3月 18 2005
ホームセンター
今日は会社帰りに、製作中のNCジェネレーターで使う部品の代用になる金具を探しに、久々にホームセンターに行った。わたしはなぜか昔からホームセンターが好きである。あの雑多な雰囲気がたまらんのよね。東京であれば、東急ハンズというシャレた店があるが、アレはだめ。ホームセンターはやっぱり平屋式で天井が高くて、倉庫風でないとね。ここはG×××D×Yという店だが、郊外型の典型的なホームセンターである。
店内に入ると、すぐに、おがくずと金属と機械油が入り混じったようなあの独特の匂いがプーンと漂ってくる。いい。いい。もっと嗅がせろ。わたしは、なぜか、この匂いが身体にフィットするのだ。さっそく、建具や工具関係のコーナーを物色。。。ハンマー、釘、ねじ、すのこ、やすり、電気工具、ドアの蝶番、etc、反対側に回ると、アクリル版や、接着剤、ラッカー、ペイントスプレーなどが例によって陳列してある。
ホームセンターの商品棚は、いわゆる製品化される前の部材類とそれらを加工するための道具類で埋め尽くされているが、よくよく見て回ると、訳の分からないものがたくさん置いてある。こんな金具一体何につかうんやろ?なんや、このハサミとペンチの間の子のようなものは?……そうこうしてるうちに、あっちの棚から、こっちの棚から、こっちにおいで、いや、ここだよ、と、いろいろな商品たちの声がぺちゃくちゃと聞こえてくるような気がしてくるのだ。それで、ついつい、いろんなところを見て回ってしまう。
「こやつらが、わしらの日々の生活を支えてくれているのかぁ。おー、よし、よし。かわいいなぁ、お前ら」などとやっているうち、あっという間に2時間経過。
釘を打つこと。ねじを締めること。ペンキを塗ること。ワイヤーを巻くこと。ホームセンターから連想される作業にはいろいろあるが、どの作業のイメージ一つとってみても、それが強いられた労働でなければ、身体に心地よく響く。そこには幼い頃の無垢だった自分がいる。晴れた日曜日の午後のトム・ソーヤーとハックル・ベリィ・フィンの気分。あの頃は日が暮れるまで、秘密の基地づくりに熱中したものだ。
道具とは何だろう?大工さん、絵描きさん、板前さん、機械屋さん、ひいては、お茶の先生に至るまで、道具を使う人は、身体と道具の関わりについてとても説得力のある発言をする。それは、科学者が物質の話をするよりも100倍も1000倍も面白い。それは、なぜか——。それは、道具ともに生きる人たちが「現実」に生きているからである。現実、つまり、身体性とともに生きているからである。道具は身体が持つ勘を100%の精度で伝達して対象に伝え、対象の思いを身体に伝え返してくる。こうなると、道具はモノというより、身体の延長、否、もう身体そのものではないかと思えてくるのだ。
さて、ここでわたしは何をいわんとしているのだろう。。
それは、目に見えている身近なもの、つまり、触れることのできるものの世界は実は身体の内部だということである。それは身体の外にあるのではない。内にある。
ハンマーで釘をとんとんと板に打ち付ける。ドライバーでぐりぐりとねじをまわす。はけでペンキをぺたぺたと塗りたくる。釘の先が板を穿っていく感覚、ねじがねじ穴に潜っていく感覚。塗料が板をぬめらせる感覚。こうした感覚が生起している場所は一つの強度的空間と言っていいものである。この空間がわたしたちの身体感覚というものを作り出す。「強度」という言葉、ヌース理論にもドゥルーズの影響でよく登場するので、ついでに説明しておくと、おおよそ次のような内容だ。
強度とは、中世のスコラ哲学者ドゥンス・スコットゥスが言い出した言葉で、同じ力でも量化できないものを表すときの概念のことをいう。これは建築工学などで使われる耐震強度とかの強度とは全く違う概念である。痛さ、熱さ、重さ、明るさ、鮮やかさ、何でもいい。そうした感覚に訴えかけてくる表象には強さ、弱さといった力の度合いがある。それが強度である。その赤はどのくらい赤いのか。その痛みはどのくらい痛いのか。その出来事に君はどのくらい感動したのか——。この度合いは機械で計測できる類いのものではない。いうなれば魂だけが吸引することのできる強さである。感覚はまずは一つの強度としてやってくる。その後、諸感覚に分岐し、身体感覚の基礎を作るのである。
ヌース理論ではこういった強度が生まれている空間のことを「人間の外面」と呼ぶ。そこは、時空に存在するモノではなく、現実としてのモノが諸感覚として戯れている場所なのだ。それは感覚の坩堝と表現してもいい場であり、わたしがまだわたしになる前のわたしなのである。。。。ホームセンター。。。。
つまんねぇー。
とアレやコレや考えながら、自宅に戻ったはいいものの、わたしの部屋の汚さったら、ありゃしない。これが俺の身体の中だってぇ〜。。。。ぞぉ〜。うーむ、掃除でもするべぇーか。
あっ、あと、今日はヌース会議室の方にヌース本論に関する内容で、重要な書き込みをした。魂とトポロジーの幾何学に興味がある人は、ぜひ、下のヌース理論会議室を覗いてみて欲しい。この「強度」とも関係あるばい。
ヌース理論会議室
3月 19 2005
ヌース式夢見の技法
昨夜はうかつにも寝てしまった。ここのところ睡眠不足が続いていたので、ころっと持っていかれてしまった。おかげで、久々の人間的熟睡を満喫。人間的熟睡という言葉はちょっと変に聞こえるかもしれないが、こうした表現をしたことには実は理由がある。
まだ、あまり人に話したことはないのだが、わたしには、ここ1〜2年、自分の睡眠の質が明確に二分して来ていることの自覚がある。つまり、眠りの空間が二つのタイプに分かれてきているのだ。もちろん、これは主観的な話なので、気のせいと言われればそれまでだが。しかし、わたし自身は、この分離がヌース的な思考の作用によるものではないかと直感している。さて、その分離がどういうものかというと、普通の睡眠は気がつくと眠っている、というか、眠ると気を失っている。そういうものだ。つまり、眠ると通常の自意識は消えてしまって、時間感覚もなくなる。夢を見ているときは、それなりの時間感覚や自我感覚があるように思えるが、それは極めて希薄なもので、起きているときのそれにはほど遠い。
さて、平均すると1ケ月に1回ぐらいだろうか。2年ほど前から、それまで体験したことのないような全く異質な眠りの空間が巡ってくるようになった。簡単にいうと、眠っているのだけれども自意識が消えないのだ。だから眠りの中で起こっていることがはっきりと手に取るように分かる。これは古代のシャーマンたちが夢見の技法を用いて入っていったような空間のようなものなのかもしれない。しかし、そこに夢は展開しない。全く別の風景がある。
実は、この手の睡眠空間に入っていくときは前もって分かる。頭皮や顔の皮膚あたりに弱冠突っ張った感覚が生まれ、そのうち、それらを構成している細胞の一つ一つがプチプチと変な音を立て始めるのだ。この皮膚感覚は、「人神」に書いた例のOCOTから最初にコンタクトがあったときの感覚に近い。来た——。ちょうど深海に潜航していく感じと思ってもらえばよい。最初の頃はわき上がってくる恐怖から、その空間の中に沈んで行くのを拒んでいる自分がいた。拒否するとどうなるかというと、目が覚める。そして、また眠ろうとすると、その空間が出現してくるので、再度、拒否する。目が覚める………そういったことを4〜5回繰り返しているうちに、通常の眠りの空間側に入り、そのまま眠ってしまっていた。しかし、1年ぐらい前から、その空間の中に入ってみようと思い始めた。そのうち、怖さも払拭することができるようになり、逃げるのではなく、はっきりとした意思を持ってその空間に潜航していくことができるようになったのだ。
来た——。これは夢じゃないな、と、毎回その空間が訪れるたびに自分にいいかせ、一応、確認のために閉じていた目を開ける。そこには、しっかりと掛け布団と内掛けの毛布の淵が見えている。そして、またすぐに目を閉じる。その奇妙な眠りの空間はしっかりと開いたままだ。さぁ、潜るぞ。出発だ。顔面全体に眠りの空間の圧力を受けながら、自分が何らかの空間の中を潜航していくのがはっきりと分かる。わたしは素潜りはできないが、その感覚は本当に素潜りで海の中に入って行く感覚と似ているのではなかろうか。頭部を囲む空間の圧力がどんどとん高まり始め、真っ暗だった空間に何やら、無数の粒、小さな小さな気泡のようなものが見えてくる。顔面がプチプチしているので、炭酸水の中を泳いでいるような感じだ。そうこうしているうちに、その泡が消え去り、海の内部風景が眼前に開いてくる。何だこりゃ、こりゃすげえ〜。という感じである。………長くなるので、この話、またいつか。
By kohsen • 10_その他 • 0 • Tags: 人類が神を見る日