんな卑猥かつ誇大な妄想を持って、わたしは今夜も図面の線を引く。
3月 2 2005
病気が人間を作っている
日記だけは書いておこう………。
今年に入って少し張り切りすぎたのかもしれない。今朝は(と言っても午前11時頃なのだが)、左下腹部に走る激痛で目が覚めた。起きたときは背中がすでに鉄板のように固くなっていて、痛みのために真っすぐ立って歩くことができなかった。何だこりゃ?こんな痛みの感覚は初めてやんけ。インフルエンザウイルスが胃にでも侵入したとかいな?今年は確か消化器系にくるとか何とか言っとっばい?とかなんとか考えながら、会社でやり残していることがあったので、ヌースグッズを体に当て無理を押して家を出た。普通であれば、これで楽になって一件落着となるところなのだが、どうやっても痛みが治まらず七転八倒が続く。このまま激痛の中でもがき続けるのも一興だが、やっぱり時間が無駄になる。最近はとても素直になったなぁ、というか、諦めがいいのだ。病院に行くか。。。しかし、いずれにしろ、わたしは滅多なことでは病院には行かない人間。それだけ、今日の体の変調をヤバく感じたということなのだろう。
会社の人間には知られないように、こっそりと車でT医院という近くの病院に向かった。何しろ、意識までもが激痛で歪んでいるため、かなり危険な運転だったが、どうにかこうにか無事にたどり着く。そして、そのまま倒れ込むように受付ロビーへ、ヘッドスライディング。急患扱いで診察を受けることができた。
実は、わたしには4年前に一ヶ月ほど入院生活を送り、それまで20年間つき合っていた十二指腸潰瘍とオサラバした過去がある。最近の不摂生でそれが再発したのかもしれない。しかし、いきなり、こんな酷い痛みで再発するものなのだろうか。筋肉注射を打ち、胃酸を押さえる薬を点滴してもらい、軽い睡眠薬で夕方まで眠らされた。結果、だいぶん症状も落ち着いた。しかし激痛の原因はまだ分からない。土曜日に精密検査を受けてくれとのこと。ふー。全くさんざんな一日だったぜ。
人間である限り、病気の苦しみとつきあって生きていかなくてはならない。
「人間が病気にかかるのではなく、病気が人間を作っている。」
これは、OCTO(オコツト)の名言だろうと思う。
人間の身体とは宇宙を創造した「観察精神」の物質的投影である、というのがヌース理論の見解だ。
ここでは、創造を贈与する力(定質)と、創造を受容する力(性質)の間で存在論的な力の拮抗が起こっている。
贈与する者の方の力は、人間を物質世界の中へと引き入れ、その王国を管理するように命じる。一方、受容する者の力は、その命令から逃れ、あるがまま、存在するがまま、欲望の流れに沿って生きていきなさいと後押しする。現実原則と快感原則。超自我の命令とエスの反発。こうした対立する二つの意識の流れの中に自我は放り込まれて、常に苦しみ続ける。天界もまた調和を失っているのだ。神も病気なのである。そして、この神の病の影が人間という存在となって出現している。そして、人間においては、その病は”身体の病気”という形で現れる。とどのつまりが「人間が病気にかかるのではなく、病気が人間を作っている。」となるわけだ。
世界中から、全ての病気をなくすこと。それがヌース理論の見果てぬ夢でもあるのだが・・・
偉そうなこと言ってないで、その前に、土曜日の精密検査に行ってこんかい。ばか息子が。。。。(;;)あい。
By kohsen • 10_その他 • 2 • Tags: OCOT情報