10月 28 2014
鏡を割って、鏡を開く
羸都鏡(おきつかがみ)/ 十種神寶圖形譌に曰く、古傳圓鏡異名也、亦外宮神體を為す、故水鏡と云ふ。亦、物部氏十種瑞寶秘傳に曰く、白銅圓鏡也、或説金鏡、日象之鏡、在人者陽、火気鏡也、大宮賣神所掌也。………これは他者の視野世界のことです。
邊都鏡(へつかがみ)/十種神寶圖形譌に曰く、古傳八咫鏡異名也、亦内宮神體を為す、故火鏡と云ふ、右両圓者は上古鏡架也、鏡形から脱す者也。亦、物部氏十種瑞寶秘傳に曰く、白銅圓鏡也、或説銀鏡、月象之鏡、在人者陰、水気鏡、御気都神所掌也。……自己の視野のこと。「鏡形から脱す者也」の部分、要注意。
オキツカガミ(外宮神体)とヘツカガミ(内宮神体)。一言でいえば、他者の視野空間と自己の視野空間の関係のことを言っている。今の人間は他者の視野空間に支配されていて自分の視野空間が開いていない。つまり、外宮のみに世界を見て、肝心の内宮神体が沈んでいる。
僕がいつも「真の奥行きを取り戻せ」と言っているのは、このヘツカガミをきちんと立てるためなんだけど、ヘツカガミが立つと、内宮の風景が見え始め、写し合う二枚の鏡の関係によって、神話でヤタノカガミや八重垣で象徴されている四組双対の空間階層が見えてくる。
その第三階層と第四階層にあるのが、生玉(イクタマ)と死返玉(マカルガエシノタマ)、足玉(タルタマ)と道返玉(ミチガエシノタマ)だ。それぞれ互いに反転関係にある。OCOT情報が順に「位置の等化」「位置の中和」「位置の変換」「位置の転換」と呼ぶ空間概念に対応している。。
外宮で遊ぶ鏡形から脱し、内宮から外宮へと至る逆の道を開くこと。そこに他者との真の出会いの秘密(火水)の場所がある。
12月 9 2014
ヌーソロジーの量子論解釈
11月のレクチャー資料done。量子論と意識の関係がかなりコンパクトに整理できた感じ。だけど、この内容、果たして4時間で話せるのかどうかチト不安。。
まずは簡単に量子力学の世界がどんな世界なのかをイメージさせる話に始まって、波動関数や、微分演算子の描像にトライする。こんなことは誰もやったことがない。だから、それが革命的な試みなのか、最大のトンデモなのかは、後世の人たちの判断に任せるしかない。
僕自身の現在の量子論に関する見解はおおむね、次のようなものだ。
主客未分離の状態から主体と客体がどのように出現してくるのか。量子論はその仕組みをすでに構造として把握している。でも、その構造に何の意味付けもなされていないために、単なる数学的形式の表現のみにとどまっている。それもこれも、物理学的思考が量子をあくまでも客体的対象として見なすクセから脱却できていないためだ。時間と空間をベースにして量子を記述すると、必ずこのクセの術中にはまってしまう。というのも、時間と空間が主客分離の本質的な要因となっているからだ。僕のなかの存在感覚では、時間が客観性を作り、空間が主観をまさぐっている。
こうしたクセを矯正していくためのポイントはただ一つだけのように思う。複素空間を構成する虚軸と実軸を単なる数学的観念の産物と捉えずに、そこに心理的に当必然的と思われる意味を直観することだ。それが、いつも言っている3次元空間の中で同一化してしまっている奥行きと幅の差異化に通じている。奥行きは虚軸、幅は実軸。もちろん、この虚軸には〈見るもの=持続持続〉、実軸には〈見られるもの=イメージ〉の意味が含意されている。世界には自己と他者がいるので、この奥行きと幅で構成される複素平面は2枚設定されることになり、知覚野は複素2次元空間へと変貌する。
こうした空間の形式を世界にセットした瞬間に、わたしたちの空間は一気にアルケーとしての無限小世界へとワープする。見ている世界はもう時空ではなく、世界の発生論的境位、つまり、現象学的始源となるということだ。世界は今から創造されていく——この反転の空間認識が物理学を真の自然学へと変容させることになると思っている。カバラにあるツィムツームを、具体的な思考の結実として反-現実化するためには、物理学がその根幹になければにっちもさっもいかないのだ。
わたしの精神は明確にある痕跡としての線を辿っているのであり、わたしの思考もまた、その線に沿って振動している。その線を思考自体が見出さないかぎり、思考はつねに無意識を茫洋としたイメージでしか追うことができない。エクステンドも大事。クラルテも大事。しかし、エクステンドはクラルテがあってこそ、ディオニソスの酩酊から、華麗なるヌースへの変身を遂げることができるのだと思っている。そこには生成を生成たらしめていく調和のハルモニアがある。
この「存在すること」から「生成すること」への不連続的連続とも呼べるような接続。ここに降り立つのが光子〈フォトン〉だと思っている。OCOT情報は「存在と生成の等化」という意味で、この光子のことを「真実の人間の精神」と呼んでいる。OCOTに拠れば、光子とは存在の精神を反転させ、それ自体に進化をもたらす力のことである。世界を存在と生成に二分割した黄金比そのものの力と言っていいだろう。photonの接頭語phは黄金比φ=phyからの派生でもあるのだ。
人間は無意識の発展の歴史に伴って、時間に対する感じ方を変えてきた。ドゥルーズの時間論を参照すれば、現代とは第三の時間が支配的な時代である。第三の時間とは、たががはずれた時間、発狂した時間とも呼ばれ、単に物差しのように直線化してしまった時間のことを意味している。こうした時間の中では、もはや、人間は時間として生きる存在ではなく、時間の中で生きる存在となり、時間は現実としての人間の生からかけ離れた生態を持つようになる。
ドゥルーズにとって、このことは朗報のようだ。この直線化した無限の時間は、永遠回帰の前触れでもあり、この時間の先には別の円環へと繋がる契機があることをドゥルーズは示唆している。時間はそのとき、その頑な直線性を無限遠点の到来とともに円環に丸めこみ、世界に根源的時間の出来を用意するのかもしれない。ヌーソロジーはそこに関わっているという自覚がある。
しかし、ドゥルーズがいう第三の時間の極限には単なる円環化や捻れだけではなく、分岐があるということ。それを明言しておきたい。数学的には直線的時間を象徴する「−1」という時間の計量が二本の「i」(虚軸)へと分離していくということ。それによって、外在世界はすべて始源から見た風景へと塗り替えられ、父に支配されていた物質は、母なる物質マリア・マテリアへの変容を見せていくのだと思う。
何はともあれ、この母なる物質世界への侵入が、ヌーソロジーの量子論解釈から始まる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, ツィムツーム, ドゥルーズ, 複素2次元空間, 量子論