4月 12 2005
ステンレスシャフトの魂
今日は昼から町工場に出かけた。NCジェネレーター用のコイルシャフトの試作が出来上がったのだ。オールステンレス製のすぐれ者。へへ。こんな部品は世界中どこ探したってないだろう。試作品はシングルコイルだが、本番にはツインコイルで臨む。果たしてシャフトがコイルの通り道を邪魔しないか。それを確かめるための試作だ。今夜からさっそくテスト開始。
それにしても、試作品の出来上がりが予想以上にシャープでカッコよかった。このまま現代アートのインスタレーションとして展覧会に出品しても十分に通用しそうなオーラをあたり一面に出している。あたりまえだ。こやつは、そんじょそこらの造形とはわけが違うのだ。ヌースのロジックをたっぷりと含み込んだ、イデアジューシーな設計なのだ。美の臨在感がそこらじゅうにみなぎるのは当たり前というもの。わたしはこの構造について一週間でも語れる。その語りを押し出している観念のエネルギーがこの形態の中にはすべて詰まっている。それがこの造形をただの金属棒とは違うものにしているのだ。………って、そう思ってるのは自分だけ(笑)。しかし、この自己陶酔のナルシズムこそがアーティストの絶対必要条件。
しかし、ステンレスの質感ちゅうのは何とクールなことか。これにして正解やったな。。。というのも、実は、素材を決定する段階ですったもんだがあったのだ。シャフトを何で作るか——最初、候補に上がっていたのは、鉄、アルミ、銅、ステンレスの4種類の素材であった。これらはヌース理論では次のような働きを持っている。
鉄——付帯質の力の本質/人間の情動力の核となっている
アルミ——顕在化した力の変換作用/位置の変換の力
銅——位置の等化の観察力/電子の上次元作用のカタチ。
ステンレス——鉄とアルミの等化の範疇?/OCOT情報ナシ
最初は軽量さとM・デュシャンを意識してオール・アルミで行こうかとも考えた。しかし、先日、ここを訪れたS氏の一言が妙にひっかかりステンレスに決めたのだった。彼はこんなことを言った。
「半田さん、資本主義の精神は二つの金属に支配されていると思います。プレモダンは鉄。モダンはアルミです。どうですか?」
「Sさん、それオモロイ。前期資本主義は26で、後期資本主義は13というわけだ。(26番は鉄原子の元素番号、13番はアルミニウム原子の元素番号)」
13番のアルミニウムについては、デュシャンが大ガラスという代表作の中で、3次元と4次元の境界にあたる膜の部分の素材として使用していた。だから、わたしもNCジェネレーターの材質はアルミ中心で行こうと考えていた。しかし、S氏のこの一言で考えを改めた。ここには動物的なもの、つまり、情動の海の力が必要なのだ。鉄とは情動の海と言ったのは確かニーチェだったか。アルミにとけ込む鉄。モノにとけ込む情動。情動に入り込むモノ。。資本主義はまさにその反復力によって歩んできた。すでにこの反復力にも翳りが見え始めている。最終構成の金属。。。このステンレス製のシャフトにはそういった思いが込められている。
4月 13 2005
アビエーター評
今日は会社が終わった後、家内と二人で映画のナイトショーへと出かけた。取り立てて見たい作品があるわけでもなかったのだが、スコッセシとディカプリオがタッグを組んだ「アビエーター」という作品を観た。この作品で今年こそディカプリオがオスカーを取るのではないかと噂され、結局、見事、空振りに終わった作品である。見て、なるほどと思った。これではオスカーは難しい。
ディカプリオはとてもうまい役者だ。ジョニー・デップと共演した「ギルバート・グレイブ」での身障者の演技や、「太陽と月に背いて」のランボーの役などを見る限り、彼は天才としか思えない演技の閃きを持っている。しかし、タイタニックの大ヒットが余計だった。あの狂い咲きのせいで、ディカプリオ=タイタニックというイメージがあまりに先行してしまい、観客側に取っては他のキャラへの感情移入を阻むレオキャラが無意識のうちにできてしまったのだ。幸か不幸か、役者がそうしたキャラを持ってしまうと復活には10年はかかる。ディカプリオはこの「アビエーター」でもかなりの熱演をしているのだが、どうしても、わたしの中でハワード・ヒューズへと変身してくれない。そのもどかしさが3時間というただでも長い上映時間をより冗長に感じさせた。スコッセシの演出手法が少し中途半端だったせいもある。やっぱり、今のディカプリオでは、この役柄はちと荷が重すぎたのではないか——。
まぁ、ディカプリオ評はともかく、この映画の中で描かれているハワード・ヒューズという人物、わたしも詳しくは知らなかったのだが、それこそ時代の嬰児と言っていい人物である。18歳の彼が親から莫大な遺産を受け継いだのが1920年代。この時代はいわゆるローリングトゥェンティーズと呼ばれる時代で、19世紀の古い価値観が音を立てて軒並み崩壊し、モダンへの構造変動が津波のように押し寄せて来た激動の時代だった。ハワード・ヒューズはその受け継いだ全財産を映画と飛行機へと惜しみなくつぎ込む。映画と飛行機。これらの技術はまさにプレモダンからモダンへの移行を象徴するテクノロジーでもある。こうしたテクノロジーに臆面もなく素っ裸の人間として魅了されていくヒューズは、この時代を疾走して行く無意識の高波の上をさっそうと滑っていくサーファーのようにも見える。
墜落事故で命を落としそうになっても、ただひたすら「速く飛ぶこと」の強度に魅かれ続ける彼の享楽的な生き方。その一方で、彼は極度の潔癖症でもあった。見えない細菌の恐怖に対して異常なまでの恐怖心を抱くのである。この分裂症的な気質と神経症的な気質のコントラストは、まさに資本主義という欲望機械がもった光と影そのものではないか。ヒューズはこの陰影をあまりに強烈に刻み込まれた魂の一つだったのだろう。この映画のタイトルにもなってる「Aviator」。これは飛行士、操縦士という意味だが、彼が操縦桿を握っていた場所は、間違いなく資本主義という欲望機械のコックピットだったはずだ。映画のラストシーンで精神を病んだが彼がひたすらリフレインするthe way of fututeという言葉。。それは、操縦士が墜落死したあとも尚も回り続けているプロペラ音のようでもあった。
ちなみに、今話題のホリエモンをこのハワード・ヒューズと比較したがる人たちがいるようだが、日本人の未来のためにもそんな想像は止めよう。あまりにも悲しい、あまりにもむなしい夢想ではないか。。。
全編を通して流れる古き良きアメリカのスタンダードナンバーが最高だったのて、わたし的には★★★ぐらいの作品。ただし、レンタルビデオ屋で借りれば十分である。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 4