3月 29 2005
魂の光学
今日は昼から出社。NCジェネレーターに使用するスリップリング部分(回転体に電気を伝える部品)について業者に連絡を取ろうとしていたところ、突如、階下の営業の方から電話が入る。
「パワービーズのイメージ写真を作って欲しい。急ぎでよろしく。今日中ね。」
今日中ね、ったって、今日は、ジェネレーターの設計も進めんといかんし、夕方からトーラス氏とチョコボ氏が遊びに来ると言っとったし、そげな時間なか、と言いたいところだったが、会社にとって営業は神である。営業には絶対服従なのだ。社長とて例外ではない。なんとか営業の要望に答えるべく、会社にある安物のデジカメを取り出して来て、自分の机の上で蛍光灯を照明代わりに、カシャ、カシャと数枚、イメージショットを撮った。
………悲惨。なんやこれは。やっぱ機材があるスタジオで撮らんといい写真は撮れん。。何クソ、ここはPhotoShopで美容整形じゃ。。奮闘すること1時間。どうにかこうにかイメージ通りに修正完了。使用前と使用後。みなさん、わたしこんなに美しくなりました。
といって、パワービーズの本品が決してブサイクなわけではないので誤解なきよう。あくまでもカメラがボロいのである。この製品のガラスケースはふた上部にNCのマークが入っていて、ビーズのレイアウトも生命力のシンボルである渦状になるよう特別注文したものだ。ケース代だけで5000ロットで500万ぐらいかかっているから、一つ当たり原価で1.000円はする。それにガラスケースにもエネルギーをかけているので、この中にお気に入りの宝飾品などを入れておけば、自然にそれらもエネルギー化される。エネルギーが分かる人にとっては、実に重宝なもの。社長が言うのもへんだが、ただ、ちょっと値段が高いのが玉にキズ。これは代理店などの絡みがあってなかなか価格を変えれない理由があるからなんだが、いずれ、より良心的な価格帯に引き下げるつもりなので、興味がある方はそのときにでもお試しあれ。
こうして、全く同じ被写体でも、陰影の具合や、彩度、明度などによってガラリと印象が変わることが分かる。日々の出来事を看取する感受性についても同じことが言えるだろう。一つの出来事が起こったとして、それを悪いものと取るか善いものと取るか、醜いものと取るか美しいものとして取るか、それは受け手側の感度の問題なのである。君は被写体深度をどこまで感知できているか。できるならば、この感度の能力を日々、延ばしていくようにするのが望ましい。コントラスト調整はどうだ?うまくいってるか?彩度はどうだ?心地よいか?明度はどうだ?とびすぎてはいないか?君のこころに光と闇があるということは、生きることとは一つの光学だということだ。魂の光学。人は皆、この光学を学ぶために生きている。
おっと、いかん、もうすぐトーラス氏とチョコボ氏がくる。ほんじゃ。
3月 30 2005
他者の顔
昨日はトーラス氏とチョコボ氏に続き、夜中、東京ヌースレクチャーのメンバーでもあるS氏とG氏が連れ立って来襲。閑静な住宅街の片隅にあるアカデメイア事務所は、一瞬にしてむさくるしい男どもの寄宿舎と化した。
トーラス氏とチョコボ氏の来福は前もって連絡を受けてはいたが、S&G(間違ってもサイモンとガーファンクルではない)まで来るなんて寝耳に水。おまえら社会人なんだから、人の所に泊まりにくるときはちゃんと前もって電話の1本でも入れんかい。最高のホスピタリティーで迎えてやりたくても、これじゃ寝床の用意もできんやないかー。ということで、昨夜は二つの布団を中年男4人でシェア。トーラス氏とチョコボ氏には気の毒な一夜だった。この四名様ご一行、今晩もここアカデメイア事務所に宿泊の予定。今(午後6時現在)は、近くの二日市温泉というところに行って留守だが、おそらく、そろそろここが我が家であるかのような顔をしてワイワイガヤガヤと戻ってくることだろう。すでに今夜のスケジュールも整っている。夜は全員でワールドカップ「日本VSイラン戦」を見ながら騒ぎまくり、そのあとは、すき焼きパーティー。その後、ヌース談義。たぶんS&G(間違ってもサイモンとガーファンクルではない)の二人は「激論!朝まで生ヌース」に突入するはずだ。
ヌースのレクチャーを長年やってきたことによる財産。それは人である。ヌースのレクチャーには老若男女を問わずいろいろな人がやって来る。経営者、大学の先生、学生、霊界おばちゃん、主婦、プータロー、アーティスト、お坊さん、OL………本来なら、絶対に交差しないような人種同士が、ここでは交差し合い、特に2次会では、互いの人生観などを夜遅くまで語り合う。某放送局でやっている「しゃべり場」のもっと濃いやつと思っていただければよい。
考えてみると、日本では、宗教団体の会合以外にこういった場所がない。年齢も、職業も、趣味も、それぞれが抱えている日常的な問題意識も全く違った人々が、一同に集まり、宇宙のこと、人間のこと、未来のこと、その他もろもろの等身大の形而上学について、忌憚なく語り合う。みんな主張はバラバラだ。しかし、誰一人、我を通そうとする者もなく、ときに口角泡を飛ばしてやり合うこともあるが、和やかで楽しい時がすぎていく。こうした調和は実に心地がよい。そこには無数の生きている無名性の顔がある。笑う顔、物憂げな顔、眠そうな顔、おどけた顔、不機嫌な顔、怪訝な顔……これらの顔はどこからやってきたのか。そして、これらの顔はどこへ行ってしまうのか。そんなことを考えていると、ベンヤミンではないが、やっぱり、みんなの顔が無数の星座に見えてくるのだ。語らうことなくして生はあらず。語らうことなくして宇宙はあらず。語らいは星と星の間に引かれた線だ。
ちなみに、古代エジプトの神オシリス(Osiris)とは、os-irisたくさんの目という意味でもある。。他者の顔貌とはヌース理論においては神々に等しい。……… しゃーないなぁ。S氏とG氏もせっかくはるばる遠いところから訪ねて来てくれたんだから、優しくもてなしてあげんとね。朝までヌース………、わたしも付き合うとするか。。。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 4