6月 29 2005
射影幾何学入門
博多のジュンク堂で数学書のコーナーを見て回っていたら「射影幾何学入門」という本を見つけた。今時、射影幾何学などいった分野は流行らないのだろう、書棚の隅にポツンと一冊だけ孤立したかのように置いてあった。わたしの中では、最近、視野空間がマイブームなので、何かの役に立つのではないかと思い、手に取ってみることに。
ページをめくってみてビックリ仰天。まず、いきなり出足の章のタイトルが「古代エジプトと幾何学的精神」ときた。そして、文章自体が明らかに数学書のそれではない。カルシウムがサル(塩)的な力を持つとか、天秤座は黄道12宮の中で唯一、無機物であるとか、極めて錬金術的なインスピレーションに富んだ文章がちりばめられているのだ。これって、ほんま、数学書かいな?と訝しがるわたしを差し置いて、この本はイケイケドンドンでガンガン飛ばしてくれる。「ユークリッド的計量は天上的なものの地上化である」「月とは物質、太陽とは精神である」等、アクセル踏みっぱなし。。そして、中盤からは何ひとつ臆することもなくシュタイナー思想が堂々と紹介されているではないか——まさか、数学の専門書のコーナーでシュタイナーに遭遇するとは思ってもみなかったので、思わず、その場で立ち尽くし、生唾をごっくん。ページを次々に読み進んだ。ところが、これが面白い。面白すぎ。
何ぃ〜?射影空間はエーテル的空間で、ユークリッド空間は物質的空間である——だとぉ〜。射影空間においては点と面は双対関係にある——双対射影空間から生まれる双対ユークリッド空間のことをシュタイナーは負のユークリッド空間、もとくはエーテル空間と呼んだ——だとぉ〜。。今までヌース理論の空間論、特にψ1〜ψ2、ψ3〜ψ4という観察子概念の構築の中で考えていた内容とそっくりそのまま同じことが、別の言葉できっちりと定格化され説明づけされているではないか。と言って、この内容はニューエイジを対象とする妖しげな通俗書の類いでもなく、射影直線に始まって、射影平面、射影空間と、数式が苦手な読者にも射影幾何学の醍醐味が分かるように親切丁寧に構成されてもいる。おまけに、植物や動物の形態形成がある程度は射影空間の考え方で説明できること、さらには、プラトン立体に関しても射影幾何学的な見方から野心的な示唆を施したりもしている。こんなスタイルの本、数学書としては初めて読んだ。実に気持ちのいい快著である。
著者の丹波敏雄氏は津田塾大の教授をやっている方らしい。長年、ゲーテ・シュタイナー的自然科学を研究されている御仁だということで至極、納得。この本自体は、20世紀前半にシュタイナー思想をもとに幾何学研究を行っていたG・アダムスやL・エドワードの仕事を通して、射影幾何学の解説を試みることを主眼に置いているようだ。
この著書の中で、丹羽氏は、射影空間を特徴づける公理がユークリッド空間のそれよりも対称性に満ち、単純な形をとっていることから、射影空間は原型的な空間であると断言している。ヌース理論の言葉でいえば、射影空間は外面的であり、ユークリッド空間は内面的であるということだ。その意味で言えば原型的な空間は、感覚そのものを受容する空間であるがゆえに、感覚の対象でなく、理念の対象となる。ヌース理論をよりふくよかな体系に肉付けしていく上で極めて重要な一冊だと感じた。一読をおすすめする。
6月 30 2005
物質と文字
かねてより製作中であった「7の機械」の最終調整も終わって、最終工程として予定していた機械名の刻印作業を行った。直径80cm、厚さ8mmのステンレス板の表面をヘアライン加工し、そこに深さ0.5mmほどの文字彫刻をレーザーで入れたのだ。加工業者にはかなりの金額を取られたが、名付けの刻印は製作物においては、その製作物が持つ機能と同等、いや、それ以上に重要なものではないかとわたしは思っている。こうしたところに金をケチるやつはモノを奴隷としてしか見ていない人種である。
“文字(言語)の理念性は文字(言語)の物質性と切り離すことができない” これは、かのデリダが語ったことだ。その意味では、現代では文字の理念性はすこぶる弱まっていると言える。実際、象徴界の勢力がヘタってきてることは、昨今の「活字離れ」を見ても明らかだが、テキストがPCや携帯端末などのモニター上で表示されればされるほど、書かれたものとしての「エクリチュール」の力は人間の意識活動から姿を消して行っている。デジタルカルチャーの中では、”刻み込み”がないがゆえに、文字と物質性との関係は極めて希薄で、かき消し、書き直しなどの改竄は極めて容易となる。歴史の歪曲でさえデータの置き換え操作一つで済んでしまうのだ。これは権力機構にとっては格好のシステムである。
ピラミッドテキストに代表されるように、古代のエクリチュールはそのほとんどが石に刻み込まれた。存続性の高い固い物質性抜きに文字は存在し得なかったのだ。グーテンベルグが発明した活版印刷でさえ、それは刻印の一種と言っていい。その命脈は現在の「本」にも流れている。印刷された活字とは文字通り活動する文字のことなのだ。しかし、ここ20年で状況は一変した。活字の死が至るところで見られる。手紙がFAXに変わり、FAXが電子メールへと姿を変えることによって、活字が持つクオリアはその物質性の減衰とともに完全に消失していっているような気がする。情報(inform)のみに価値を置く肥大化した関数脳が、リアルな物質(outform)を享受する感覚脳を駆逐し始めているのだ。そこに展開される文字の情景は救いがたいほど荒涼としたものだ。
墓石や記念碑が、JRの山手線の電車内広告のように、TFTパネルで表示されたとしたらどうだろう。そこには綿々と流れる物質的時間の歴史の芳香は掻き消え、正体不明ののっぺらぼうな無時間性が姿を表すことだろう。こうしたのっぺらぼうな無時間性は”存在の死”の名に値するようにも思える。この領域に少なくとも、わたしの生きたこころにはタッチできない。裏を返せば、こうした風景は物質が魂に働きかけを失ってしまった場所でもあるのだ。その意味で、物質にダイレクトに刻まれた文字は、こころに刻み込まれる言葉と深い関係にある。こころに刻み込まれる言葉とは、わたしの情動を深く突き動かす力でもあるだろう。深い情動は、わたしの創造力と意思にダイレクトに働きかける。文字は再び、心への刻印として浮かび上がるべきである。
デリダは、イメージ(図像・形態表象)とシンボル(記号・文字・象徴)は全く別なものであると語っていたような気がするが、これからの新しい時代に立ち上がる文字は、これら両者の差異を埋めることの出来る文字であるべきだ。それは必然的に従来の文字の起源となった図像、形象にわたしたちを導くことになるだろう。「あ」はなにゆえに「あ」と書くのか。「Ω」はなにゆえに「Ω」と書くのか——そして、また、そこに託された意味は——。そのときわたしたちは名の「刻印」から解放され、今度は名付ける者となるべく、その準備に入るのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 3