4月 9 2005
ちらし寿司と花見
暖かい1日だった。絶好のお花見日和ということで、午後から家内と二人でちらし寿司弁当片手に福岡城趾へとお花見に行く。予想通りの人の多さ。学生らしき集団があっちやこっちで一気を開催中。いかれたアホのコンビが裸になって木によじのぼっている。こっちじゃ、会社の研修会の続きでもやっているのだろうか。。周囲の喧噪にかき消されそうな中で一人の若者が自己紹介をやらされている。かわいそうに。これじゃ聞こえんぞ。
昔は花見をしている人たちが作り出すこうした汗臭い喧噪が好きだったが、年のせいか、最近はやはり疲れる。どこか、もののあわれの雰囲気に囲まれて、ゆっっくりと特製ちらし寿司弁当を食べれる場所はないものか。。と思っていろいろとうろついてみるものの、出遅れたせいでなかなか良い場所が見つからない。わたしも家内もとうとう空腹感に負け、途中、たこ焼き屋といか焼き屋の屋台が出ている最悪な場所の周辺に座り込むことに妥協。結果、全く風情に欠ける花見とあいなってしまった。——これじゃ、白木屋と同じやな。とぶーたれながら、特製ちらし寿司弁当の包みを開ける。。
これほど劣悪で風情のない空間を選んだにもにもかかわらず、桜の枝間を埋め尽くした花々の咲き綻びに意識を集中していると、どこからともなく、あの桜の精のアウラ光線が差し込んでくるの分かる。すると、生者の時間はすぅーとフェイドアウトしていき、代わりに死者の時間がフェイド・インしてくるのが分かるのだ。こうした瞬間に決まって思い出すのが、
桜の木の下には死体が埋まっている——
というあの有名なフレーズだ(確か日本の作家の言葉だったか。)。
——そう。本当は、桜の木の下には数えきれない数の死体が埋まっている。死者たちの魂は木に吸い取られ、死霊として幹や枝葉に宿り、そして何よりも彼らの滴り落ちる血が桜に花を咲かせる活力を与えている。桜の花びらが薄いピンク色なのは、地中に収まりきれなかった余剰の血の色がにじみ出ているからだ。——美の裏に潜む死のイメージ?それとも、死が送り出す美のイメージ?まぁ、よくできた詩的表現には違いないが、やっぱり今イチ、面白くない。so fucking what?。詩や物語はもういい。やっばり、わしはヌースやな。。テキスト早く作らんと——と、生者の時間に戻ってくると、
「このホタルイカのしょうゆ漬け、おいしいね。」とにこやかに笑う家内の顔があった。
「………。」
わたしは無言でうなずいた。確かに旨い……。天気もいい。人々もとりあえずは平和なウィークエンドの午後を楽しんでいる。決めた。来年の花見も、このちらし寿司にしよう。
4月 10 2005
スピノザ効果
今日は、昼近くに起きた。外は昨日と打って変わって雨模様。花見の予定を組んでいた人たちには残酷な天気である。近くのY電機からバソコン用の部品を買ってきたあと、スピノザの『エチカ』を書棚から取り出し、久しぶりに読書の時間を持った。
しかし、日曜日の午後に何でまた『エチカ』なんぞ古めかしい哲学書をほじくり出してきたのか——。それは、最近、ヌース理論会議室の方に顔を出されたgnuさんという方の一言がなかなか頭から離れなかったからである。曰く——ヌース理論は数学に幻惑されている。。。
ヌース理論に使われている数学的定式化が曖昧だ、とか、間違っているという批判であれば、今までも何度かはあったし、こちらもそれらの批判が正当であると感じれば、素直に訂正すればよいだけの話だった。しかし、今回のgnuさんの意見は視点が全く別のところにある。だからこそ、少し気になっていたのだ。会議室の方でのgnuさんとわたしのやりとりを読めばすぐに分かるが、この方はかなり数学ができる方だ。ただ、その割に、こgnuさんご自身は数学をあまり信頼していない様子である。このご時世、医者が医学を余り信じていないというのならまだ話は分かるが、数学者が数学の神を信じていない(少なくともそうした印象を受けた)、というのは結構、意外であった。
さて、ヌース理論は果たして数学に幻惑されているか否か?——ケイブコンパス当たりの解説に、たどたどしい群論や高次元トポロジーの用語が多用されてくるのは事実だが、しかし、それらの記号表現や論理構成に特別の魅力を感じているからというわけではない。ヌース理論に登場してくる「人間の内面」「人間の外面」と言った概念があまりに、群論や高次元トポロジーの世界と相性が良すぎるから、ただそれだけのことである。翻って、このことは、ヌース理論に登場する観察子という概念が、高次元トポロジーの諸概念に唯一実体概念(意味)を付与できる思考体系であることを暗示している。数学者たちが首をひねっている高次元空間にはれっきとした意味があるのだ。わたしの場合、こうした信仰の後押しをしてくれているのがスピノザ、その人なのである。スピノザはデカルトと同時期に活躍した孤高の哲学者である。ヌース理論が「幾何学とは一つの倫理学でなければならない」といつも言ってるのは、このスピノザがしたためた一冊の書物「エチカ」の影響なのだ。
スピノザは人間の認識には三種類のタイプがあると考えた。第一種は「想像知」(imaginatio)で、これは通常の感覚的認識を意味する。第二種は「理性」(ratio)で概念的認識である。第三種は「直観知」(scientia intuitiva)と呼ばれ、これは、概念的認識から、さらにその原因の認識へと進むのだ。言うなれば、認識の認識である。そして、この認識の認識において人間の知性は改善され、真に能動的な神的知性が誕生すると考えたのである。彼にとって、神との合一を果たすこの知性こそが幾何学が持つ本質的精神なのであった………。
果たして数学や物理学抜きで、精神と物質の間に横たわる黄金の環の姿を知性に再現しうるのか——それはやはり難しいだろう。このために、必要なのは新しい数学というよりも、数学に対する新しい解釈である。認識を認識するためのあの第三種の認識に深く関わる幾何学は、すでに既存の数学の中に網羅されていることをヌース理論は直感している。いくぜ、スピノザ!!
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌 • 1 • Tags: ケイブコンパス, スピノザ, 内面と外面