5月 9 2005
60億総Poserの時代
一昨日あたりから、この間購入したPoser6(ポーザー・シックス)を本格的に使い始めた。もちろん、テキストに導入するイラストや、ネット上でのアニメーションコンテンツの作成のためである。ソフトに詳しくない人たちのために言っておくと、Poser 6とは人体3D作図専用の最新版ソフトのようなものだ。おそらく、3Dアニメーションで人体が登場する部分はほとんどこのPoserシリーズで作られているのではなかろうか。それくらい人気の高い代表的なソフトと言っていい。
まだ、触り始めたばかりなので何とも言えないが、最近のPoserは各関節部の動きが連動するように作られているようだ。かなり昔にPoserの古いバージョンを触ったことがあったのだが、そのときはまだ諸関節の動きの連携はこれほど巧みにプログラムに組み込まれていなかった。そのため、例えば、足首や膝、股関節といった三カ所のジョイントはそれぞれ独立して自由に動かすことができ、初心者がいじくっていると、複雑骨折したかのような不自然なポーズがすぐにできてしまう。一度、関節がグニャグニャになってしまうと元に戻すのがもう大変。そのために即ギブアップした記憶がある。しかし、現在のバージョンは、親切にもそうした不自然な関節の動きの連携を許さないように初期設定されているようだ。例えば、歩行のポーズを作るときに右足を出せば自然に左手が前に出てくる。けんけんのポーズを作るときに右膝を軽く曲げ左足を上げれば、右肩が落ち体全体は若干右に傾く。そういう姿勢に自然になってくれる。その意味では大変、使い勝手がいい。しかし、このプログラミングは、裏を返せば、不自然な関節の連携は禁止する、というおふれ書きに取れないこともない。このソフトではUSAの陸上選手のような走りのポーズはすぐに作れるだろうが、ナンバ走りをする江戸時代の飛脚を表現するにはかなり面倒な操作が必要となるだろう。
世界観と身体観は同期して変遷する——。近代的な物質的世界観の中では身体観もまた物質的な枠に閉じこもってしまった。いわゆる3次元認識のクセに沿って、三次元の物質的身体感覚が養成され続けているのだ。このPoserはまさに、そうした身体イメージの総仕上げのように感じる。実際にPoserを触っていて感じるのは、身体にこういった動き以外はあり得ない、否、あってはいけない、という統制である。実際に使っていて言うのも何だが、フーコー風に言えば、身体を機械として管理する眼差しをより一層強化させるツールであることに間違いない。
そろそろ身体を物質概念から解放してやってはどうか。ヌース理論の考え方では、(人間の外面という意味で)身体と身体の周りの空間は区別することができない。見えている風景そのものが皮膚なのだ、という言い方をするのもそのためだ。とすれば、毎日のように繰り返される他者との情念の交流は身体の生理作用と直結していると言えるし、モノを見て何を感じそこから何を表象しているか、といった思考作用でさえも、身体の代謝機能と別物ではない。いうなれば、わたしは、常に、身体とともに、身体の内部で生きているのである。自身の身体を物質のように見る眼差しは真のリアルから逸脱したナルシス的自我=水子の目によるもの以外の何ものでもない。自分を外部から見るのではなく、内部から見ること——内側から見た身体とは世界そのものなのだ。
5月 11 2005
OR体としての生命
前回の書き込みのあとに引き続き書いたこと。
見える世界がわたしの身体——生きのいい哲学や宗教であれば、主体=客体、客体=主体という主張は必ずと言っていいほどなされてきた。しかし、ここで彼らは一体何が言いたかったのだろうか。実は、その先を具体的に記した思想はない。というか、その先は大方が言語や理性では触れられない聖域なのだと語られ、無意識は意識的に隠蔽されているのだ。FUCK YOU!! 問題はそこから先だ。主客一体の情景を目撃した者なら、そこから何をなすべきかぐらい見えてもらはないと困る——。ここは当然、新たな主体と客体の創成にかからなければ、ことは始まらないだろう。そうしたものが見えてこそ、真に幻視者(ヴィジョニスト)の名に値するのだ。
空間は決して身体を入れる容器のようなものではない。そのような空間は他者の眼差しに晒された偽りの空間である。といって、身体が空間に先行しているというわけでもない。それらは物質と精神の関係と同じく、同一のものが異なる二つの側面へと分離しているだけなのである。この分離をヌースでは人間の内面と外面と呼ぶ。言い換えれば、人間の内面とは世界として想像されている世界(内面=言語)であり、人間の外面とは世界として知覚されている世界(外面=現象)のことである。この両者にある距離を巡って、闇と光、つまり、見えないもの(客体=内面)と見えるもの(主体=外面)とが生まれ、さらには、そこに自他という鏡像性が加味され、豊穣なキアスム的拮抗作用が営まれているのだ。これらの全構図を新たな幾何学的身体として客体化させ、それを観察する精神を新時代の新たな主体性として擁立させ、これら新たな二つの身体性を新たな宇宙のヤキンとポアズの柱として再構成し直すこと。ヌースはそれをやろうと目論んでいる。
とにかく、対象から広がる空間(人間の内面)と、身体から広がる空間(人間の外面)の区別を徹底して意識しよう。この両者の間には同一化不能な存在論的膜がある。それは、物質的には無生物と生物を隔て、哲学的には存在者と存在を隔てる膜となっている。およそ魂全般は好むと好まざるとに関わらず、必ずやこの膜を通して呼吸することを義務づけられている。金かそれとも愛か。裏切りかそれとも忠誠か。苦痛かそれとも快楽か、生きるべきか死すべきか——迷い、逡巡、躊躇、戸惑い——こころのゆらぎとして現れているこうした現象はすべて魂の呼吸なのだ。魂はこうした「OR」の命題を自らに投げ掛けることによって、そのつど何かを吸収し何かを排泄しているのである。その意味で、この「OR」は有機体(OR-gan)の略記号と見なすこともできる。OR体は差異が見えないという点では哀れな存在だ。しかし、この哀れさが「永遠に続く」という意味であれば、それは逆に力強い反復力とも言える。宇宙の生命力はこの哀れさと強靭さの二つのアンビバレントな要素によって育まれていく。
以前もどこかで触れたと思うが、ユダヤ教のミドラーシュは、こうしたORの在り方に二つの存在形式を与えている。それは、光を表す「OR」と皮膚を表す「OR」である。ミドラーシュによれば、ジェンダーの原初的分裂の際に光は皮膚へと変化する。それは光を皮膚とするような実在の身体の存在をほのめかしている。そして、その実在の身体こそがほんとうの女性存在と呼べるものなのである。ほんとうの女性(女性という性を生み出した力の本質)は、その意味でまだこの地上には出現していない。それを人知れず生み出すのがヌースに託された作業と言っても過言ではない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ユダヤ, 内面と外面