9月 12 2005
NCジェネ参拝
一昨日、昨日と、東京よりR社のF社長とそのブレーンであるA社のスタッフ3人が来福した。
R社のサイトで紹介しているヌース理論のページの全面リニューアルをわたしが要請したからである。
A社はウェブデザインを専門とする会社で、リニューアルを手がけるからには是非、NCジェネレーターを一度見学してみたい、ということで今回の来福の運びとなった。
到着が3時ぐらいの便だったので、社に彼らを招き入れたのは午後4時ぐらいになったが、すぐにNCジェネレーターの設置場所へと案内した。案の定、実物を見るや否や全員にどよめきが起こり、マシーンにしばらく見入った後、全員がカメラを取り出してシャッターを切り始めた。撮影禁止なんてヤボなことは言わない。どうぞご自由に、ただしビデオは駄目。なんだかんだやっているうちに、R社のF社長が驚きを隠せない様子で機械の感想を話し始めた。
「半田さん、これ何かすごいですね。風が吹いてませんか?この機械から風を感じるんですよ。機械の中心に向かって風が吹いてるんです。」
無論、風なんぞ吹いていない。彼独自のエネルギーの感じ方の表現だ。F社長とは10年来の付き合いだが、彼がヌースのエネルギーを体感したのはこれが始めてである。ちょっと興奮気味である。ヌースエネルギーの感じ方には人それぞれ違いがある。多くは手のひらにジンジンと痺れるような感覚を感じたり、指先にビリビリと電気的な力を感じることが多いが、中にはF社長のように風を感じる人もいる。A社のスタッフであるHくんはネイティブアメリカン・フリークで、仕事の合間を縫っては長期休暇を取り、ネイティブアメリカンのリザベーションを訪れるナチュラルスピリットの持ち主なのだが、おもむろに、クリスタルの水晶を取り出しては、マシーンの上で揺らし始めた。何でもこの方法によってエネルギーのタイプが分かるらしい。
始めるなり、いきなり 「うぁー、すげぇー、これ。」と嬌声を上げた。振り子の方を見ると、ひもを引きちぎらんばかりに、ほぼ水平状態の振幅を持ってバカ揺れしている。おまけにグルグルと回り始めた。「こんなの始めてですよ〜。」自らもロン毛を揺らしながら、うれしそうにエネルギーの感触を楽しんでいる様子だった。
最後は、4人全員マシーンの周りで蓮華座になり、メディテーション状態に入った。おいおい、何か勘違いしてないか、これは機械やで。。。
しかし、本当に楽しい2日間でした。また、遊びに来て下さいね。
9月 15 2005
眼から芽へ
現在、ヌース理論のテキストブックの下案作りをヌース会議室の方で進めているが、今日は、1日仕事の手が空いたので、そちらの作業にだいぶ時間を割くことが出来た。
今日考えていたのは「表相」というヌース独自の概念についてだ。独自でもないか。。。フッサールの現象学なんかでは「射映」と呼ばれているが、要は、視野上に顕われているモノの見え姿のことである。ヌース理論では、この「表相」を精神構造における最もミクロな部品と考える。僕らの周囲を見渡してみると、それこそ、多種多様な表相で覆われているのが分かる。様々な形と色とデザインでかたどられた対象の数々。鉱物、植物、動物、人工物、星空、そして、君の顔。僕らの肉眼に写し出されている表相の世界は実に多彩だ。
表相とは別名、見ること、に他ならない。見ること——精神はこの行為によってその活動のスイッチを入れる。当然、見ることのさらなる奥には、触ることや嗅ぐこと、味わうことや聞き入ることなどの諸感覚の働きがあるだろう。しかし、ヌース理論は敢えて、見ることにこだわりたい。なぜなら、見ることは知性的なものの象徴だからだ。ヌースが旋回的知性という名の通り、知性の範疇であるならば、見ることはこの旋回性に無関係のはずがない。人によっては、ヌースがあまりに視覚にこだわるので、おもむろに嫌悪感を示す人々がいる。
「眼は理性の象徴である。それはアポロン的な知性しか呼び起こさない。どうして、眼にデュオニソスの力を再現する力があるというのか。眼によって世界の裏を見透かすことはできない。」
果たして、そうだろうか。僕は、人間はまだ眼の潜在的な力を開拓しきれていないのではないかと感じている。もちろん、嗅ぐことや聴くこと、触ることや味わうことなどによって呼び起こされる共感覚が、無意識を呼び起こす上でとても重要なことぐらい百も承知している。しかし、神の性器は間違いなく眼だ。そういう確信がある。だから、神の生殖に関して思考を巡らすためには、いや、神の生殖をこの世界にもたらすためには、この「眼」についてもっと深く思考する必要があるのだ。
現在、眼は極めて男性っぽい響きを持っている。視姦。覗き見。監視。etc。それは、人間があまりに見ることにおいて、見るものを意識しすぎているからだろう。しかし、それも無理はない。見るものがどこからやって来たか知らないのだから。受け手はただ、与えられたものの美しさや不思議さに魅せられるしかない。しかし、そろそろ、受け手自身である自分に眼差しを向けてはどうだ。見ることにおいて、見られることの方に意識を向ければ、眼はそれこそ、女(め)となり、また、芽(め)となることができはしないだろうか。
眼がモノを見ているとき、モノもまた眼を見ている。眼がモノから放たれる光を見ているとき、モノもまた眼から放たれる光を見ている。僕らの眼はまだ十分に開いてはいない。眼が完全に開いたときには、もはや、モノを見る必要はなくなるだろう。僕らの眼とモノの眼が出会うとき、二つの眼は光そのものになる。光になれば、世界から見る主体も見られる表象も消え去る。そこに出現するのはタブラ・ラサとしての世界だ。
さて、何を描こう。。。
ヌースの芸術がここから始まる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: 表相