3月 2 2005
病気が人間を作っている
日記だけは書いておこう………。
今年に入って少し張り切りすぎたのかもしれない。今朝は(と言っても午前11時頃なのだが)、左下腹部に走る激痛で目が覚めた。起きたときは背中がすでに鉄板のように固くなっていて、痛みのために真っすぐ立って歩くことができなかった。何だこりゃ?こんな痛みの感覚は初めてやんけ。インフルエンザウイルスが胃にでも侵入したとかいな?今年は確か消化器系にくるとか何とか言っとっばい?とかなんとか考えながら、会社でやり残していることがあったので、ヌースグッズを体に当て無理を押して家を出た。普通であれば、これで楽になって一件落着となるところなのだが、どうやっても痛みが治まらず七転八倒が続く。このまま激痛の中でもがき続けるのも一興だが、やっぱり時間が無駄になる。最近はとても素直になったなぁ、というか、諦めがいいのだ。病院に行くか。。。しかし、いずれにしろ、わたしは滅多なことでは病院には行かない人間。それだけ、今日の体の変調をヤバく感じたということなのだろう。
会社の人間には知られないように、こっそりと車でT医院という近くの病院に向かった。何しろ、意識までもが激痛で歪んでいるため、かなり危険な運転だったが、どうにかこうにか無事にたどり着く。そして、そのまま倒れ込むように受付ロビーへ、ヘッドスライディング。急患扱いで診察を受けることができた。
実は、わたしには4年前に一ヶ月ほど入院生活を送り、それまで20年間つき合っていた十二指腸潰瘍とオサラバした過去がある。最近の不摂生でそれが再発したのかもしれない。しかし、いきなり、こんな酷い痛みで再発するものなのだろうか。筋肉注射を打ち、胃酸を押さえる薬を点滴してもらい、軽い睡眠薬で夕方まで眠らされた。結果、だいぶん症状も落ち着いた。しかし激痛の原因はまだ分からない。土曜日に精密検査を受けてくれとのこと。ふー。全くさんざんな一日だったぜ。
人間である限り、病気の苦しみとつきあって生きていかなくてはならない。
「人間が病気にかかるのではなく、病気が人間を作っている。」
これは、OCTO(オコツト)の名言だろうと思う。
人間の身体とは宇宙を創造した「観察精神」の物質的投影である、というのがヌース理論の見解だ。
ここでは、創造を贈与する力(定質)と、創造を受容する力(性質)の間で存在論的な力の拮抗が起こっている。
贈与する者の方の力は、人間を物質世界の中へと引き入れ、その王国を管理するように命じる。一方、受容する者の力は、その命令から逃れ、あるがまま、存在するがまま、欲望の流れに沿って生きていきなさいと後押しする。現実原則と快感原則。超自我の命令とエスの反発。こうした対立する二つの意識の流れの中に自我は放り込まれて、常に苦しみ続ける。天界もまた調和を失っているのだ。神も病気なのである。そして、この神の病の影が人間という存在となって出現している。そして、人間においては、その病は”身体の病気”という形で現れる。とどのつまりが「人間が病気にかかるのではなく、病気が人間を作っている。」となるわけだ。
世界中から、全ての病気をなくすこと。それがヌース理論の見果てぬ夢でもあるのだが・・・
偉そうなこと言ってないで、その前に、土曜日の精密検査に行ってこんかい。ばか息子が。。。。(;;)あい。
3月 3 2005
ひな祭り
昨日の夜から、ほぼ24時間、自宅のベッドの上で静養中。
あー、よく寝た。やはり、かなり疲れが溜まっていたようだ。体が随分と軽くなっている。
昨日は分からなかったが、今日は、かなり咳が出ている。
おそらく、インフルエンザがらみの症状だったのかもしれない。
とにかく、明後日、また病院に行ってこよう。
こうして、何も考えず、ぼーっと過ごすのは久しぶりだ。
わたしの場合、何も考えない状態を続けることはかなり難しい。
それというのも、十数年にわたってOCOT文書との格闘生活が続いたために、
シリウス言語のナゾを解くこと、
つまり、ヌース理論のことを考えること自体がクセになってしまっているからだ。
おそらく、普通の人は気を抜くと、ぼーっ、と頭が空っぽの状態になるのだろうが、
わたしの場合、頭が自動的に動き出し、空間に様々な幾何学模様が現れ、
プサイ5だの、オメガ1だの、ヌースプログラムが自動的にカチャカチャと動き出す。
それこそ、何も考えない状態というのは、
何も考えられなくなる状態以外にはない。
つまり、こうした病気のとき以外はないのだ。
自慢してどうなる。
今日は3月3日。ということは、世間では、桃の節句、雛祭りの日だったんだな。
今時、ひな壇にお人形を飾ってお祝いする家庭って、どのくらいあるんだろうか。
人形だってべらぼうに高価だし、裕福な家以外は難しいのかな。
それにしても、日本人というのは本当に不思議な民族だ。
古来からの伝統や風習はあちこちで残ってはいるものの、
その意味や謂われを知ってる人たちってのはほとんど皆無に等しい。
ひな祭りだって、たぶんそうだろう。
かくゆうわたしだって、ヌースをやっていなければ、
ひな祭りに宇宙論的意味があるなんぞ想像もつかなかったろう。
ヒナとは普通、鳥の子供のことをいうが、昔は、鳥は太陽の女神アマテラスの使いと言われていた。
つまり、霊性のことだ。だから、ヒナとは霊の子供のことを指す。
要するに、お飾りする人形は人間を象ったものではなく、霊のヒナ型なんだな。
今はほとんどやってないのかもしれないが、
昔は、お雛様を祭壇に飾ったあと、それらを川や海に流す「雛流し」というという風習があったらしい。
これは、蛭子が葦舟に乗せられて常世にたどり着くことと同じ意味を持っていると何かの本で読んだことがある。
(確か、北沢方邦氏の著書だったか)。
つまり、ヒナとは人間のことであり、
「雛流し」とは、神のひな形としての人間を常世に送り返すことを象徴化した儀礼、とも解釈できる。
っつーことは、わたしたち自身が葦舟に乗ったヒナである、ということだ。
常世はまだ見えないが、こうして水の中を彷徨っているうちに、
いずれ、きっと常世にたどり着くのだろう。
ちなみに、「水」とはヌース理論では三次元空間に埋もれた表相の投影。。。。
表相が四次元に出れば、そこは常世ということになるのだが。。。。
ゴタクはやめて、
また、寝ます。
By kohsen • 10_その他 • 0 • Tags: 表相