5月 18 2005
父、倒れる
父が倒れて病院に運ばれた。本人も気づかないまま肺炎にかかり、9度8分の熱を出し意識不明になったのである。最初は左半身がマヒしていたのも手伝って、てっきり、脳幹出血が再発したのだと思って皆慌てた(15年ほど前、一度やってる)。とりあえず、脳疾患ではないということが分かって安心はしたが、病室のベットに横たわる父の姿を見て何とも辛い気分になった。
父は今年で86歳になる。もう半分ボケが来ていて、毎日のように会っている孫の名前さえも分からないときもある。病床で点滴を打っていても、点滴が何なのかよく分かっていない。看護婦さんに説明を聞くが、邪魔に感じるのだろう。一人になると力任せに引きはがす。おかけで点滴針は血管をはずれ、腕を腫れ上がらせる。今日見舞いに行ったときは、ベッド一面血が飛び散り、シーツや布団カバーが真っ赤に染まっていた。赤褐色に乾いた自分の血を見て「きたなかねぇー、何ね、これは」とつぶやく父。シーツの交換を頼むわけでもなく、だるそうに、そっと、そのまま横になる……。
老いたのだから仕方ない。男子86歳と言えば平均寿命より10歳は上だ。父は人生をまっとうした。それでいいじゃないか。人は誰でも死ぬ。その時期が父にも迫ってきているだけのことだ。いや、よくない。ふざけるな。この場所は一体なんだ。人間が死ぬところか。40年間働いて、4人の子供を育て上げ、仏法哲学を朗々と説いていたあの父が死ぬところか。カーテンで仕切られたベッドにはろくに日も当たらない。簡易便器がすぐ横に置かれ、汚物の臭いが漂う。病室には他に2人のボケ老人が意味不明のうめき声をあげている。一人は父よりもはるかに症状がひどい。ほとんど植物人間状態だ。彼らもまたそれぞれの人生を存分に生きてきた人たちだろう。なのに、なぜ、こんなところにいるのか。老化は罪ではない。たとえ、それが凡夫の生涯であったとしても老化は罪ではない。なのに、なぜ、病院はこうも牢獄を真似るのか。ここで父を死なせることなどできない。
夜、姉たちと父の家に集まった。父の病状がよくなったらすぐにこの家に連れて帰ろう。それまでに、家の中を見違えるような空間にリフォームしようじゃないか。仕切りを取っ払い、陽光をたくさん入れ、カーテンを新調し、クロスを張り替え、床暖房にし、バリアフリーにし、父の死に場所にふさわしいすがすがしい空間にするのだ。もちろん、一緒に暮らす年老いた母のためにも。そして、兄弟力を合わせて介護をしていこう。そうやって皆で話し合った。それは親子だから、というよりも、最も感謝すべき一人の隣人に対する義務としてだ。夜中、母から電話があった。それはお礼の言葉だった。「よろしくたのむね。ありがとう。」それは、普段の母ではなかった。
こういうことがある度にいつも思う。他者を死者として見れば人はどれだけ人に優しくなれることか。そのためには自分も死ななければならない。生はもういい。いい加減にみんな死を語ろうじゃないか。
5月 19 2005
エゼキエル・シャフト
今日は数学の話。
この数ヶ月、機械製作に没頭していたため、ヌース理論の思考作業の方がおろそかになっていた。ここ数日は、また、ロゴス(種子)をいかにして宇宙卵に受精させるかというヌースの直裁的なテーマを考えるのに躍起となっている。この場合のロゴスとは幾何学の論理。宇宙卵とは人間の実存の中に蠢く情動力のことだ。それもこれも、ヌース会議室の方にgnuさんという、数学が大変できる人が登場されたからである。正直、わたしは彼の豊富な数学的知識に直接訴える形で論を展開できないでいる。まぁ、そのへんはいずれ専門家がやってくれるだろうと暢気に構えていたが、やはり、ここは自力でやるしかないのだな、ということを痛感した。考えてみれば、種子が十分な発育を遂げていなければ、受胎される胎児もおそらくキメラ生物のような気味の悪いものでしかないだろう。そうした奇形は決して出産までこぎ着けることはできない。そうした経過もあって、ヌースのツインドライブ頭がまたグルグルと回り出したのだ。
ヌース理論は視線方向に四次元が重なっていると説く。その説明にはやはり複素数平面を使うのが一番いい。そのロジックはそれほど難しいものではない。今、目の前に左右に延びる一本の数直線をイメージしてみよう。それは「見える」という意味で「実」だ。次に、お約束通り、原点Oを中心として右方向に+方向を取り、左方向に-方向を取る。さて、ここで左右を入れ替える操作を考えてみよう。そのためには原点を中心としてグルっと180度回転させればよい。つまり、この操作によって+1は−1に変わり、−1は+1に変わる。つまり、この回転操作は代数的には−1を掛けるという演算の意味になるわけだ。
では、このときの90度回転とは一体何なのだろう。90度は180度の半分であるから、それを代数的な意味に置き換えれば、当然、二回の90度回転で−1が導き出されてくるわけだから、i×i=−1というように考えることができる。よって、実軸の原点を中心とする90度回転とは数直線的な意味の連関から「虚軸」である、ということが言える。ならば、複素平面でいつも目にしてるように、ヨコ軸が実軸で、タテ軸が虚軸かというとそうではない。なぜなら、目の前の空間においてヨコとタテは相対的なものにすぎないからだ。これといった差異がない。クビを横に向ければヨコはいつでもタテになる。ヨコもタテも「実」なのだ(※ヌース理論のさらなる先の展開では、このタテ/天地とヨコ/地平は全く違うものとなってくる)。
となれば、残る方向は一つしかない。つまり、奥行き方向である。この方向に虚軸が関わっているということだ。実際、奥行きは「虚」の名が示す通り目に見えないではないか。これはタテとヨコに対する絶対的差異である。
このような考え方をすると、三次元空間は二枚の複素数平面で構成されているのではないか、という考え方ができるようになる。つまり、二枚の複素数平面を直交させ、それらが十字の形に見えるように目の前に配置するのだ。タテ平面に通る奥行きとヨコ平面に通る奥行きは、当然、重畳し合い二本の虚軸としての意味を持っている。この重畳した二本の虚軸とは、自己と他者との眼差しの交差の場でもあるだろう。およそ宇宙に存在するすべてのものの生成はここで起こると考えるのがヌース理論である。すなわち、ここで交差している二本の虚軸がエゼキエルの車輪を回すシャフトとなるのだ。二組の「わたし」でもある(i、−i)のキアスムによって生まれる二組の「±」。鏡像交換の原理によって一組の±の軸は三次元という想像界へ、そして、もう一つの±の軸は4次元という現実界へと接続する。その意味で、ここは物質と意識が分離する分岐点でもある。もう一度言おう。奥行きには4次元が重なっている。奥行きを観じている者、それが四次元の君だ。。ブルトンの言葉が久々に聞こえてくる。。。そろそろ、エンジンがかかってきたようだ。前進あるのみ!!
そこから見ると、
生と死、
現実と空想、
過去と未来、
伝達の可能と不可能、
高さと深さなどは、
もはや対立とは思われない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ロゴス