3月 11 2005
デジデジはゲジゲジなのだ
サイトのリニューアルをやろうと思って、久々にGoLive(Adobeのサイト作成ソフト)を触ってみた。iMacG5はOS.10.3が最初からプリインストールされてあり、OS.9対応の昔のソフト群、Photoshop8.0、Illustrator9.0、GoLive6.0が使えない。しょーがないから、泣く泣くAdobe Creative Suiteというセットもののソフトを買ってきて、インストールはしてみたものの、この中にパッケージされているGoLive CSとやら、前のヴァージョンとかなり変わってしまっている。機能が無茶苦茶増えていて、よう分からんのだ。前なら1分とかからなかったindexのプレビューの出し方を見つけるまで、5〜6時間の格闘。難しすぎる。難しすぎる。アドレナリンが大量分泌して、爆死。。あぁ、また熱出しそう。
コンピュータを使い始めて10年以上になるが、わたしはマニュアルというものをギリギリまで読まない。とにかくあがくのである。触りまくっていればどうにかなるだろう、事実、どうにかなってきた、という経験から、意地でもあがくのである。ヌース理論関連の書籍や雑誌はすべて、そうしたあがきの末、生まれてきたものだ。しかし、最近のデジタル機器の進歩というか多様化にはそんな悠長なことは言ってられない空恐ろしさを感じている。多機能になればなるほど操作法がこざかしくなって、返って、扱いにくくなっているのを痛感するのだ。
お恥ずかしい話だが、去年、デジタルカメラなるものを初めて購入。接写モノを撮りたかったので、少し高価な機種に手を出してみた。箱を開けて見てびっくり。マニュアルが英和辞典のように分厚い。あがいても、あがいても、よく分からない。そこで、ようやくしょーがねぇーなーと重い腰を上げ、マニュアル片手に、接写を試みるが、何度やってもピンボケにしか写らない。んなはずねぇーべ。んなはず、ねぇーべって言っとるだろうが。こいつぅ…こいつぅ…うっ。。うっ。。うっ。。なんやこれぇ〜。結果、接写をあきらめた。こんなことなら安い奴買えばよかったじゃんかよぉ〜(;;)。。
わたしは生まれてこの方、自分を機械オンチと思ったことは一度もない。にもかかわらずデジタル機器との相性は悪い。それもこれも、10年前から携帯電話をひたすら拒否し続けているせいかもしれない。あの操作法のチマチマとした動きがどうしても好きになれずに、わたしはいまだに携帯を持っていないのだ。そうこうしているうちに何となく携帯との関係が気まずくなってしまった。そのことがどこかに引っかかっているせいか、コンパクトなデジタル機器に弱冠、苦手意識が出てきたのだ。どこからがアナログで、どこからがデジタルかという線を電気機器に引くのは難しいが、おそらく、何らかの境界線があるはずだ。
先月、古いビデオデッキが故障したので、蓋をネジ回しで開けて、中をいろいろといじくり回していた。そうこうしてるうちに、結果、直った。テープのリールを回すベルトがズレていたのである。アナログの機械は、歯車や滑車やベルトなど、まだ身体感覚の延長のような部品がメインで作動しているので、ここのかみ合いが悪いのかな?とか、ここがひっかかっているのかな?とか、それなりの身体勘でもって機械をいじくれる。しかし、デジタル機器となるとそうはいかない。蓋を開けてみても、わけのわからんICチップが並んでいるだけ。ヘタに触ろうものなら取り返しのつかないことになる。連中は人間の身体感覚の延長に存在しない。わしがデジタル機器がきらいな原因はここにあるな。。とブツブツいいながも、さて、サイト・リニューアルのためにもう一発、あがくかぁ。かっちょいいやつ作ろっと。
3月 12 2005
青空の機械
新しいサイトのトップページのデザインを上げた。今回の雰囲気はハイパーダンディ。なんやそれ?黒を基調に昨日話したデジカメで撮影したケイブコンパスをあしらったもの。現行のやつがMac.OS.9調だったので、今回はこのcave syndromeも意識して、黒系でいくことにした。下側には01〜10まで、appendix boxつき。Quick timeなんかも仕込んじゃおうかなぁ〜と思ってる。NCやケイブコンパスのアニメーションだけではなく、ブルーが美しいNCジェネレターの実写ビデオとかも公開する予定。乞うご期待!!
ところで、先日、NCジェネレーターのことを21世紀版のオルゴンボックスと称したが、少し補足しておこう。
オルゴンボックスの発明者というか、開発者であるW・ライヒは、ある意味わたしのアイドル的存在だった人物だ。
ライヒはフロイトが一時息子のようにかわいがっていた愛弟子で、精神分析とマルクス主義をリビドー論を持って統合しようとした異端児である。まぁ、フロイトの弟子の中ではある意味、一番ラディカルだった人物と言っていい。彼の思想に共感する点はいろいろとあるのだが、最も大きな点を挙げるとすれば、思想のスタイルが極めて直球ストレートであったということだ(わたしは重箱の隅をつつくような哲学や思想は大キライなので)。そして、その思想を最終的に一つの装置として実現させようとしたこと。つまり、わしと似てる訳ね。でへ。フロイトが性の抑圧からの解放を主眼として精神分析を確立させていったいったのは有名な話だが、ライヒは師に極めて忠実だったがゆえに、この初期フロイトの立場を一生涯貫き通し、性革命を主軸とする革命運動を続けて行く。ナチに追われ、アメリカに移った晩年には、オルゴンボックスをガン治療器として利用したためFDA(日本の厚生省のようなもの)に告訴され、最終的には政府の圧力によって潰され、獄死する(ここは似たくないよぉ…)。彼にとっては、結局、アメリカもナチも大した違いはなかったということなのかもしれない。。
性エネルギーを物理的な力と考え、人工的な装置によってそれらを解放させようとした彼の意図に対しては、たぶんに抵抗を感じる人も多いだろう。オルゴンエネルギーに取り憑かれた彼の晩年(いわゆるオルゴン期)に対しては、ほとんどの識者はオカルト扱いにしてよくは言わない。しかし、彼は単なる学者でも、社会運動家でもなく、フロイト的なものとマルクス的なものの融合を図ったという意味で、ユダヤ的な精神の解放のビジョンを持った巨人ではなかったのだろうかとも思う。それだからこそ、彼は、精神分析学会からも共産党からも追放された。これは、ヌース理論が科学畑の人からも宗教畑の人からも嫌われるのと似ている。。。ぜんぜん、違うか(笑)。オルゴンボックスなる奇妙な機械は、性の抑圧によって欠如したオルガスムスを補給する機械であり、オルガスムスとは、彼の言葉を借りれば「あらゆる生命体を支配するエネルギーであり、それはとりもなおさず大気中のエネルギーと同一のもの」であるのだ。
現在、科学では地球の大気圏は重力によって宇宙空間のガスが引きつけられできたのだと考えている。これはたぶん嘘だ。大気が作っている膜とは、物質階層のあらゆる膜に通じる中間地帯のエネルギー境界のシンボルである(ヌース理論でいうΩ7〜Ω8)。そこでは当然のことながら、物質も意識も、生と死も、自己と他者も、男と女も、一つに解け合っている。そうした中間領域で活動するエネルギーがオルガスムスであり、オルゴンオネルギーなのだ。いずれにしろ、ライヒはこの地上世界に天使の不在を感じたに違いない。ライヒのオルガスムス論はフロイトのリビドー論をはるか超えて、やがては、惑星、天体レベルへのエネルギー論、宇宙論へと発展していく。青空はなぜ青いのか。ライヒは空の青さの中に何を見ていたのか——オルゴンボックス。それは、やっぱり青空の機械なのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: NC-generator, ケイブコンパス, フロイト, ユダヤ