7月 11 2005
複素2次元空間
最近のわたしのマイブームは先日も書いた通り「虚数空間」である。ここ数週間というもの、そのことばかりが気になって目の前にはいつも「i」の文字がチカチカと点滅している。どうしてそんなに虚空間に固執するのか。その理由はほかでもない。視野空間を複素空間に結びつけるロジックをどうしても作りたいがためだ。ヌースをことさら難解な体系にする気など毛頭ないのだが、わたしたちの知覚野そのものが素粒子の内部にある、というヌースが持ったドラスティックな反転論に一定のコンセンサスが得られるようにするためには、通過儀礼としてこの虚数空間のナゾを解く必要がある。
虚数空間とは何か——先だっての「スターピープル」の原稿にはいろいろな理由をこじつけて「それは奥行きである」と書いた。例の交合円錐の空間がそれだ。しかし、論証はまだまだ不十分だ。わたしたちは三次元空間を先験的なものとして受け入れているが、世界をあるがままに見たとき空間は3次元ではなく2次元である。奥行きは「見えない」という意味で、文字通り虚的なものでしかあり見えない。奥行きは、普通はコンピュータビジョンで取り扱われているように、二次元の射影空間として片付けてられてしまう。しかし、それだと空間の三次元を前提としていることになる。話はどうどう巡りである。赤ん坊が見る空間は果たして射影平面かというと、そうじゃなかろうと思うのだ。もっと原型的な空間なはずだ。三次元は他者との奥行きの交換によって後天的に成立するもので、先天的にそんなものは存在しない。奥行きはその意味で極めて心理学的な方向が絡んでいる。眼前に他者の眼差しがなけれなければ空間の三次元性は生まれ得ないだろう。赤ん坊の中では三次元は醸造中であって、まだ、それ以前の段階である。そうした原形質のようなグニャグニャした空間。。そこに虚が暗躍しているのだ。
奥行きには二つのタイプがある。対象の背後と対象の手前、これらは全く意味合いが違う。当たり前の話だが対象の背後は見えない。つまり想像的なものである。対象の手前は見える。こちらは現実的なものである。おそらく、この〈想像的/現実的〉という対立関係が、虚数空間のプラスとマイナスの二つの方向に深く関係している。当然、自他においてはこの関係が逆転しているので、それらを総合して考えると、どうしても上図に示したように複素2次元としての空間のイメージが立ち上がってくるのだ。複素2次元とは複素平面が二枚直交して組み上がる空間である。左右・上下という実の二次元が鏡として前面に用意され、奥行きという虚の二次元が自他の眼差しが交差し合う二本の虚軸として出現する。これが原型的空間の在り方に違いない。これは、いわゆるヌースの言葉でいう「元止揚」空間である。二本の虚軸は無限の映り込み合いを行うために、結果、無限次元の空間を提供してくる。この無限次元の空間が意識の回廊としてのケイブである。実存世界はその意味で2次元+∞次元として構成されているはずだ。
物理学的に見ても虚数軸のプラスとマイナスの方向は世界の創造と被造に深く関わっていると推測できる。これは実時間と虚時間という二つの時間軸の関係でもある。先日書いたトートとプタハの勢力関係もこの軸と無縁ではないだろう。物理学では時間tを虚時間Itに置き換えるウィック変換という数学的操作がある。この変換によって4次元時空は4次元空間へと変換できる。つまり、内面世界である4次元時空はこのIを-iに変換することによって、外面の4次元空間へと姿を変えることができるのだ。このひっくり返りは、物理学者たちが言っているように、世界を一気にアルケー(始源)へと運ぶ。それは永遠回帰が「今、ここ」に巡ってくるということでもある。
古きアイオーンの「はじめ」が天地の出現であったということは、それは実の時間の始まりとも呼べるものだろう。しかし、新しきアイオーンの「はじめ」は、虚時間の始まりを意味する。それは言い換えれば天地の創造の時間である。十字架から丸十字へと眼差しを反転させること。奥行きに福音の鐘を響き渡らせること。新しいアイオーン(時代)の開始を告げるラッパの音をそこかしこに響きわたらせること。それがヌースに託された使命だ。
7月 13 2005
モーターサイクル・ダイアリーズ
今年の初め頃、劇場公開されて話題になっていた作品だ。チェ・ゲバラの青春時代を描いた映画ということでDVDがリリースされたら見ようと思っていたが、ビデオ屋でレンタルされていたので即ゲット。早速、昨夜,鑑賞した。
わたしがゲバラについて知っていたことと言えば、キューバ革命の指導者カストロの盟友だったということ。革命を成功させた後、自らは為政者の座にはつかず、そのまま他国の革命戦線へと向かったこと。CIAの手によって暗殺されたということ。ジョン・レノンのアイドルだったこと。そのくらいだった。彼がどういう生い立ちで、どういった青春時代を過ごしたのか。——スペインの植民地支配に虐げられた労働者の息子として生まれ、少年時代は生活苦と差別に苦しみ云々、というように、どう想像してみても、こういったお決まりのイマジネーションしか湧かなかった。
映画がスタートして、のっけからわたしの想像は大きく裏切られる。ゲバラは何と医者を志す裕福な家庭のお坊ちゃんとして登場してきたのだ。そうしたお坊ちゃんゲバラが医大卒業を前にして、友人の生化学者グラナードと一緒にオンボロバイクでツーリングの旅に出る。まあ、日本でもよくある卒業旅行の類いだ。道中、ゲバラは旅日記をつけていくのだが、この映画はそのとき書かれた手記が原作となっている。旅日記と言っても、アルゼンチンのブエノスアイレスをスタート地点として南米大陸をグルリと一周し、最後はベネズエラに到着するまで総計約1万kmを超す一大ツーリングだ。時代も今から50年以上も前のこと。バイクの性能も悪いだろうし、もちろん高速道路などといったものも整備されていない(もっとも南米は今でもそうだろうが)。これは相当に過酷な旅だ。カメラはそうした二人の道中を淡々とした目線で追っていく。
映画の前半は、タンパの大平原を駆け抜けながら、いかにもロードムービー然とした雰囲気で進行していくが、後半、チリに入ったところぐらいから一変してゲバラ自身の心情的な変化、成長へと主題がフォーカスされいく。そこから画面のトーン自体もガラリと変わり、アンデスの深い山々の神秘性も手伝ってか、ちょっとヘルツォークの作品を見てるような気分になった。
効果的に使われる音楽。南米の大自然の風景。そして、古代アンデス文明の遺跡群。ハンセン氏病の治療所での日々。おそらく原作に沿って忠実に映像化されていったのだろう。後半に多少、感動的なエピソードは挟んであるものの、これといって大げさな演出もないし、見る者の感情をいたずら煽るような音楽の多用もない。しかし、映画がラストのエンディングへ入って行くときに、何とも言いようのない不思議な感動が襲ってきた。涙が止まらないのである。ネタバレにはなるが、それはアンデスの人々の「顔」の力によるものだ。これが人間の顔だと言えるような顔——。中南米の先住民系の人たちの顔貌には何か独特の霊気が漂っている。一言で表現するのはとても難しいが、生きとし生けるものすべての詩情がかたちとして現れたものとは、こうした「顔」のことを言うのではないか。そういう感情がどっと溢れてくるのだ。エンディングではこうした顔の数々が次々にフェイドインしてはフェイドアウトしていき、その最後にゲバラと一緒に旅をした、現在の年老いたグラナードの顔が大写しにされる。………ん〜、たまらんよ、この編集。
——この作品の中でゲバラは終始、純真で生真面目な一青年として描かれている。たぶんそれは真実なのだろう。いつの時代でもそうだが、革命の動機にあるのは、宗教的イデオロギーでも高尚な哲学でもない。世界を赤ん坊に戻すことを夢見る純真な子供の心だ。その意味で革命の欲望は寓話的な力である。それは少年の夢、少女の夢と言い換えてもいい。戦争ごっこか花摘みごっこか。おもちゃの鉄砲を取るか、野バラを摘むか。この二つは必ずセットで動く。いずれにせよ、少年と少女の性転換が必要である。60年代後半のあの有名なシンボルを思い出そう。人に突きつける銃口を、花を迎え入れる一輪挿しの鉄筒に変えること——それ以外に革命の成就はない。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 1