3月 17 2005
たまにはトンデモ。
昼すぎ、昨日届いたEXPACK(小包)を開く。関西のSさんという方からだ。中を見てみるとA4版の書類が250枚ほどファイリングされている。同封されている手紙には、今度、自費出版をする際にシリウス革命からかなりの引用をさせていただいたので、ぜひ、御許可をいただきたいと、丁寧に書き添えてあった。許可も何も、悪用するのでなければ「無断転載を命ず。」というのがヌースの精神ですから、どんどんやって下さい。はい。
原稿の内容をパラパラとめぐって見てみると、どうやら現在の日本人の起源について書かれている本のようである。わたしはこの方面の知識に疎い(疎いということはあまり関心を持っていないということでもあるが)ので、よく分からないのだが、どうやら古代日本に渡来してきたと言われている謎の民族集団、秦氏に関する記述のようだ。秦氏が大量に日本に渡ってきたのは、新羅が百済を攻めたときで、百済からの難民の中に秦氏が多く混じっていたということらしい。当時、日本での彼らはウズマサ(太秦)と呼ばれていたらしいが、様々な知識に長けていたので朝廷の要職についていた者が多かったという。その後、朝廷での覇権争いに敗れた秦氏の血脈は日本の歴史の暗黒面に回る。彼らの存在は徹底して表舞台から抹殺され、闇に葬られる、云々〜というものである。まぁ、ここまではそれなりの歴史話だが、この秦氏が、もともとの出自がイスラエル周辺の民族であるというところで、話ががぜん面白くなってくる。太秦はタイシンであり、これは元来、ローマ帝国を表わす中国名だ。つまり、古代日本にユダヤ人が云々〜という例の有名な物語につながるというわけだ。………それにしても、日本人はなぜにこうもユダヤ人を気にするのか。。不思議だぁ。
OCOT情報でも、日本民族とユダヤ民族というのは関係が深い。まぁ、この手の話は完全にトンデモとして聞いてほしいが、わたしも取り立てて関心があるわけではないので、無関心を装って何気に言っておこう(笑)。
その関係はというとねぇ〜………、えーと、えーと、えーと、………どうした、コウセン。ごめん、なかなか言えねぇーぞ、これ(笑)。えーと、えーと、七回の次元の交替化全体における核質と現在の次元の核質なのだ!言っちゃった!!うげっ。ひくなよ、みんな。
ヌース理論をご存知でない方は、わけ分からん蔵だと思うので、一応、翻訳しておくと、これは、地球上でもっとも旧い民族と最も新しい民族の関係ということになる。宇宙は輪廻(進化)の度に、その反映として新たな人種、民族をその次元の〈性質〉として送り出す。その最初のものが日本人で、最後のものがユダヤ人だというわけである。核質とは人間を作り出すための最も重要な力のことをいうが、これは物質概念のことだ。現代人が抱いている物質概念は古代風に言えば「もののけ」に当たる。ものに取り憑いた「け」だ。この「け」は「核」質と呼ばれるだけあって、宇宙で最も高貴なものと低俗なものとを同居させている。始まりと終わりの間を結ぶ、宇宙論的男と宇宙論的女。。その意味でユダヤ人と日本人は相性がいいのかもしれない。しかし、どっちが男?どっちが女?
3月 18 2005
ホームセンター
今日は会社帰りに、製作中のNCジェネレーターで使う部品の代用になる金具を探しに、久々にホームセンターに行った。わたしはなぜか昔からホームセンターが好きである。あの雑多な雰囲気がたまらんのよね。東京であれば、東急ハンズというシャレた店があるが、アレはだめ。ホームセンターはやっぱり平屋式で天井が高くて、倉庫風でないとね。ここはG×××D×Yという店だが、郊外型の典型的なホームセンターである。
店内に入ると、すぐに、おがくずと金属と機械油が入り混じったようなあの独特の匂いがプーンと漂ってくる。いい。いい。もっと嗅がせろ。わたしは、なぜか、この匂いが身体にフィットするのだ。さっそく、建具や工具関係のコーナーを物色。。。ハンマー、釘、ねじ、すのこ、やすり、電気工具、ドアの蝶番、etc、反対側に回ると、アクリル版や、接着剤、ラッカー、ペイントスプレーなどが例によって陳列してある。
ホームセンターの商品棚は、いわゆる製品化される前の部材類とそれらを加工するための道具類で埋め尽くされているが、よくよく見て回ると、訳の分からないものがたくさん置いてある。こんな金具一体何につかうんやろ?なんや、このハサミとペンチの間の子のようなものは?……そうこうしてるうちに、あっちの棚から、こっちの棚から、こっちにおいで、いや、ここだよ、と、いろいろな商品たちの声がぺちゃくちゃと聞こえてくるような気がしてくるのだ。それで、ついつい、いろんなところを見て回ってしまう。
「こやつらが、わしらの日々の生活を支えてくれているのかぁ。おー、よし、よし。かわいいなぁ、お前ら」などとやっているうち、あっという間に2時間経過。
釘を打つこと。ねじを締めること。ペンキを塗ること。ワイヤーを巻くこと。ホームセンターから連想される作業にはいろいろあるが、どの作業のイメージ一つとってみても、それが強いられた労働でなければ、身体に心地よく響く。そこには幼い頃の無垢だった自分がいる。晴れた日曜日の午後のトム・ソーヤーとハックル・ベリィ・フィンの気分。あの頃は日が暮れるまで、秘密の基地づくりに熱中したものだ。
道具とは何だろう?大工さん、絵描きさん、板前さん、機械屋さん、ひいては、お茶の先生に至るまで、道具を使う人は、身体と道具の関わりについてとても説得力のある発言をする。それは、科学者が物質の話をするよりも100倍も1000倍も面白い。それは、なぜか——。それは、道具ともに生きる人たちが「現実」に生きているからである。現実、つまり、身体性とともに生きているからである。道具は身体が持つ勘を100%の精度で伝達して対象に伝え、対象の思いを身体に伝え返してくる。こうなると、道具はモノというより、身体の延長、否、もう身体そのものではないかと思えてくるのだ。
さて、ここでわたしは何をいわんとしているのだろう。。
それは、目に見えている身近なもの、つまり、触れることのできるものの世界は実は身体の内部だということである。それは身体の外にあるのではない。内にある。
ハンマーで釘をとんとんと板に打ち付ける。ドライバーでぐりぐりとねじをまわす。はけでペンキをぺたぺたと塗りたくる。釘の先が板を穿っていく感覚、ねじがねじ穴に潜っていく感覚。塗料が板をぬめらせる感覚。こうした感覚が生起している場所は一つの強度的空間と言っていいものである。この空間がわたしたちの身体感覚というものを作り出す。「強度」という言葉、ヌース理論にもドゥルーズの影響でよく登場するので、ついでに説明しておくと、おおよそ次のような内容だ。
強度とは、中世のスコラ哲学者ドゥンス・スコットゥスが言い出した言葉で、同じ力でも量化できないものを表すときの概念のことをいう。これは建築工学などで使われる耐震強度とかの強度とは全く違う概念である。痛さ、熱さ、重さ、明るさ、鮮やかさ、何でもいい。そうした感覚に訴えかけてくる表象には強さ、弱さといった力の度合いがある。それが強度である。その赤はどのくらい赤いのか。その痛みはどのくらい痛いのか。その出来事に君はどのくらい感動したのか——。この度合いは機械で計測できる類いのものではない。いうなれば魂だけが吸引することのできる強さである。感覚はまずは一つの強度としてやってくる。その後、諸感覚に分岐し、身体感覚の基礎を作るのである。
ヌース理論ではこういった強度が生まれている空間のことを「人間の外面」と呼ぶ。そこは、時空に存在するモノではなく、現実としてのモノが諸感覚として戯れている場所なのだ。それは感覚の坩堝と表現してもいい場であり、わたしがまだわたしになる前のわたしなのである。。。。ホームセンター。。。。
つまんねぇー。
とアレやコレや考えながら、自宅に戻ったはいいものの、わたしの部屋の汚さったら、ありゃしない。これが俺の身体の中だってぇ〜。。。。ぞぉ〜。うーむ、掃除でもするべぇーか。
あっ、あと、今日はヌース会議室の方にヌース本論に関する内容で、重要な書き込みをした。魂とトポロジーの幾何学に興味がある人は、ぜひ、下のヌース理論会議室を覗いてみて欲しい。この「強度」とも関係あるばい。
ヌース理論会議室By kohsen • 10_その他 • 0 • Tags: NC-generator, ドゥルーズ, 内面と外面