3月 6 2005
サード・アップル
今朝は起きると辺り一面雪景色。
雪は上がって、空は晴天模様。
病み上がりの気分にふさわしい天気である。
こういうときは、すべてが予定されていたかのように事が運ぶものだ。
ピンポン〜、と鳴り響く玄関のチャイム。
「ビック・カメラから配達ですぅ〜。」
わぁお、来た。来ましたよ。ハンダコウセン仕様の2005年型ニューマック。
自宅のデスクトップとしてはPower Mac G3以来、実に6年ぶりのリニューアルだ。
何を隠そう先週、注文しておいたのであった。へへ。
一体型 iMacG5/20インチモデル。安い買い物ではなかったが、このマシンからまたヌース理論が格段の進化を果たすと考えれば安いもの。実際、現在製作中のテキストブックはすべてこやつで編集するもんね。
Macと付き合いはじめて早14年。金のかかるヤツだが、処女作の「人神」も、「シリ革」も、「光の箱船」だって、図の一つ、脚注の一つにいたるまで、みんな、みんな、このMacがあったからこそこの世に送り出すことができたのだ。わたしはMacがなければ、何もできないただのアホ。ちょっと待て、デジタルは、所詮、下僕だと発言しなかったか?
‥‥‥‥。この際、堅いことは言うまい。めでたき日ではないか。
それにしてもMacは外装箱もカッコいいのよねぇ〜。でかすぎるけど。絶品の処女の衣服を脱がすようなこの快感。。ん?
しかし、Macなのに、なぜApple社なのか?よくよく考えてみると不思議である。
Apple社の社名の由来は通説がいくつもあって定かではない。
昔、よく耳にしたのは、S・Jobsがまだ若かりし頃、ビートルズのApple corp.に憧れていて、名前をパクった、というものだが、ほかにも、ヒッピー時代、林檎の木の下で解脱したから、なんてものまである。ビートルズの連中(おそらく、ポールだけだろうが)が自分らの会社名をアップルにしたのは、エヴァが食んだ禁断の木の実を意識してのことだろうが、当然、Jobsもそのへんのセンスが気に入っていたはずだ。しかし、今では、そんな二つの二大アッブルも訴訟沙汰を起こしていがみ合う仲になっているようだし。。。一体、君たちは何をやっているのだ。リンゴの名が泣くぞ。→http://www002.upp.so-net.ne.jp/ysuzuki/topic/trademark20030920.html
よーし、わたしの会社がこれから四次元の第一次産業を起こして大きくなったら、会社名をサード・アップルにしよう。ここでいうアップルとはもちろん知識(グノーシス)の意味だ。ビートルズは20世紀が燃え尽きようとするあの時代、一個のリンゴを世界の人々の前に差し出した。そして、その思想に影響を受けた若者たちがデジタル社会を到来させた。リンゴが一かじりされたのである。しかし、リンゴはもうひとかじりされなければならない。エヴァは再度、知識の実を頬張るのである。そのとき、サード・アップルが立ち上がる。。。いいねぇ。いいねぇ。
3月 7 2005
モノフォニックVSポリフォニック
昔、音楽をやっていた頃、つくづく感じていたことがあった。日本人はハーモニーに弱いということである。ハモれるとかハモれないとか、そういった技術的な問題ではなく、音楽=メロディーと勘違いしているという点だ。
さて、メロディーを音楽と勘違いしてしまうと何が起こるか・・・。これは特に作り手側に言えることなのだが、それはアンサンブルが消えるということである。つまり、楽曲が歌と伴奏になってしまうのである。こうした歌と伴奏に分離した音楽全般をここでは「モノフォニックな音楽」と呼んでみることにする。もちろん、モノフォニックな音楽が悪いというわけではない。モノフォニックにはモノフォニックなりの良さがあるし、歌こそが音楽だ、と言う人がいても否定はしない。しかし、モノフォニックだけで曲を持たせるには、それこそ独創的なメロディーセンスがいる。わたしが若い頃、日本のPOP MUSICを好きになれなかった理由の一つは、そのほとんどが一様にこのモノフォニック・サウンドに支配されていたからだ。(今のJ・POPとやらはよく知らない)
モノフォニックな音楽のつまらなさは、楽曲の構成が大体すぐに見抜けることだ。つまり、底が浅い。底が浅いから、つい、音数が多くなる。音数が多くなるから、ボーカルが必要以上に感情移入を迫られる。その結果、手あかにまみれたギドキドのコレステロール音楽が大量生産されてくる。FATS MUSIC IS FASCIO MUSIC !コテコテの自我が、画一化された同じ顔をして、軍歌のように脅しをかけてくるのだ。オレはこんなに悲しいんだょおお〜。わたしはこんなにさみしいのよぉ〜。分かった。分かったから、せめてイントロは抜きでやってくれ。ふー。
閑話休題。。。。何を話したかったのか忘れてしまった。。。えーと。
しかし、西洋の音楽文化はたとえそれが12平均律の音楽であったとしても、ルネサンス、バロックという文化的変遷をそれなりに通過している。だから、楽曲を単なる歌と伴奏のようには捉えない。主旋律もまた、全体の中にうまくとけ込み、ときにサブに回ったり、ときにリズムを奏でたりと、伴奏側へと回ることだって珍しいことではない。ちょっと正確ではないが、こうした音楽をポリフォニックな音楽と呼んでみよう。ポリフォニックな音楽はだいたいが知性的な響きを持っているが、モノフォニックな音楽は感情的に響く。というか、感情表現に適している。バッハとショパンを聞き比べたときに受ける感覚の違いのようなものだと思ってもらえばいい。実際、バロックからロマン派への流れは、ポリフォニー主体からモノフォニー主体の曲調へと遷移していった。これは近代科学の成立とともにコギトが確立していった時代とかぶる。無意識はモノフォニー的なるものへと歩みを進めたのである。
物質とは凍てついた音楽である、と、かのピタゴラスは語ったが、ヌース理論的にもう一歩突っ込めば、凍てついた音楽とは、眠れる空間の音楽であると言っていい。いまだ目覚めぬ空間が、過去の目覚めの歴史をその微睡みの中に夢見ているのである。モノフォニーの中に折り畳まれたポリフォニー。世界の成り立ちとはそういうものである。
幾何学的思考もまた概念が奏でる音楽である。空間に一本の直線を引く。ニュートンであれば、それは1次元の線である、と言って、モノフォニーの優位を主張するだろう。しかし、知っての通り、ライプニッツはそれを無限次元を含み持つポリフォニーだと主張した。一本の線分上の一点は、どこか別なところからやってきた曲線の変曲点としてその線を交差する。その直線上の別の一点とってみれば、それは曲面上の変曲点がたまたまその直線上に居合わせただけのこと。たとえ一本の線の中であろうと、こうした事件がそれこそ数えきれないほど起こっている。こうした複雑な多様体の重層の中に物質のポリフォニーが息づいていることをわたしたちは知るべきである。物質は粒の寄せ集まりではない。絡み合った音楽なのだ。それぞれ独立した旋律を持った上昇するトランペットの音律と下降するオーボエの音律が、同じG線上で一瞬邂逅し、その両者がすれ違った痕跡をなぞるように、今度はビオラがやさしいロングトーンをなびかせる。ときに優しく、ときに激しく。物質が含み持つ幾何学とはそういうものなのである。
音楽はまた時間の芸術とも呼ばれるが、それが表現されてくる場は、つねに、時間の隙間でもある。なぜなら、音楽が流れる音符となって弾け出てくるのは、過去と未来のぶつかり合う一点においてなのだから。曲の始まりも終わりもその一点に直結している。だからこそ、こうして、この一瞬、その刹那に、君の笑顔と僕の笑顔が弾けては消えていく。。。
オフコースが死ぬほど嫌いだった割りには、少し小田和正してないか。
あいた。中沢新一を狙ったつもりが。。。
By kohsen • 07_音楽 • 1 • Tags: ライプニッツ, 中沢新一