5月 1 2005
ウィンターボトム監督 2
昨夜「in this world」を観て、ウィンターボトムがちょっと気になる存在になったので、さっそくビデオ屋から彼の最新作の「code46」をゲット。昨日の「in this world」がまだ頭にこびりついていたせいか、最初は作品のテイストの違いにちょっと戸惑った。しかし、観ているうちに、その映像感覚に脱帽。へえー、こんな映像取れる人なんだぁー、とひたすら感心して観てしまった。「code64」の方は、うって変わってSFもので、硬質な叙情詩風の作品である。舞台は近未来の上海。この上海がまたすごい。リドリー・スコットが「ブラック・レイン」を撮ったOSAKAの街もきれいだったが、このウィンターボトムの描く上海ははるかその上をいっている。時代設定は数十年後だったと思うが、そこではすでに国家概念も希薄になり、世界全体があたかもEUのような統治機構を敷いている。社会はすでにクローン技術も容認し、その制度によって生まれた人間たちも実社会に入り込んで生活している。ただ、優勢学的見地から遺伝子が両親と25%、50%、100%一致する可能性のある生殖は禁止されている。その禁止コード名が「code46」というわけだ。つまり、クローン人間が一般人と混じって生活しているので、いつどこで、近親相姦が起こるか分からない。この映画の場合、主人公ウィリアム(ティム・ロビンス)が出会って激しい恋に落ちるマリア(サマンサ・モートン)が何と自分の母のクローンだったという設定。
このcode46の映画評を見ると、単なる不倫ものの映画にこんなややこしい設定は必要ないだろう、とか、S・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」のSF版とかいった、おバカな意見をのたまっている評論家もいたが、個人的にはこの映画は一つ間違っていれば大傑作になっていた可能性があるのではないか、と感じた。しかし、一つ間違わなかった(笑)。その意味で、無茶苦茶惜しまれる作品ではある。何が良かったかと言って、やっぱり、この人、映像と音楽のマッチングセンスが近来稀に見るくらいいい人だ。とにかくそのマッチングによって醸し出されてくる叙情感の質がとても新しい。カメラアングルが凝りすぎてちょっと食傷気味になるところもあったが、音楽センスがそれを十分にカバーしていた。特に、クラッシュのミック・ジョーンズが禿げたおっつぁんになって「Should I Stay Or Should I Go?」を酒場で歌うシーンにはびっくり。このセンス、すげぇ。。。わたしのようなタイプは唸らざるを得ない。最後のコールド・プレイの音楽もグー。やるな〜うぃんたあぼとむ。。。
傑作になりそこねた要因はズバリ言って二つある。一つは神話素の盛り込みが中途半端だったこと。もう一つは、クローン技術に関するサイエンティフィクな背景と、ポリティカルな体制描写がほとんど描かれていなかったことだ。これらの部分の描写にもう30分ほどタケを長くしていれば、それこそヌーシスト半田広宣好みの最高傑作となっていたのは間違いない。ここでいう神話素とは、ウィンターボトム監督自身は意識していなかったと思うが、この作品が十分に一つのオイディプス物語の系譜を踏んでいるということだ。
code46の46は当然、人間の染色体の数からきたものだが、この母のクローンと生殖関係を持ってしまうというストーリー、これはヌース理論がいつも言っている、人間の無意識の今の現状のことである。さらには、女の名がマリアとなっていること。この役にサマンサ・モートンというちょっと太めの風変わりな女優がキャスティングされたのも、少女性と母性を併せ持つ、そうした両義的な女が描きたかったからだろう。人間の無意識の二つの性格(潜在化と顕在化)とはそういったものである。そうしたヌース的イマジネーションも含めて、この作品のポテンシャルビジョンを広げれば、十分に酔いしれて堪能できる作品である。実に惜しい。★★★★。
それにしても、この監督の名前もすごすぎないか。マイケル・ウィンターボトムだぜ。。。意訳すると、冬至のミカエルじゃんか。いまにもキリストさんが出てきそうな感じ。
5月 4 2005
JムービーはJブービーか。
今年のゴールデンウィークは久々に自宅でくつろいで、ヌースとDVD三昧。何と1日にDVDを2作づつのペースで鑑賞してしまっている。レンタルビデオ屋というのは一度通いだすと止まらなくなってしまうのだが、この惰性的反復を止めるには駄作を続けざまに借りればいい。わたしの場合、そろそろ打ち止めだなっと思ったら、邦画をレンタルすることにしている。今回借りた日本映画は「デビルマン」と「血と骨」という二本の作品だったが。。。わたしの期待通り、またやってくれました日本映画。これでしばらくはDVDを借りたくなくなる。ありがとう日本映画。。。
さて、まず最初に「血と骨」という作品だが、この作品は日本アカデミー賞をはじめとする去年の国内の映画賞のほとんどを総ナメにした作品ということで少しは期待していたのだが、予想通りひどい映画だった。のっけから「ゴッドファザー・Part2」のあまりにも安っぽいパクリ。そして、ラストは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のこれまたチープなパクリ。バクりが悪いというわけではない。どうせパクるのであれば、一度完コピしてからにしてほしい。表面的で安易なパクリは製作者の姿勢が見えて、それだけで、興ざめしてしまう。音楽、演出、カメラ、どれをとっても、賞を受賞した作品にしてはひどすぎる。この映画の場合、確かに予算面の問題もあるだろう。戦前から戦後にかけての昭和のリアルを装っているセットがまるで横浜のラーメン博物館みたいだ。どうにかならないものかこの美術センスは。主演のたけしの演技はすごみがあったが、裏を返せば、この作品からたけしを取ったら何も残らない。にもかかわらず、監督賞、作品賞、主演女優賞、助演男優賞、女優賞、脚本賞………ってほんまかいな、という感じである。★★。
さて、次の「デビルマン」だが、こちらはついに前人未到の境地へと達してしまった。東映バンザイ。東映バンザイ。東映バンザイ。とみんなで三度叫ぼう。東映は、かつて「北京原人」という大傑作を生んだが、この「デビルマン」はそれを軽く超えてしまったのではないか。まだ、21世紀も始まってまもないが、間違いなく21世紀の映画史上サイテーの作品として映画史にその名を残すだろう。もとい、20世紀中に劇場用映画として作られた作品を合わせてもこれにかなう作品はないかもしれない。あの「死霊の盆踊り」より、はたまたあの「シベリア超特急」より、この作品が背負った恥の強度は凄まじい。どこかのサイトに「絶対悪というものがあるということをこの映画は証明した」といった映画評があったが、それは決して大げさではない。見れば分かる。これに比べれば「キャシャーン」は何と輝いていることか。それにしても作品の中でニコニコ顔で出演していた永井豪は自分の最高傑作がここまで辱めを受けて悔しくはないのだろうか。わたしだったら、間違いなく東映並びに製作者全員を告訴するだろう。点のつけようのない作品だが、5段階評価としては★。
しかし、真の問題は「デビルマン」のデキの酷さにあるのではない。深刻なのは、2004年の国内の映画賞を総ナメにした「血と骨」、そして日本映画史上かつてない駄作と評判の「デビルマン」、この両作品が映画の質としてはそれほど大した差がない、という歴然とした事実である。この事実が持つ空恐ろしさこそが現在の日本映画界、ひいては、日本のカルチャー界全般が持った危機の本質なのではあるまいか。
もし、映画が総合サブカルとしてその時代の精神状況というものを反映しているジャンルであるとするならば、現在の日本映画全体が放っているオーラの色が今現在の日本人の精神的実状であるということをわたしたちは認めなくてはならない。レンタルビデオ屋に行って、邦画のコーナーの前に立ってみるといい。そこには何とも言えないグロテスクな波動が満ちている。別にホラーものが流行っているという理由からではない。SFもの、青春グラフティーもの、コメディーもの、社会派もの、ヤクザもの、etc………すべての作品がおしなべて不純で安易に見えるのはわたしの思い込みか。マーケットをなめている。プロ野球と同じで、これも豊かすぎる社会が生み出した余剰な脂肪分というところか。。。
日本人は技術的なものよりも、感性的なものを重んじるというが、そんな一人よがりの夢想などは今すぐに捨て去るべきだ。技術なきところに感性なし。ハリウッドを真似た韓国に倣う必要はないが、まずは、映画のイロハをしっかりと学んだ映画人を要請する場を作るべきだ。感性を云々するのはそれからだ。
By kohsen • 09_映画・テレビ • 7